「――は!」
気合の一声とともにグローブに包んだ拳が伸びるが、綾香さんはくすっと笑ってそれをいとも容易くかわす。別の角度から強引にハイキックを放っていたが、それも見切っていたのか綾香さんは軽く体を前後して、一気に私との間合いを詰めた。
「まあまあ、ね。でも隙が大きいわ」
次の瞬間、私は御腹を掌で打たれていた。
全身を揺れるような衝撃に襲われる。私はその場に崩れ落ちていた。
「大丈夫か葵ちゃん?」
藤田先輩の声に辛うじて頷く私では綾香さんの顔を見ることまでは出来なかった。
打撃系の衝撃とは異なり一部分が痛いという訳ではない。体全身を襲った揺れは長時間乗り物になったような気だるさと吐き気を私にプレゼントしてくれたのだ。
しかも、これは――
「あれ……崩拳か?」
「ええ、そうよ」
藤田先輩の言葉に、綾香さんは相槌を打った。
「葵と敏恵との勝負を見た時、なかなか使えると思っったのよね」
少しショックだった。
同じ技を使われたこともだけど、それよりも容易く同じ技を使いこなすことができる綾香さんを見ていると、私の道場に通っていた時間は何だったのかと思えるから。そして、自分が練習台になったことも含めて。
それに付いては練習を見てほしいと言った私が言える科白ではなかったけど。
体を襲っていた気だるさも無くなったところで、
「綾香さん凄いです!」
私は綾香さんに向かって笑顔を向けていた。
「あのね、葵」
困った表情で綾香さんは私の目を見て言った。
「負かされた相手を褒めてもどうするのよ?」
「……はい?」
「もっと悔しがらないと駄目じゃない」
私は目をぱちくりと瞬いて、
「でも、相手は綾香さんです。私では負けても仕方ないと思います」
「うーん、浩之、あんた葵の彼氏でしょう? 何とか言ってやってくれない?」
「あ、綾香さん」
「うん? 何なに? 今更照れる仲でもないでしょう?」
と、言われても顔が火照ってしまう。
それに藤田先輩自身は、苦笑のみでその言葉を交わしていたので、
(あう、私は修行不足なのでしょうか?)
武道家たるもの精神の鍛練が疎かなんて格好つかないと思った。
藤田先輩は、難しそうに眉根を寄せて、
「憧れもほどほどにってことか……」
「……え?」
と言うので、何のことやら分からない。
「葵ちゃん」
「は、はい!」
思わず背筋を伸ばして起立した。
真面目な時の先輩の言葉はそうするにたるものがあった。
「葵ちゃんは、いつか綾香に勝ちたいって思ってるんだろう?」
「もちろんです」
綾香さんに勝つ。
物凄くそれは甘い響きを持って私の耳に響いた。
「でも、葵ちゃんはいつまで思ってるままなの?」
「……え?」
いつまで? どういう意味だろう。
努力は続けている。一日だって練習は休んだことはない。他の道場にも通ってエクストリームのための技の研究も怠っていない。
「葵、よく聞きなさい。あなたは、私に負けても良いと思ってるのよ。どこか心の奥底で私相手だったら負けても構わない仕方ないってね」
「そ、そんな……」
綾香さんは憧れの存在で、強くて綺麗で優しくて、非の打ち所のないお嬢様で、私なんかじゃ叶うわけないってやっぱり思うけど、負けてもいいなんて一度たりともも思ったことはない。
私は格闘技が好きだし、その目標は綾香さんに他ならないから。
「それは、誤解です」
胸を張ってそれだけは言えた。
「違わないわね」
でも、それはすぐさま否定される。
「……そんなこと」
「葵は力を付けて来てるわ。私でも本当は気を抜けないくらいにね」
嬉しい言葉だけど、過大評価だった。
現にさきほどの立ち合いはものの数瞬で綾香さんにKOされた。
「公式試合だと葵も少しは気を張って戦えるんでしょうけど……それ以外だと、てんで駄目ね。
私はね、葵、あなたならライバルになってくれると期待してるのよ? エクストリームを私が始めたのは、より実践向きでより強くなれると思ったから。そして、あなたと敏恵の決闘を見て確信したわ。怖いのは、あなただったてね」
「…………?」
綾香さんが私を怖い? 私はまさかと頭を振った。
あれは本来、私が負けていても可笑しくなかった。それを坂下先輩を差し置いて、私のことをライバルとか怖いとかなんて、冗談としては出来すぎて笑えない。
「分からない? 私はあなたの技を真似ることが出来た。いえ、これは技と言う形態がある以上、誰にでも扱える技術に過ぎないわ。あなたを怖いと思ったのは、こんな小手先の技じゃないのよ」
「……小手先の技」
容易に私の学んでいた技を会得した綾香さん。
確かに小手先の技なのかもしれない。
「でも、だからこそ余計に力の差を感じるんです……!」
一瞬、はっとした。何を言ってるんだかと思った。
それなのに、言葉は止まらなかった。
「綾香さんは凄いです。凄いんです。私が一生懸命練習して来た技をすぐに出来て。ずるいくらい何でも出来て。だから、勝てなくて……それを、仕方ないと思うくらい許してくれていいじゃないですか!」
綾香さんは憧れの人。
手の届かない存在。
遠くから眺めているだけで満足だと思ってた。
(でも……)
ああ、何だ。綾香さんの言った通りだ。
(綾香さんになら負けても良いって思ってた)
それは、仕方のないことだから。
勝てなくて当たり前だから。
「葵……」
綾香さんの哀れみを含んだ目。
当然だろう。
――私は、綾香さんに嫉妬していた。
自分でも気づかないくらいに。
日々、その気持ちが膨れていたなんて。
「……荒療治が必要かしら」
溜息を吐き出して綾香さんは藤田先輩を見つめる。
うーん、と頭を掻いて、
「葵、弱くなったわね」
「…………」
弱くなった。そうかもしれない。
泣き言を吐くなんて自分でも信じられなかった。
綾香さんのこと盲信していたら良かったのに。
そうしていれば、今も前向きに頑張っていられたと言うのに。
どうして、それが出来なくなったんだろう?
