葉鍵的 SS コンペスレ 7

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360『名前』
 蝉の声もやかましい八月の午前中。
 日に数本しか運行しないくたびれた路線バス。
 うだるような真夏の暑い日差しの中、黒々とした煙を吐き出しながら、舗装されているというのにでこぼこした山道をひた走る。
 クッションの薄い座席はその揺れを吸収しきることが出来ず、長時間過ごすには少々座り心地が悪い。加えて備え付けの大きな扇風機が懸命にその老体を鞭打ってはいるが、悲しいことに努力に見合った効果を上げているとは言いがたかった。
 それでも見渡す限りに広がる深い緑の陰になっているために、窓を開けることでどうにか耐えられる暑さで済んでいる。
 開け放たれた窓からはむっとするような草木の匂いや蝉の声が、まるで叩きつけられるように車中に入り込んでくる。その強い匂いは、だが今の俺にとっては不快なものではなかった。そういった慣れない環境は、都会から離れ、旅路に着いているという実感を与えてくれる。
 そして何より傍らに先輩がいてくれることが、俺の気分を高揚させてくれた。
361『名前』:03/03/25 02:25 ID:EoODfIAz
 高校を卒業して初めての夏。
 先輩の両親が出張で遠くへ行かなくてはならなかった為、俺の提案で住み慣れた街を離れ、二人きりで旅行に来ていた。
「折原君と一緒なら」
 普通なら反対されるところをご両親からこう言われて、俺がどれだけ嬉しかったかちょっと口では説明しきれないほどだった。
 せっかくの旅行だ。観光地に行きたいところではあったのだが、彼女は景色というものに触れることが出来ない。だから綺麗な空気と新鮮な料理を楽しんでもらおうと、有名な観光地を避けて田舎の浜辺に行くことにした。
 まあ、その方が旅費も安く済むなんて野暮なことは秘密だ。
 候補に挙がったのは由起子さんの古い知り合いが住んでいるという海辺の町。話によると観光地ではないがなかなか新鮮な海の幸が味わえるらしい。
「浩平君と旅行かぁ。今から楽しみだね」
 今の街からほとんど外に出たことのない先輩は、旅行の話が決まってからずっと嬉しそうにしていた。そんな彼女を見てると俺もつられて心が弾んでしまう。
 期待に応えないわけにはいかないな……そう決意して、でも何が出来るのかわからなくて悶々として、結局いつもの通りが一番という結論に達して、今日がその旅行の日。
 朝一番で支度して、いくつかバスを乗り継いで、今はそろそろお昼という時間になろうとしていた。
362『名前』:03/03/25 02:26 ID:EoODfIAz
 バスが進むにつれ木々の切れ間がだんだんと多くなる。そこから吸い込まれそうなほど青い空やまばらな家並み、そして待ち望んでいた海がちらほらと顔を覗かせていた。
「おっ、ようやく少し見晴らしのいいところに出たな。そろそろ着くぞ」
 俺の言葉に反応して、うとうとと夢うつつ気味に頭を垂れていた先輩がその顔を上げる。
「……もうそんな時間なんだ。どうりでおなかが空くわけだよ」
「はは、先輩の場合いつもだろ?」
「わ、ひどい。そんなことないよ、私だってそんなに……あ」
 あくび混じりに話していた先輩だったが、何かに気が付いたのだろう。その可愛らしい小さな鼻を動かして、しきりに何かのにおいを嗅ぎだした。
「ん?」
「これ、海の……潮の香りかな」
 先輩の言葉に促されるように辺りのにおいをかぐ。すると、強い草の匂いに混じって微かな塩気が混じっているのに気が付いた。
「ほんとだ。こんなところまで届くんだな」
 バスの中ではよくわからないが、おそらく海から風が吹き付けているのだろう。
「うん。なんだかとっても不思議なにおいだね」
 そう言って光を映さない目を細めて微笑む。
 幼い頃に視力を無くした先輩は、まだ海というものがどんなものか知らない。見当違いの方向を見て物珍しそうに鼻をひくつかせる姿は、彼女には悪いがとても可愛らしかった。
「先輩、そうやってるとなんだか犬みたいだな」
「えっ、いぬー!? 浩平君またそういうこと言うー」
「ははは」
 ぽんぽんと俺の胸板を叩く先輩。もちろん本気で叩いているわけではない。俺達はそうやっていつものように、気安いもの同士の掛け合いを楽しんでいた。
 楽しいひと時。過ぎていく時間が惜しくなるほど、俺は幸せだった。

 もうすぐ海に着く。
 先輩も喜んでくれているし、きっと楽しい旅になる。
 海に行ったら何をしよう。先輩は泳げないだろうけど、浮き輪でも買って海水浴でもしようか。先輩は海の水が塩辛いということを知っているのだろうか。もし知らなかったなら、口にした時にどんな顔をするだろう?
