夏。
アブラゼミの鳴き声と刺すような日差し。
一陣の風が運んできた夏草の青さが、ふっと鼻梁に香った。
「せやけど暑すぎやで、今日は」
Tシャツをパタパタとさせながら、晴子は愚痴をこぼした。
「夏らしくていいじゃないか」と僕は返す。
晴子は呆れたような顔をした。
「アホいいな、ものには限度がある。四十度やで、四十度。ほんま異常気象やわ」
嫌がらせのように居座り続ける太平洋高気圧の影響で、今年の夏は各地で気象観測史の最高気温を塗り替えていた。
そんな猛暑の中を、僕らは歩いている。
海沿いの住宅地からクルマで三十分ほどの所にある小さな山の麓に、こぢんまりとした墓地がある。
そこは時の流れから取り残されたような場所で、墓地の他には放置されて荒れ果てた畑と木造の廃屋があるだけだった。ただその代わり、静かに海を眺めることができる。そんな場所。
その墓地に向かって、僕と晴子は草を掻き分けたようなあぜ道を歩いている。
あれから、もう一年が経つ。今日は娘の、観鈴の命日だった。
墓地に着いた僕らはそのまま水汲み場に向かう。ステンレスと木で出来た杓とポリバケツを借りて、参道に入った。
墓地の真ん中に見える大きな樫の木。それが観鈴の墓の目印だ。
「もっと近くにある墓地を探しても良かったんじゃないのか?」
僕は訊いた。
「ほらっ、見てみ」
晴子は右手に広がる景観を指す。
「見事な眺めやないか。あの子、海が好きやったから。多生不便でもここがええんや」
この墓地は山の傾斜に沿って段状に墓石を並べてあるから、麓に広がる街並みとその先の夏らしい青に輝く海をよく見渡せる。
「まあ晴子がそう言うなら、いいさ」
彼女らしい解答に、僕は頭をかいた。
やがて、僕たちは観鈴の墓の前に立った。それは、ただそこにあった。
「来たで」
観鈴に語りかけるように、晴子は言った。そのまま静かに立ち尽くす。そこには無言で交わされる、母と子の親密な会話があった。そしてそれを、僕は少しだけ妬ましく思った。
蝉時雨の中、緩やかに時間は流れていく。樫の木がさわさわと風になびいて、日差しを浴びた枝葉の落とす影が、辺りに揺らめいていた。
「ん? なんやろ……あれ」
不意に、晴子は言った。訝しそうに指を指す。
御影石でできた石柱の下、水鉢の脇に何か光るものがあった。晴子はしゃがみ込んでそれを手に取る。
「鈴や……」
朱に染められた布で縛らた二つの鈴は、くすんだような金色をしていた。その色合いから、かなり古い時代の物だと分かる。
「誰かが忘れていったのかな?」
僕は訊いた。
「さあ、うちが訊きたいわ。……あ、でもこれ、きっと高価なもんやで」
鈴に付いた朱色の布を、晴子は手触りを確かめるように撫でる。
「これ、絹や……。なんか、髪飾りかも知れへん」
「髪飾り?」
晴子は頷いた後、そのまま食い入るように、じっとその鈴を見つめる。
やがて、はっと目を見開いて僕の方を振り向いた。
「……これ誰かが、――手向けてくれたんやろか?」
悲しみと希望とが複雑に入り交じった表情で、晴子は僕に訊いた。
観鈴には僕ら以外、何かを手向けてくれる人がいなかった。友達と呼べる人を作れなかったから。――いや、ただ一人だけいたと聞いたけど、その人は何処かへ行ってしまったのだという。
そのことを晴子はずいぶんと悔しがっていた。そしてそれは、僕の悔いでもある。だから、
「……そうかも知れないな」
可能性はゼロじゃないから、僕はそう答えた。
その時だった。
さわさわと木々がざわめいた。墓地全体の空気が、震え始めた。
「え? なに?」
空気の変化を感じた僕と晴子は、キョロキョロと辺りを見渡す。
「――あそこっ!」
僕は叫んでいた。
遠くに見える峰の木々が、見えない何かに撫で付けられるように揺れていた。その何かはこの墓地を目指して、一直線に近づいてくる。――速い。
「晴子! 伏せるんだ!」
「ええ? ――きゃっ!」
突然の横殴りの突風に、声が掻き消される。ごうごうと、風の轟音が空気を裂く。晴子の頭を抱きかかえながら、僕は目を細めてその突風をやり過ごそうとした――その刹那だった。
――礼を言うぞ。
女童の声を、確かに聞いた。薄目を開けて、頭上を見る。ほぼ水平にしなる木々の向こうに、ほんの一瞬、飛翔する何かの影を見た。それは夏の陽炎のように儚げな像を結んで、そして消えていった。
その突風は通り過ぎていった。
僕と晴子は一つ息を吐いて、惚けたように顔を見合わせた。
「えらい季節外れの風やな。春一番なら、とっくやで」
僕は肩を竦めた。
「せやけど、なんや……おかしな風やったわ」
「え?」
「なんか……、女の子の声が聞こえた」
気のせいだったかとも考え始めていたから僕は、驚いて訊く。
「晴子にも、聞こえたのか?」
「あんたも聞いたんか? 礼を言うとかなんとか」
僕はゆっくりと頷いた。
僅かな静寂の後、蝉の声が再び木霊し始める。まるで何事もなかったかのように。
晴子はうんせと立ち上がって言う。
「不思議なことも、あるもんやな」
僕らが聞いた声が何だったのか。それは、きっと分からない類のことなんだろう。でも、二人とも、確かに聞いたのだ。誰かの言葉を。でもそれは、
「たぶん……、観鈴に、だろうな」
観鈴は何かと戦っていたと、晴子から聞いていた。
「せや」
晴子は短く答えて、過ぎ去った風を見送るように、夏の大気を見上げていた。
「この鈴、どうしよう。ここに置いとくんもなぁ……」
「いいんじゃないか? 預かっておけば」
晴子は少しの逡巡の後、「……分かった。そうする」と言った。
鈴を手にとって、りんと鳴らす。
意外なほど綺麗な音色に、僕らは思わず口許を綻ばせる。
何処までも、時間も空間も飛び越えて鳴り響いていくような鈴の音。それはあの一瞬に僕が見た、翼を持った少女の、観鈴への手向けなのかも知れないと、僕に思わせた。
それは、そんな音色だった。