「浩之を懸けて私と勝負しない?」
私は、呆然とした。
「そうね、場所はここ。日時は、一週間後。審判は敏恵にしてもらおうか」
「……おい、綾香。聞いてた話と違うぞ」
「浩之は黙ってて。いいわね、葵?」
良い訳がなかった。
私は無理だと首をぶんぶんと横に振った。
「じゃあ、不戦勝ってことでいい? 浩之と別れてもらうわよ?」
「そ、そんなっ!」
「だって、葵が弱くなったのは浩之がいるせいだもの」
「……え?」
それは、違うと思う。
藤田先輩が居なくて寂しいと思ったことはあるけど、
居てくれたのは嬉しいことだし、弱くなったなんて理屈はなんにしても強引過ぎる。
(でも、先輩が居ることで安心もしてしまってる……)
それに、頼ってしまう。
綾香さんの言葉を、私は否定できなかった。
「俺は、物じゃねーぞ」
「まあまあ、商品は黙ってなさい」
どうする? と綾香さんは目で合図を送ってくる。
私は、綾香さんに勝てるのだろうか?
答えは、決まっていた。
――勝てるわけがない。
でも女には多分、男の人とは少し違うけど、退けない時もあるのだと思う。
「……分かりました」
気が付いた時には、私は頷いていた。
夕暮れの帰り道、カラスの鳴き声が遠くで聞こえた。
途中まで藤田先輩と歩く過程は同じだったけど、今日はその泣き声が否応にも耳に残った。
「気にしなくていいぜ、葵ちゃん」
「……」
「綾香はあんなこと言ってたけど、別れるつもりねーからさ」
「……先輩」
藤田先輩の言葉は嬉しいけど、
「綾香さん強いです」
「まあ、そりゃそうだと思うけど……」
「それに、綺麗ですよね」
「まあ、それもそうだと思うけど……」
「その上、優しいです……」
「……ん? どうしたんだ、葵ちゃん」
「私は、綾香さんに勝てません」
どれを取っても。何をしても。もしかしたら、藤田先輩のことさえも。
「大丈夫だ。また、練習すればいい」
「……ごめんなさい、先輩。試合までは、ひとりで特訓したいんです」
空手に戻れ、と坂下先輩に言われた時は、どうにかなるかもしれないと漠然に思った。
でも今度の相手は、綾香さんだ。
普通に、稽古しても勝てるとは思わない。
藤田先輩が助けてくれるのならそれ以上心強いことはない。
――浩之のせいで葵は弱くなったのよ。
だけど、その言葉が胸を締め付ける。
藤田先輩の助けなく訓練して綾香さんに勝たなくてはいけない。
そうしないと駄目だと思う。
「さようなら、先輩」
私は、気遣ってくれる人に背を向けて駆け出した。
だって、綾香さんは多分……。
藤田先輩のことが好きだから。
稽古に身の入らない日々が続いた。
藤田先輩は駄目だと言ったのに神社の方まで来るので通っていた町道場で私は練習させてもらっていたが、どうにも落ち着かない。
新しい技を会得しようとも思ったけど、一週間で身につけた技がどれほどのものかと先生に叱られた。
かじった程度の技で私も綾香さんに勝てるわけがない。
その時の私は、それすら気付かなかったらしい。
(でも、何か決定打がほしいな……)
綾香さんが崩拳を身に付けたのは、その方が封じ手を見つけ易いからだろう。
知らない技こそ対戦者にとっての脅威はない。
「綾香さんは……」
きっといくつも技を持っているに違いない。
私にとって未知なものもそこに含まれていることは想像に難くなかった。
どう想像を巡らせても勝てる要素が見出せない。
時間だけが過ぎていく。
「松原さん」
道場に通っている同門の人が私を呼んだ。
何だろうと思っていると、
「お客さん来てるよ」
「……あ、はい。分かりました」
まさか、藤田先輩だろうか。
私は、なんだか複雑な思いで玄関の方まで赴いた。
「よう。葵、元気?」
そこにいたのは、制服姿の坂下先輩だった。
「とうとう綾香と試合するんだってね」
「はい……」
居間よりも中庭でとの坂下先輩の希望で私たちはそこにいた。
木々が青々しく茂って、ししおどしの音も雅を感じさせる庭は、確かに居間よりもいいかもしれない。