 ここに来るまでに頭の中で何度も反芻した考えを、自分でも呆れるほど浮かれた気分でもう一度繰り返す。
363『名前』:03/03/25 02:28 ID:EoODfIAz
「浩平君」
 先輩の顔を見ながらそんなことを考えていると、ふと、少し神妙な顔つきで先輩が俺の名前を呼んだ。
「うん? どうしたんだ、先輩」
「ずっと言いたかったんだけどね、その先輩っていうのやめようよ。もう学校は卒業したんだし」
 それは初めてではなく、確か前にも言われたことのあることだ。
「んー、ってもなあ。先輩は先輩だし、今更名前では呼びにくいよ」
 実のところ、一時は名前で呼ぼうとしていたこともあった。だがどうにも気恥ずかしくて、やっぱりそのまま先輩と呼んでいる。
「じゃあ私も浩平君のこと折原君って呼ぶよ?」
「……それは嫌かも」
 先輩の綺麗な声で「浩平君」と呼ばれるのはとても気持ちがよくて、俺はその呼ばれ方を凄く気に入っているのだ。
「ね。だから」
「んー」
 気恥ずかしさと、それからほんのちょっぴり意地悪をしてみたいという気持ちから、俺は言葉を濁しつつ窓外に視線を逸らす。
(なんと言うか……こういうことは、こう、改まって言われると恥ずかしいんだよな)
「だめかな」
 車内には俺達以外に客の姿はなく、がらがらで貸切の状態になっていた。そんな中で先輩は、のしかかるようにして俺に迫ってくる。
 狭苦しい二人掛けの座席でそんな体勢になられると、いやでも胸の膨らみが俺の肩にぶつかってしまう。
 そんな格好は人がいないとはいえやっぱり恥ずかしい。ただでさえ暑い車内、加えて先輩の体温で俺は汗だくになってしまった。
364『名前』:03/03/25 02:29 ID:EoODfIAz
(こんなところでその体勢は反則だぜ、先輩)
「せっかく旅行に来てるんだし、ね?」
 そう言って先輩は俺の首に腕を回してきた。彼女は目が見えないせいか、ときどきこういう場所で凄く大胆な行動をとることがある。
 恥ずかしくてくすぐったくて、笑いながらしょうがないな、なんて言おうとした瞬間。
 唐突にそれは起こった。

「うわっ!?」
 突然運転席の方から男の野太い悲鳴が聞こえたと思った途端、鼓膜が破れるかと思うほどのブレーキ音が静かな山道に響き渡る。
 何が起こったのかなどと考える暇もなく、大きなもの同士がぶつかるような激しい音が鼓膜を震わせた。
 それと同時に車全体が急停止し、どんっ、と腰の辺りに突き上げるような衝撃がくる。俺はつんのめるようにして身体が前に押し出され、肩の辺りに物凄い痛みを受けて意識を失った。

 意識を失うその瞬間。
 先輩の方を見ていた俺の網膜に、頭から前の座席に凄い勢いで激突する彼女の姿が映しだされた。
365『名前』:03/03/25 02:30 ID:EoODfIAz
「う……」
 意識が戻るまでどれだけの時間が過ぎただろうか。俺は何かが燃える音と肌を焼く熱い空気とに我慢できなくなって目を覚ました。
 まるで靄がかかったようにぼんやりとした目で辺りを見回す。赤く染まった景色が飛び込んでくるが、混乱した頭には何が起こっているのかよくわからなかった。
「いてぇ……くそ」
 少しづつ意識が戻るにつれ、肩口から頭にかけて鈍い痛みが走る。手を当ててみると激痛で呼吸ができなくなる。打撲か、下手したら肩あたりを骨折をしているかもしれない。首も少し傾けるだけで痛んだ。鞭打ちにでもなったのだろうか。
 そうか。さっきバスが急に止まって、それで俺は――
「――っ! 先輩っ!」
 さっき見た光景を思い出し、混濁していた意識が一気に覚醒した。慌てて傍らに視線を向けるが、視界が赤く染まっていてよく見えない。もどかしさで目をこすってみたら、手に何か生暖かい液体がこびりつく。どうやら自分の血が目に入っていたようだ。
 その量を見て鳥肌が立つが、今はそれより先輩のことだ。衣服で目の辺りを拭くと少しだけ視界が利くようになる。そして探す必要も無く傍らに倒れる先輩を見つけた。彼女は座席にうずくまるようにして倒れている。前の座席に激突し、そのまま崩れ落ちたようだ。
