今日はお客さんが一人だけだった。
「……」
それがよりにもよって、篠塚弥生さんだった。
「……」
いや、別にお客として問題があるわけじゃない。
だけど無言でカウンターに陣取られると、わけもなくプレッシャーを感じる。
会話はない。名前くらいは冬弥から聞いているけれど、世間話ができるほど親しくはないし、店の姿勢としても良くない。
もちろん、彼女も僕に興味はないようで、あくまでも店員とお客のスタンスを崩さない。まぁ、それは正しいんだけれど。
でも、こういう時には本当に困る。沈黙が痛い。
彼女は優雅な手つきで本をめくり、時折足を組み替え、合間にコーヒーをすする。
ただそれだけの仕草が妙に様になり、そして目を引きつける人だった。
僕はお客さんの前で本を読むこともできず、すでにぴかぴかになったグラスやカップをもう一度磨く。
おじさんは忙しいとかで裏に引っ込んでいるし、こんな日に限って冬弥も留美もひまひま星人のはるかも来ない。
というか、かれこれ一時間以上、お客さんが一人だけなんて――だめなんじゃないの、この店?
『どうすればいいんだ』
無言で叫ぶこと二十一回。
弥生さんと言えば、見た目の妖麗さもさることながら、色々とアダルティな噂のある人だ。
誰からどんな噂を聞いたかは聞かないで欲しい。
確かに美人だし、その……体つきとかも大人の女性って感じで、留美とは大違……
いやいや僕には美咲さんという人が。餅つけ。
こういうときにはあれだ。『明鏡止水』『明鏡止水』『明鏡止水』。よし、落ち着いた。
「――すみません」
「うわああぁぁあっ」
水鏡があっさりと乱れる。
「……? ブレンドをもう一杯頂けますか?」
「あ、はい。いますぐっ」
あー、びっくりした。さっきまで機械的にページをめくっていたかと思ったら、いきなりだもの。
それに、なんで淡々と話しているだけなのに、色っぽい声色なんだこの人は……。
いやいや、『明鏡止水』だってば。いつも通り、普通にコーヒーを入れてと。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
回収したカップにルージュの跡が赤く残っている。
そういえばはるかも留美も美咲さんもアイドルの由綺すらも、化粧っ気があんまりないから、こういうの珍しいなぁ。
いや姉さんたちのは普通に見るけど、あくまでも他人の。
「……?」
はっ。
じっとカップを見つめたまま硬直していたら、怪訝そうに見つめられた。
視線には若干険しいものが混ざっているような気がする。
いえ、別になんてことないです、はい。と、心の中で言い訳して、慌ててカップを洗い出す。
弥生さんは再び本に目を落とし、水音は気まずい沈黙を掻き消してくれた。
そして再び二人切りの時間が始まる。
で。こう見えても僕も年頃の青年ですし。色々と妄想をしてしまうこともあるわけです。分かって。
例えばどうせ表通りからはカウンターの中は見えないからそこに弥生さんが入ってしゃがみ込んで――って、
何を考えているですか僕はっ! ごめんなさい、神様&美咲さん&弥生さん。
壁に激しく頭を打ち付けて反省……また不審な目で見られた。当たり前だけど。
だめだ。このままではプレッシャーに押し潰されてしまいそうだ。
もう誰でも、お客さんでも新聞の集金でも、冬弥でも留美でもはるかでも、
たかりに来るだけの栞ちゃんや澪ちゃんや里村さんでもいいから来て欲しい。
いっそ出前でも取ったろうか。そう、例えばピザとか……って、ここのメニューにピザあるしっ!
だめだ。もう一度、奇跡を呼ぶスペルを唱えよう。『朋鏡止水』『明鏡正水』『明鏡止氷』。
字、違うしっ!
カランカラーン♪
――誰っ!?
そこには女神が立っていた。
「弥生さん、お待たせ」
由綺だ。由綺が来てくれたっ!
「由綺さん、お疲れさ……」
「由綺っ、良く来てくれたっ!」
僕はカウンターから飛び出し、由綺の手を握って激しく上下に振る。
「あ、あの? 彰君?」
由綺は戸惑った笑顔を浮かべていたが、そんなの構いはしない。
もしも冬弥がここから由綺を連れ去ろうとしたら、僕は容赦なくボディブローを喰らわせていただろう。
「いやほんと、このままでは僕はどうなることかと……なんだか今日は由綺が女神に見えるよ」
「大げさだよ、どうしちゃったの……あれ、弥生さん?」
背後に立ち上る強烈な気配。
振り向くと、氷のように冷たい微笑みを浮かべた弥生さんが立っていた。
だけど目は笑っていなかった。
「ずいぶん由綺さんと親しいようですね……申し訳ありませんが、少々お話をよろしいですか?」
「え、あの、その……」
そして僕は、車の中に連れ込まれた。
何があったかは聞かないで欲しい。