違和感。
それを嗅ぎ取ったのは裏葉の方であった。
今進んでいる森の道、進行方向にある微妙なズレ。
何が違うとも言えない、それに今は――――
「ククク、もっと…もっと楽しませるのだっ」
文字通りの「鬼」が追撃してきている。
相手の装備から狭い所が有利と判断した2人は
木々の間ををかいくぐり、ニウェを振り切ろうとしていたのだが――
「ぬぅんッ」
ザガァッ
相手はその長い柄がついた鉈のような武器で軽々と木々を薙ぎ払い、直進して追ってきた。
(余計なことを考えていてはっ……)
彼女は追ってくる男に意識を集中させ、夫に掛けようとしたその言葉を飲み込んだ。
「この天檄が、主らを直接叩けぬことを悔しがっておるわっ」
また背後で木の破壊される音。一歩近くなっていることを確信する。
そして――結局眼の前の罠を発見することは出来なかった。
そんなシリアスな展開から10数時間後、
某所で2人の平和な少年は熱く語り合っていた。
アルコールでも入っているのか、2人はノリノリである。
それも当然か、飲んでいるのはあの世界に誇る高級酒『来栖川の怒り』、しかも無料。
真実は――まぁ置いておこう。
今、ノッてきた二人の語らいは、昼間こなした「仕事」のことで佳境に達していた。
「しかし、さきほどのアレは会心の出来であった…」
グラスに残っていた僅かな液体を飲み干し、北川は息をついた。
「ほほー、越後屋自らが会心の出来とは。んで、どんなのなんだ?」
尋ねられた少年の目がキランッと輝く。そして、一気にまくし立てた。
「ある一定区域に入ると地面に仕掛けられた砲弾が上に飛び出し、上空からとりもちを撒き散らす。
罠そのものと、センサーが別になっているため、どんな玄人にも見分けることは困難、
その上とりもちの方角は360度万遍なくだ。どんな兵どもでもアレにかかれば仔羊と成り下がる代物よ!」
どっちかってーと、色物ではないかと思えなくも無いが、彼のパートナーは本気で感心し、賛辞を送る。
「完っ璧、ですな。ふーむ、なかなかやるなぁ」
「もちろんだ、アレを発動させないことが出来るやつなど、おらぬわ、わははははは!」
「わははははは! ところで、俺の方はだな……」
そして、二人は朝まで語り尽くすのであった……
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
2人が、屋台に辿り着き、真実を知るのは何時になるのであろうか?
とにかく、何も知らない2人は今、とてもとても幸せだった。
―――そして幸せな彼らは知らない。今から時を遥か遡った森の中で、
話題のワナは、すでに発動していたということを。
「ぬぅんッ」
ザガァッ
恐ろしく近くまで、途方もない獣が迫ってきている。
こんな状況であるというのに、いや、それ故にか――柳也は己の感覚が大地を蹴り、
枝葉を掻い潜るたびに、細く、鋭く、研ぎ澄まされていくのを感じていた。
(今なら……裏葉一人なら逃がせるか!?)
左手を腰の鞘に軽く添えて――だが、思い直す。
(だめだ。これはあくまで鬼ごっこ。峰打ちといえど相手を叩くわけにはいかぬ。
それに……こいつは人間の域を越えている……もしもの時、裏葉1人では…)
後ろをちらと見やると、いつ何時でも涼やかな姿を崩さなかった裏葉の顔は真っ赤に染まり、
どれほど苦痛なときでも穏やかであった呼吸は強く、そして激しく乱れていた。
それでもなお、一瞬合った目が、優しく、力強く返事をしてくる。
(そうだ、まだっ)
諦めない。
こんな相手でも、2人でなら行ける。そんな気がした。
自分の連れ添いの手を強く握り、駆ける。
その一歩がまた一つ速くなった。
ズガンッ
「この天檄が、主らを直接叩けぬことを悔しがっておるわっ」
また木の幹が切断されたのだろう。だがその音は確実に近くなっている。
後ろに感覚を残し目の前の木々の隙間を抜けたと思った、その次の瞬間。
柳也の眼前で、大地が膨らんだ。
キンッッ!!!!!
北川潤渾身の後期型罠の存在。柳也はそれに欠片も気が付いていなかった。
追ってくる相手にばかり集中して、この森に罠が仕掛けてあることなんて頭の片隅にも無かった。
裏葉のように違和感も覚えなかった。当然、予想だってしていなかった。
だが、柳也の抜き打ちは眼の前を跳ねた「何か」を真っ二つにしていた。
つい先程まで妻の手を握っていたはずの手には今、腰の鞘に納められていた刀が、握られている。
愚直で、それゆえに力強い輝きを持つ、柳也の愛刀。
その一閃は、発動したら全てを無力化させるはずであった罠を、完全に無意味な物体へと変えていた。
いきなりの出来事に、ニウェも少し呆けたように口元を半開きにし、歩みを止める。
その刹那を裏葉は見逃さなかった。
派手なことをしながら一時も気を緩めなかった鬼。
その高く堅い壁のような心が、今、少しだけ隙間を見せたのだから。
それから少し後―――
空をプカプカと浮かぶ相手にニウェは臍を噛んでいた。
「ふははは、この刀は神刀・無骸。地上に残りし神を宿すこの刃。空を飛ぶことなど、造作も無いわっ」
女を抱きかかえ、ふわふわと浮かんでいく男。もう既に遠いはずなのにその声はなぜか良く通っていた。
「おのれぇい! このような結末、認めはせぬぞ!!」
空に向かって叫び、天檄を上に振るう。だが相手は強烈な風にもびくともしない。
「クッ、神刀・無骸か……クククッ、そこから叩き落し、その刀、我が物にしてくれるわっ」
シケリペチムの皇は、雲の隙間から覗く青空に向かって吼えた。
一方、空に向かって語りかけるニウェのその脇の茂みを移動する男女が一組。
『何もない』空に語りかけている男を後ろにし、さくさくと移動していた。
その片手はしっかりとお互いを握り締めている。
「見事、だな。眩惑の術とはあそこまで……」
「あの御仁も、精一杯であったのでございましょう。それだけに効き目もより良く」
「そうか」
「ですが、それもこれも、柳也さまが隙を作ってくださったおかげでございます」
「……そうか……」
照れる。が、ふと思い出したことでもあったのか、にやけた口元が元に戻った。
「ところで裏葉よ……」
「何でございましょう?」
「こいつは銘無し(ななし)だ。無骸なんてけったいな名前じゃないぞ」
少し拗ねた、と言うか、呆れた様子で語る夫に対し妻は笑顔で返す。
「柳也さまは、もう二度と人を殺めることは無いのでございましょう?」
「それは……そうだが。何の関係がある」
はるか昔、少女と約束した殺さずの誓いを思い出す。
だがこの鬼ごっこで人を殺めないのは当然のこと、妻が何を言いたいのか分からなかった。
「ですから、その子は人に対して『無害』なのでございますよ」
おあとがよろしいようで。
【柳也、裏葉夫妻 二ウェを撃退】
【二ウェ 空に向かって毒づく。2人に逃げられたことに気付いていない】