「先輩、大丈夫か!?」
「ん……」
 軽くゆするとうめくような声が聞こえた。呼吸はしている。大丈夫だ。すぐに意識のない先輩を抱き起こそうとする。
「ぐっ……!」
 痛めた肩に激痛が走り、危うく先輩を取り落としそうになってしまうが、もう片方の腕で何とか持ちこたえられた。ゆっくりと彼女の上体を起こす。
(うわ……)
 座席と激突した個所であろう額は綺麗に割れ、緩やかに血が吹き出ていた。先輩の長く艶やかな黒髪は自身の血でべったりと濡れ、小振りな顔に幾筋もへばりついている。
(このままじゃやばい、なんとかしないと)
 状況を把握しようと周辺に視線を向けて、俺は改めて事態の異常さを思い知ることになった。
366『名前』:03/03/25 02:30 ID:EoODfIAz
 乗っていたバスが燃えていた。
 運転席の方は大きくへしゃげ、無残につぶれている。俺達はどうやら最後部の座席だったおかげで衝撃がやわらいだらしい。フロントガラスの外には一台の車が、無残にへしゃげて潰れているのが見えた。
(事故か……正面衝突だな)
 向こうの車はガソリンに引火してしまったのか、完全に火達磨になっている。こちらはまだそこまで被害が及んでいないようだが、相手の火が飛んできたのか、車内のあちこちに火の手が上がっていた。
 あの様子では運転手も向かいの車の人間も恐らくは生きてはいないだろう。救急車などが来ていないのは思いのほか意識を失っている時間が短かったのだろうか。
(とにかく車外へ……このままじゃ危ない)
 すでに火は座席シートに引火して、髪を焦がしそうなぐらいすぐ近くまで迫っていた。床も古めかしい木製だ。俺の意識が戻るのがもう少し遅かったらと考えるとぞっとする。
(くそっ!)
 無事な方の腕で先輩を抱えて逃げようとするが、俺にも事故のショックがあったのだろう。利き腕でないこともあり、左腕が震えて上手く力が入らない。それに彼女は頭部に傷を負っている。あまり揺らしたりするのは危険に思えた。
 苦心の末、脇の辺りから頭部にかけてを抱きかかえるようにして持つと、無理やり引き摺って移動を始めた。脚の辺りが擦り傷だらけになってしまうだろうが、この際我慢してもらうしかない。
367『名前』:03/03/25 02:31 ID:EoODfIAz
 火事場の馬鹿力というのだろうか。俺は片手一本で先輩のことを引き摺り、なんとか車外にまで脱出することに成功した。
「先輩、大丈夫か先輩」
 事故現場から安全そうな場所まで離れ、彼女を静かに地面に横たえると、なるべく頭を揺らさないように体をゆすりながら呼び掛ける。
「……ごほっ」
 咳き込むようにして先輩の口から息と共に少量の血が漏れた。座席にぶつかった時に喉か肺を傷つけたのだろうか。それとももっと重要な器官を……
「早く救急車を呼ばないと」
 思い立ってポケットの中の携帯電話を見るが、当然のように圏外であった。
 バスに無線がついているのかもしれないが、すでに運転席のあたりは火に覆われてしまっている。そもそも使い方もわからない。
 車通りもあまり無い山道、この燃えている車以外にほとんど車など見なかった。街からもまだ距離があり、発見してもらうまでにどのぐらい時間がかかるのか想像も出来ない。
 ただ待つだけではどうしようもないので、とにかく携帯電話の電波が届く位置まで歩こう、そう思った時。
「―――っ!」
 打ち上げ花火のようなどーんという重い音と共に、背中を灼く熱い風が背後から吹き付けてきた。
 とうとうバスのガソリンに対向車の火が引火したようだ。間一髪、と言うほどではないが、俺が先輩のように意識を失ったままだったら今もあそこにいたわけで、少しだけ自分自身に感謝した。
「……熱い……」
「先輩?」
 今の爆発の衝撃で目が覚めたのか、先輩がゆっくりと目を開ける。
