鉄製の重い扉を開いて屋上に出たとき、そこは紅であふれていた。
没しかけの陽光に瞳を細めると、そこにひとつのシルエット。
朱色の逆光の中、来客に注がれる優しげで焦点の合わない瞳。
夕暮れの時を送る屋上に、二つの影が佇んでいる。
ぱち、ぱち……。
空気中に漂う電子の粒が、統一された意識に沿って運動を始める。
円を描き、渦を巻き、指向性を持って、遠く離れた場所へと。
その中心には一人の少女。両手を広げ瞼を下ろし、ゆらゆらと揺れて。
「……いくよ」
閉じられていた瞳が、ぱちりと開く。
意識が、飛ぶように疾る。
「……来たね」
脳裏に現れる明確な気配。長い黒髪を風に遊ばせて、くるりと振り返った。
開かれた瞳には何も見えない。それでも彼女には視えている。
耳、鼻、肌、そしてそれを越えた第六感とも呼べるものが、彼女の世界を広くする。
構えはない。ただ微笑みを浮かべ、待ち受ける。
風が、真正面から吹き付けてきた。
それを不動のままに、迎え撃つ。
腕を振るう。その何の変哲もない動きが、風を裂いて、雷を纏う。
いち、に、さん。
立て続けに三振り。全て空を切る。
自らの脊椎を軸にして左右左と捻られた胴体が、きり、と少しだけ悲鳴をあげる。
それでも、止まらない。
頬を掠め撫でていく風を感じながら、背に真紅の陽光を浴びて。
加速する。加速する。
ゆらり、とまるで蜃気楼のように身体を揺らす。
びゅうびゅうと彼女の周囲を、静電気を纏った風が吹き抜けてゆく。
そのお返しに一度だけ、広げた手を繰り出した。
手応えはない。細くたおやかな指先は、ただ大気を裂くのみ。
顔に胸に、そして瞳に、ただ暖かな光を感じながら。
びゅう、と一際強烈な風が、彼女の豊かな髪に覆われた背を襲う。
一撃。
両手を揃えて突き出した。
手応えがあった。ゆらめく。広がる。弾ける。
瞬間、再びその手に衝撃。突風。バランスを崩して、慌てて体勢を整える。
わずかな減速。靴底がしっかりと体重を支え、屋上の床にゴムが擦れて。
そのまま上体を反らす。風が首筋を撫でていく。
背後に向けて跳ぶ。そしてまた、加速する。
前に一、二歩たたらを踏む。ずしん、と胴体に響く衝撃。
人並みはずれて頑強な内臓が、ぎゅうと声を上げた。意識を集中させ、押さえ込む。
そのまま姿勢を沈めて身体をひねる。前によろけた分の間合いを、一歩で縮める。
自らを徹したものに、全身を肩からぶつけ、捻る。衝撃が散る。
音。靴底が擦れる音。匂い。ゴムが擦れ、摩擦で焼ける匂い。
その方向に目掛け、貫手を振るう。動きが鈍る。肌を掠めた。
滑るような足捌きで追いかける。
ぱりっ。
全身が静電気を纏う。空中で姿勢を前傾に修正する。
ぶわっ、と全身を突風と、悪寒が襲う。
真正面、先程背にしていた夕陽が、瞳を灼いた。
胸の前で両腕を十字に交差させる。思っていた衝撃はない。
代わりにゆっくりと、おだやかに、風が近づいて。
「あ……」
しまった、と思う間もなく、腕をつかまれた。そのまま引き寄せられ――。
どんどんと間合いを詰める。
手が届くギリギリの射程から、更に半歩踏み込んで手を伸ばした。
目と鼻の先で気配が固まる。そこに向けて指を突き立て……ようとして、思い直す。
ぱちっ。
「……っ」
静電気。反射的に腕を引っ込めようとして留まった。ゆっくりと腕を掴む。
ぎゅー、と逃さないように握り締める。そのまま腕を畳み、引き寄せ――。
ぱちき一閃。
額と額が、激突した。
「瑠璃子さん!」
祐介は、目の前で糸が切れたように倒れそうになった瑠璃子を、慌てて抱きとめた。
そこは、いつもの学校の屋上。
くるくると、おどけたように踊る瑠璃子に、祐介は見とれていた。
電波のリズムに乗って舞う彼女を眺めていたら、不意に瑠璃子が力を失ったのだ。
「……長瀬ちゃん?」
「瑠璃子さん、大丈夫?」
心配そうに顔を覗き込む祐介に、微笑んで応える瑠璃子。
目尻には涙。ちなみに彼女の頭の中は、いまだくわんくわんと回っている。
「瑠璃子さん、何をしてたの?」
「イメージトレーニング」
「い、いめ?」
「これができると、遠くにいる人と、自由に組手ができるんだよ」
「……何を言ってるのかよくわからないよ瑠璃子さん」
狼狽する祐介に構わず、言葉を続ける瑠璃子。
「そのうち、長瀬ちゃんにもわかるよ。……アストラルバスターズ、万歳」
そこまで言って、かくん、と首の力を失い瞳を閉じる瑠璃子。
「瑠璃子さん!?」
すー、すー、と寝息。ホッとする祐介。
彼女の言動はいつも唐突だ。そんなことを考えながら、寝顔を見て和む。
さわやかな風を感じながら祐介は、彼女が起きるまで一緒にいてあげようと思った。
「……浩平君?」
「あ、ああ、うん。俺だよ。折原浩平」
そこは、いつもの学校の屋上。
浩平は、何か見えないものを見ているようなみさきを、呆然として見ていた。
何かを掴むように手を伸ばし、何かに押されたように前によろけて。
そして何かを追いかけるように走り、何かを捕まえて、引き寄せて……動きを止めた。
――びしぃっ! と、空気が震えた気がした。そして、冒頭の会話に続く。
「みさき先輩、何やってたんだ?」
「ん、よく判らないけど、誰かが風に乗ってやってきたように感じたんだよ」
そう言いながら、少しだけくらり、とよろけるみさき。
が、すぐに体勢を立て直して、いつかのように両手で額を抑えた。
「うー、まだちょっとくらくらするよ〜」
「うん? どこかぶつけたのか?」
「大丈夫だよ。キメた瞬間に接続が切れたみたいだから、一撃でKOだよ」
「……これはかなりの重症だ。深山さんはどこだ!? みさき先輩の頭が重症だっ!」
「ひ、酷いよー、浩平君!」
そこで、きゅう、と可愛らしい音が響く。浩平は思わず音の主を見つめてしまった。
視線が合う。いや、本来は合うはずがないのだが、浩平はロックオンされたように思った。
「浩平君、運動したらお腹すいちゃったよ。食堂で何か食べたいなあ」
「……深山さんはどこだ!? 俺の財布が危篤寸前だっ!」
慌てて校内に飛び込もうとする浩平と、それを笑いながら追いかけるみさき。
そんな二人に吹く風は、暖かな幸せに彩られているかのように優しげだった。