私は風に憧れる。
自由な風に憧れる。
私はここから動けない。
大地に一人、根を下ろす。
だから私は憧れる。
自由な旅人に憧れる。
そう、私は木であった。
かってはこの街を見守る、大きな大きな木であった―――。
しかし今となっては、私の頭上にはただ空が四角く広がっているに過ぎない。
地上に広々と影を落とした幾千もの葉も枝も今は失われ、もう風に揺られながらざわめきを奏でることもない。
かっては私より背の低かった木々が、いまや私よりはるかに高くなって視界を塞いでしまったため、
ここからでは街など見ることも、もはや到底かなわない。
……すなわち、私は退屈だった。
だから私は待っている。
あの旅人を、待っている。
また話を聞かせてほしい。
また世界のことを教えて欲しい。
ここを動けない私を、遥か遠い場所へ連れていって欲しい。
こうしてここでじっとしているだけで、彼のことをつい考えてしまう。
人間は、風などすべて同じものだと思っているかもしれない。
しかし、違うのだ。
毎日世界中に風が吹いていることから予想できるように、風は一つではないのだ。
ここにだって毎日風は吹くが、その風は毎日違う。
しかし、彼は特別なのだ。
私と同じように、この地で生まれた風なのだから。
この地で生まれた風もまた、世界を巡ってここに戻ってくる。
私よりずっとずっと昔に生まれたあの風は、気まぐれにここに立ち寄る。
そして、私のような退屈している者とおしゃべりをして時間を潰し、一休みしてまた去っていく。
まったくせわしがない。
生まれ故郷でくらい、ゆっくりしていけばよかろうに。
だから人間は旅人のことを風来坊などと呼ぶのだよ。
……おや、大気が揺らぎ始めた。
混沌とした水の底をかき混ぜたかのように、
下から上へ、上から下へと大気が流れていく。
来る。
旅人が。
私の旧友が。
このぽっかりと空いた空間を駆け回り、
ざわざわと周囲の木々すらも揺らして、
うっすらと降り積もった粉雪をも舞い上げ、
そして、
風が―――――来た。
ああ、久しぶりだな。
元気か? いや、私は元気だよ。
こんな姿になっても、死んだわけではないからな。
相変わらず、本当に楽しそうに世界を駆け回っているな。
いやいや、私も君が来てくれて嬉しいよ。
そうだな、久しぶりだな。
また一緒に、積もり積もった話をしようか。
なぜか今日の私はちょっとセンチメンタルな気分でな。
ちょっとしゃべりすぎてしまうかもしれん。
君に落ち着いてというのは無理な注文かもしれないが、ふふふ、
まあゆっくり聞いてくれたまえ。
たまにはいいものだぞ、他人の思い出話を聞くというのも。
私がこの地に芽吹いたとき、私はまだ何も知らない赤ん坊だった。
そんな私に最初に話し掛けてきてくれたのは、その全身を雄大に構えながら私を支えてくれていた大地だったが、
本当に私に色々なことを教えてくれたのは旅人である君だったな。
君と話をするようになって、もうどれほどの月日が流れたのだろうか。
ここを動けない私のために、君は私の知らないいろいろなことを話してくれた。
はるか昔、君が話してくれた翼を持つ者たちは、今どうしているのだろう?
今も遥か青空の彼方にて、風をその身に受けながら気持ちよさそうに飛んでいるのだろうか?
それとも、今は地上に降りて、空を見上げながらその足で地上を歩いているのだろうか?
君も1000年前からずっと彼女たちに会っていないそうだが、どうしたのだろうな?
彼女たちにとって、君はなくてはならない存在だ。
翼だけでは空は飛べない。
翼で風を掴むから飛べるのだ。
君の手で、彼女たちをまた空に飛ばせる日が来るといいものだな。
そういえば、あの少女は元気だろうか?
ほら、屋上でいつも君を待っていた少女のことだよ。
君は人間の目には見えないが、人間は誰しもその身で風を感じることが出来る。
そして彼女は目が見えないからこそ、彼女は全身で君の全てを感じようとすることが出来たのだろう。
出来ることなら君が、たまにでいいから、彼女の側にいてやって欲しいものだ。
彼女に世界を見せる……いや、感じさせるために。
彼女に一欠片の勇気を、届けるために。
しっかりやれよ、君。
まあ、そういった、この街を遠く離れた地の出来事を私が知れたのも、ひとえに君のおかげに他ならない。
まるで子供に絵本を読んであげる母親のように、時には優しそうに、時には楽しそうに、
尽きることのない物語の数々を語ってくれたものだったな。
本当に感謝しているよ。
君がいなければ、私の人生はひどく退屈なものになっていたかもしれないのだから。
君は風だ。
どこにでも行ける。
どんな人にも会える。
もしかしたら君は私のことも、異国の誰かに話しているのかもしれないな。
しかし、やはり私はこの街が好きだ。
この街を離れたいなどと考えたこともないよ。
私が生まれて幾年月。
いつからだろう、私がこの街を見下ろせるほど大きな存在になれたのは。
そのころにはこの地にも人が集まり、やがて大きな街へと発展していった。
その街と、人々が成長する様を見るのは本当に楽しかった。
私は常にこの街を見守ってきた。
そんな街の出来事が、やはり私にとっては何より印象深い。
そう、例えば……。
そうそう、君の記憶が見せてくれたあの麦畑は、本当に奇麗だった。
ここからでは、遠すぎてただ金色の絨毯が敷かれているようにしか見えないからな。
君があそこを通り過ぎるたび、黄金色に輝く幾千もの麦穂が揺れる様は、春の華やかな桜吹雪に勝るとも劣らない。
そんな麦畑を無邪気に駆け回っていたあの少女も、今は麦畑が無くなって少し寂しい思いをしていないだろうかね?