368『名前』:03/03/25 02:32 ID:EoODfIAz
「よかった、意識が戻ったんだな」
 この目を開けるという行為は、まだ目が見えいていた頃の名残なのかな。
 先輩の意識が戻ったという安心感からか、そんな不謹慎なことを考えた。
「痛いよ……浩平君……どこ……?」
 俺を求めて宙をさまよう彼女の右手を捕まえると、両手でしっかりと握り締めた。
「ここだよ先輩。いま救急車を呼んで来るからな」
 その手を先輩はしっかりと握り返してくる。
「浩平君……」
 だが、彼女の様子がおかしい。もう片方の手で喉のあたりを押さえると、しきりに咳をするのだ。
「どうした? 喉が痛むのか?」
 俺の問いかけにも答えず、ただ咳を繰り返す。それに連れて再び血が噴き出すが、彼女にはそれを気にする様子は無い。
「おかしいな、どうしたんだろ……」
「先輩、あんまりやると喉を痛めるぞ」
 落ちつかせようと握り締めた両手に力をこめると、喉を押さえていた左手で俺の手を撫でてきた。
「浩平君、だよね?」
「そうだよ。さっきから話してるじゃないか」
「悔しいな、声が出ない……」
「……何を言っているんだ?」
 さっきから先輩は俺の事を呼んでいるし、その声は喉の血のせいか少しくぐもっていたが、しっかりと俺の耳に届いている。
 先輩はその言葉にも応えず、ただ苦しそうな表情をするだけだった。
 どうも会話がかみ合わない。というか、先輩に俺の声が聞こえていないような気がする。
 聞こえていない……?
「冗談だろ……やめてくれよこんな時に」
 まさか。いや、そんな馬鹿な。
「浩平君、意地悪しないでよ。お願いだから返事して……!」
 だがそんな願いとは裏腹に、痺れを切らしたようにはっきりと先輩が言った言葉は、俺のくだらない想像を肯定するものだった。
369『名前』:03/03/25 02:33 ID:EoODfIAz
 燃えるバスの熱気が伝わってきていると言うのに、背筋に寒気が走る。
 車の燃える音がうるさいとはいえ、目が見えない分彼女の聴覚は鋭敏だ。こんな近くで話す声が聞き取れないとは思えない。
「先輩、まさか、耳が」
 思わず声が震える。
 先輩の顔に浮かぶ混乱した表情、繰り返す咳、俺の声に対して反応してくれないこと。それらが指し示す結論は、俺には一つしかないように思えた。
 そして先輩が突然はっとしたように目を見開くと、喉を押さえていた方の手で耳を覆った。
 もし俺の推測が正しいなら、自分の声だけでなく、咳の出る音すら聞こえていないということに気がついてしまったのだろうか。
「と、とにかく医者だ」
 自分自身を誤魔化すようにそう言うと、
 耳の事だけでなく額からの出血も馬鹿にならない。これまで車が通る気配も無かったし、とにかく人里に向かって歩いてみよう。携帯が繋がるところまで歩けば救急車が呼べる。
「すぐ戻るからな。動かないでくれよ」
 そういって手を離そうとしたが、先輩は俺の手を握ったまま離そうとしなかった。
「先輩……」
 不安なのだろう。俺の手を握る手は大きく震え、それほど強くない力で俺の手を懸命に握っている。出血のせいもあってかその顔からは血の気が引き、唇まで真っ青になってしまって痛々しいほどだ。
 どうしよう。こんな状態の先輩を一人で置いて行っていいのだろうか。
「……できないよな、そんなこと」
 仕方が無い。どの道ここにいても事態がよくなるとは思えない。俺は先輩を出来るだけ慎重に起こすと、肩で支えながら立ち上がった。彼女は驚いて少し抵抗してきたが強引に立ち上がらせる。
 片腕では抱きかかえる事なんて到底出来ないので、肩に担ぐようにして歩いてもらう事にした。幸い体を痛めてはいなかったらしく、よろよろと頼りなくはあったが歩く事はできそうだ。
「いくぞ。しっかり掴まってろよ」
 そんなこと俺が言うまでも無く、先輩は歩きづらいほど抱き付いている。怪我のせいかその体は熱を帯び、血と汗の湿りや照りつける夏の太陽とともに俺の体力を奪う。