それに気を使ってくれたのか、ここには誰の姿もなかった。
「元気ないね。大丈夫か、それで?」
「……勝てないですよ、綾香さんには……」
「勝てないか……」
坂下先輩は、微妙に口元をへの字に曲げた。
「葵……少なくても、わたしは綾香に勝てないなんて思わない。その自信もある」
「…………」
「そのわたしにあなたは勝ったのよ? どうして、信じないの自分の力を」
「坂下先輩に勝てたのは、ほとんど偶然です」
「偶然?」
「そうですよ。崩拳が当たらなかったら負けてました」
「……形意拳の基本にして最強の技。『五行拳』のうちの『劈拳・鑽拳・崩拳・砲拳・横拳』という5つの技のうちのひとつ。崩拳(ほうけん)。まあ、正しくは『ぽんちぇん』というらしいけど……」
「坂下先輩……?」
すらすらと暗証ごとのように言葉が滑り出してくるのを聞いて、私は驚いた。
「あのね、葵。自分が遅れをとった技よ。調べるのは当然でしょう? わたしは空手を最強だと思ってる。でもね、勘違いしないで。中国拳法を知ろうとする行為自体に、こだわりは無いわ」
「…………」
「偶然わたしに勝ったと言ったわね、葵。
確かに、試合において運の要素を無視するわけにはいかないわ。でも技とは、技術に過ぎない。使い手次第で、技もまた小手先のものになる。わたしが葵に負けたのは、偶然でも崩拳のせいでもない。あなたが、松原葵という格闘家だったからよ」
ししおどしの音がかこーんと中庭に響いた。
木の葉が風に踊っていた。
「綾香さんにも似たようなこと言われました」
「……そう。本当は黙っていようと思ったけど、ここに来るまでに二人の人間に出会ったわ。そして、申し合わせたようにこう言うの。葵を頼むってね。でも、やになるわよね。そんなこと言われなくても、わたしはここに来たもの」
誰のことか分かる。
それに、坂下先輩のことも。
「ありがとうございます」
「いいわよ。でも、腑抜けた試合したら許さないからね」
「はい!」
憑き物が落ちたように、私は爽やかに笑うことが出来た。
今、ようやく分かった。
私が格闘技を始めた時、体重を増やそうとして食べすぎで御腹を壊したこと。
格闘技においてウェイトは多いほうが有利。
小柄な私ではそれだけで不利だった。
でも、私は思った。
まず自分の武器は力があるとか技があるだとかそういうことじゃない。
私の小さな体。これこそが私の武器なのだ。
それは、スピード。
何よりそれを身につけたくて訓練していたあの日々。
技に頼るようになったのは、良くも悪くも空手を止めてから。
寝技も入ったエクストリームでは、まず技を知らないと始まらないから。
坂下さんは言った。
――知ろうとする行為自体に、こだわりは無い、と。
本当にそうだ。
技は頼るものじゃない。技は体にあるもの。それを忘れては小手先のものに変わる。
「坂下先輩、私、用事ができました」
「ああ、行っといで」
そうだ。行かないといけない。藤田先輩に会いに。
これも、忘れていたから。
藤田先輩なくして、今の――ううん、これからの私はないんだって。
時は過ぎて、試合当日。
ユニフォームに着替えた綾香さんと私は向き合う。
「いい顔になったわね、葵」
「はい!」
試してみたい。
私という存在がどこまで大きくなれたのか。
どこまで通用するのか。
胸がどきどきするほどの高揚感に包まれる。
「頑張れよ葵ちゃん!」
大切な人の声援に応えるかのように、体は羽のように軽くなる。
坂下先輩が手を上げる。
緊張の一瞬。私は大きく息を吸い込んだ。
「――はじめ!」
手が振り下ろされる。
開始の合図とともに綾香さんは華麗なフットワークで間合いを詰め出した。
でも、私も負けていられない。
今日はもちろん。これからも。ずっとこの先も。
綾香さんは生涯の好敵手だったから。
(先輩、見ていてください)
綾香さんに負けじと私も軽やかにステップを踏んだ。
「松原葵、行きます!」
――そして、今、私は風になる。