うんそうだ、君はこの街に立ち寄るとかならずあの丘に行っていたな。
あそこはこの街には数少ない、今でも君が自由に駆け回ることの出来る場所だからな。
……ほう、あの丘でずっと待っていたあの子に、あの人間の匂いを届けたというのか。
それはそれは、さぞかしあの子も待ちくたびれていただろう。
あの子のことだ。匂いが届いたやいなや、すぐにでもあの人間に会いに行ったのではないのかね?
ふふ、君も意外とおせっかいなことをするじゃないか。
いやしかし、やはり君と私の思い出は、あの少女を抜きにしては語れまい。
彼女のことは―――君も私も、おそらく一生忘れられまい。
彼女との付き合いは、私にとってもほんのわずかな時間でしかなかった。
だが、その短期間で彼女の存在は私の中に永遠に刻み込まれることとなった。
あの人間に連れられ、私の元へきたあの少女。
私の上に登り、私が見ている景色を共に眺めるのが好きだったあの少女。
私が普段何気なく眺めていた街の全景も、彼女にとってはこの上ない絶景だったようだ。
彼女の抱いた新鮮な感動が、私にまで伝わってきていたよ。
…もう、彼女がその景色を眺めることはできないのだがな。
ああ、君が謝る必要はない。
君がわざと彼女を突き落としたわけではないことぐらい、十分承知している。
彼女をしっかりと支えられなかった私も悪かったのだ。
誰が一番悪いというわけではない。
結局、みんながみんな、どこかで悪かったのだろう。
もちろん、それで彼女に対する責任を逃れるつもりはないさ。
この身が切り倒されようと、それでもまだ彼女に償いきれない気持ちでいっぱいなんだ。
私達は……どうすればよいのだろうな?
そして、ついさっき―――
彼女は、空に帰っていったのだよ。
私の目の前で、君とは違う風に乗って、遥かな高みへ。
誰も届かない、遠い遠い雲の上まで……。
よほど私は、彼女と縁があるらしい。
目の前で二度も、彼女との別れを経験するとは。
彼女はちゃんと帰れたのだろうか?
帰れたのならいいのだが。
願わくば、今度こそ……今度こそ彼女には幸せが訪れて欲しいものだ。
……
…………
………………
だいぶ長話になってしまったな、申し訳ない。
年を取るとどうもいかんなぁ。退屈ではなかったかね? ああ、それならいいのだが。
おやおや、もう行ってしまうのか。
ふふ、やはり君は旅人だよ。
誰も君を縛ることは出来ない。
誰も君を止めることは出来ない。
風来坊の名は、君にこそふさわしい。
私はおそらく、君の旅の終着点をいっしょに見ることは出来まい。
命あるモノ、全てに終わりはやってくる。
君は大気が……いや、この星がある限り生き続けることが出来るからな。
いや、それとも君の旅に終着点などないのかな?
この世界は諸行無常。
人も、街も、景色も、すべてが変わって行く。
そのたびに君の旅は、また新しい旅へと変わることができるのだから。
まあ、私は今や切り株だけの存在となってしまったが、なぁに、私とてまだまだ生きているよ。
もうしばらくは、君の旅に付き合わせてもらうとしようか。
もしも私が死のうとも、いつの日か、私にもまた新しい生命が宿る日が来るだろう。
その時は、君の旅に付き合う役目も、この命と共に受け継がせればよいのだ。
命は続く。
どこまでも続く。
出会いと別れを繰り返しながら。
そして全ての命が、その長い長い旅路の中を、風と共に、この星と共に歩んで行く。
ここは、風の辿り着く場所。
そして、君の帰るべき場所。
長い長い旅に疲れたら、いつでもここに来るがよい。
さあ、しばしのお別れだ。
行け、風よ。
悠久の旅人よ。
また出会えるその日まで、私はここで待っている――――。
完