370『名前』:03/03/25 02:37 ID:EoODfIAz
「くそ。これじゃどこまでもつかわからんぞ」
 やはりあの場で留まって車が通りかかるのを待つべきだったか。
 そう思った時。視界の端、緑に覆われた遠くの山道で動くものがあった。
 見間違いかと思って目をこすったが、それは確かにそこにいた。そして少しづつこちらに近づいているようだ。
「車だ。こっちに来る。助かったぞ、先輩」
 担いでいる先輩に声を掛けるが、先輩は黙ったままだった。気絶しているのではないかと思ったが、その目はちゃんと開いていた。
 俺は先輩の返事を待たず、空いている右手を車に向かって振ろうとするが、怪我をした右手は動いてはくれない。どうせこの事故現場が見えないはずはないので、多少もどかしいがここに到着するまで待つことにした。

 車を待つ間にも先輩の呼吸は乱れ、温かい血が俺の肩に染みを作る。
(はやく、早く来てくれ……!)
 実際はそれほど長い時間ではなかったのかもしれないが、俺には気が狂いそうになるほどのもどかしさを抑えられない。
 その白いミニバンはこちらに気付いたのか、近づくにつれ徐々にスピードを上げる。
 そして俺達の目の前で、軋むような制動音とともに急停止した。
「おいっ、大丈夫か君達っ!」
 運転席から白い服を着た髪の長い女の人が降りてきて、俺達の方に駆け寄ってきて、それで俺は安心してしまって……
「あ、おいっ! 重いじゃないか! 気絶するならせめて車に乗ってからに……」
 そんな声を遠くに聞きながら、俺の意識は闇へと落ちていった。
371『名前』:03/03/25 02:38 ID:EoODfIAz
 くすくす

 きみがわるいんだよ
 ほら
 またひとり
 きみのせいでおかしくなった

 くすくす


 頭の中に響く少女の声。
 嫌な、思い出したくも無いその声は、俺の心にできたばかりの傷を深く抉った。

 そう。俺のせい。
 俺が旅行になんて誘わなければ。
 ―――ちがう。それは原因じゃない。
 原因はもっともっと前。
 こんな俺がこの世界に戻ってなんてこなければ―――
372『名前』:03/03/25 02:39 ID:EoODfIAz
「―――おい」
 体を揺さぶられて唐突に意識が戻る。すると、目の前に目つきがきつい女性の顔があった。
「大丈夫か? うなされていたようだが」
 よく見るとその女性は、先ほど車から降りてきた人のようだ。
「ここは……先輩は?」 
 体を起こそうとするが、右手から肩にかけてギプスのようなもので固定してあって、思うように身体が動かせない。
 だがそれ以上に、肩と首の辺りが猛烈に痛んだ。
 俺の様子に気がついたのだろうか。目の前の女性が心配そうに口を開く。
「君が意識を失っている間に手当てした。彼女が心配なのはわかるが、君自身骨折と脱臼が併発している重症患者なんだ。あまり無理はするな」
「でも……」
 なおも動こうともがくが、肩を細い腕でそっと抑えられてもう一度横になった。
「彼女なら隣で眠っている。大丈夫だ。命に別状は無い。今はゆっくりと休め」
 横になってみると、冷静に今いる場所が見えてきた。
 病院かどこかだろうか。無機質な真っ白い壁、面白みのない真っ白な天井。そして程よい冷房の効いた部屋で、清潔そうなベッドに横になっていた。
 右隣を見てみると、同じように白いベッドに先輩が横になっている。眠っているのだろうか。
「あんたが運んでくれたのか」
「ん? ああ、そうだ。酷い事故だったし本当はもっと大きな病院に運びたかったんだが、あそこから大きな街の病院まで運ぶのでは彼女の額の出血が心配だったものでな。とりあえずうちに運んだ。小さな病院だが必要な設備はそれなりにある」
「うちって……あんた医者なのか?」
「そうだ。大変だったんだぞ? 一人で君達を運ぶのは」
 そうか。白い服と思っていたのは白衣だったんだな。
 ……医者っていうものは、病院の外でも白衣を着るものなのだろうか?
「ん? どうかしたか?」
「いや、いい。通りがかってくれて助かった」
 冗談を言う場面でもない。俺は喉まででかかったその言葉を飲み込んだ。
 白衣よりもむしろ、その合わせ目から覗くTシャツの柄が気になったが……
373『名前』:03/03/25 02:40 ID:EoODfIAz
「警察にも連絡しておいたから、今頃は事故現場に行っているだろう。何せ山道だからな。私が通りかからなかったらどうなっていたか」
 それを考えると背筋が凍る。あそこで意識を失ったということは、とても先輩を抱えて動き回ることなど出来なかっただろう。
「命の恩人だな。礼を言うよ」
「礼か。それは出世払いできちんともらうとしよう。それより、彼女のことなんだが……」
 怜悧な美貌の割にどこかとぼけたところのあった女医が、不意に真剣な顔をした。
「彼女、盲目なのは昔からだな?」
「……ああ」
 彼女が何を言いたいのかは大体想像がつく。
「では、耳が聞こえないということはなかったか?」
 後に続いた言葉も、ほぼ俺の予想通りだった。
「いや、いままではちゃんと聞こえていた」
「そうか。やはりこの事故のショックなのだな」
 予想は出来た。でも、だからと言って望んでいたわけではない。
「君が知っているかどうかはわからんが、今彼女は全聾と言っていい状態になっている。精神的なショックから来るものなのか肉体的なものなのかはわからんがね」
 ……ああ。やはりそうなのか。
 そうではないかと思っていたが、頭のどこかでまさか、と思っていた。いや、思いたかった。現実として捉えたくなかったと言ってもいい。
 だが医師にはっきりと告げられて、それがどうにもならない現実だと思い知って、きりきりと胸の奥が痛む。
「辛そうだな」
 辛い?
 辛いだって?
 馬鹿言うな、辛いのは俺じゃなくて……
374『名前』:03/03/25 02:41 ID:EoODfIAz
「彼女、さっきは少し錯乱していてな。鎮静剤を打っておいた。しばらくは泥のように眠っているだろう」
「……」
 俺は何も答えられなかった。
 どうして?
 どうして先輩ばかりがこんな目にあうんだ?
「事故が事故だ。生きていたというだけでも幸運だと思ってくれ。……君も、彼女も」
 言葉は耳に入っては来るが、俺の意識を素通りして行った。
「君にも鎮静剤を打とう。あんなことの後で多少なりとも興奮しているだろうからな。ゆっくり眠るといい。今は、何より睡眠が大事だ」
 ふと見ると、女医が座る椅子の傍らには既に注射具が用意されていた。
「その前に君達の連絡先を聞かせてくれ。親御さんに連絡しなくてはいけない」
「連絡先……しまった」
 問われて俺は先輩の両親は出張で連絡がつかないことを話した。
「先輩なら知ってるかもしれないけど……」
 こんな事態になるなんて思っていなかった。先輩が知ってるだろうからと思い、わざわざ聞く気になれなかったのだ。
「聞く手段が無い、か。仕方ないな。とにかく君の実家に連絡しておこう。ところで、君の名前は?」
 聞かれるまでそんなことすら言っていなかったというのを思いだし、少し苦笑したい気分になった。
「折原浩平だ。叔母と一緒に住んでいるから、その人に連絡をして欲しい」
「折原……」
 と、俺の名前を聞いて女医が少し驚いた表情を作る。
「まさかその叔母というのは、由起子さんか?」
 そうして俺は、由起子さんの知り合いと言うのがこの町で開業医をしていると言っていたのを思い出すことになった。
375『名前』:03/03/25 02:43 ID:EoODfIAz
「由起子さんはこちらには来ないそうだ。川名さんのご両親の連絡先を調べてくれるらしい」
 電話から戻ってきた女医―――霧島聖が電話の要点を告げる。
「そうか。仕方ないな」
 彼女の話では、俺達がここにくることは由起子さんから聞いてはいなかったらしい。
 いきなり行かせて驚かそう……そんな風に考えていたのだろうか。
「あの人には昔お世話になってな。連絡をくれれば迎えに行ったのだが」
 今更過ぎたことを言っても仕方が無いが、由紀子さんのいたずら心がどうしようもなく恨めしかった。
「とにかくその辺はあの人に任せよう。君ももう眠りなさい」
 そしてギプスの合間から器用に鎮静剤を打たれると、なんだか頭がぼおっとしてきた。
「すぐに効き目が出る。彼女のことは、目が覚めてから考えよう」
「そう……だな……」
「諦めることは無い。まだ一時的なものである可能性も残っている。事故のショックで精神的におかしくなっているのだとしたら、時間が経てば元に戻る可能性も……」
 疲れが溜まっていたのだろう。俺の意識はすぐに、今日何度目かの闇に落ちていった……
376『名前』:03/03/25 02:45 ID:EoODfIAz
 停止を告げる電子音が鳴り、次いで金属質な制動音と共にバスがその動きを止める。
 そしてすぐに空気が抜けるような音がして、二人しかいない乗客を追い出そうとバスがその大きな口を開いた。
 それと同時にむっとする熱気が押し寄せ、この老いぼれたバスの大して意味も無いと思っていた扇風機がいかに有難いものだったかを痛感させられる。
「着いたのかな?」
「ああ」
 おそるおそる、でも嬉しそうに歩く先輩の手を取り、ゆっくりと降車口を降りる。
 バスから出た瞬間、真夏の焼けるような日差しが俺達の網膜と肌を焼こうと容赦なく照り付けてきた。
「凄いな、雲ひとつないぞ」
 料金を払って降車口を降りると、すぐ目の前にちょっとした砂浜が広がっている。
 バスの中より日差しはきつかったが、それでも風がある分いくらか過ごしやすく思えた。狭苦しい車内から開放されたということも気分をよくしているのかもしれない。
 ここは観光地ではないだけあってそれほど壮大とはいえない眺めだが、今は清々しいほどに澄み渡る青空のおかげでとても綺麗に見えた。
「おお、なかなかいい眺め」
「ほんと?」
「ああ。90点だな」
「すごい。あ、でも満点じゃないんだ」
「そうだな。あの風景の中に先輩が立ってれば100点かな」
 涼しげな白い服装と日差しを避ける為の麦藁帽子、そしてそれを纏った先輩は、きっとこの風景によく映える。
「もうっ、浩平君ってば冗談ばっかりだよ」
 そうやっていつものようにからかってみせると、先輩は頬を染めて恥ずかしそうに微笑む。
 そのはにかむような笑顔は、この笑顔を見られただけでもここへきてよかったと思わせるほど、俺の心に涼やかに染み渡った。
377『名前』:03/03/25 02:46 ID:EoODfIAz
 先輩に指示して履物を用意してあったサンダルに履き替えさせると、彼女の手を取って焼け付くような熱さの砂浜を歩く。
「わ、なにここ、足元がものすごく熱いよ」
「ここはしょうがないんだ。がまんがまん」
 焼けた砂が足にまとわりつくのが不快だが、そんなことは構わずにずんずん歩く。
「熱いっ。……浩平く〜ん」
「がまんがまん」
 砂浜の熱さで涙目になる先輩を宥めながら、どうにか波打ち際へと辿り着いた。
「着いたぞ。ここが海だ」
「足元が熱くなくなってる……」
 波打ち際の濡れた砂はそれまでのような熱さがなく、先輩の小ぶりな足を優しく包み込んでいる。
 足元に小さな蟹が、まるで挑発するかのように通りすぎて行った。
「きゃっ!?」
 と、押し寄せてきた波が先輩の足にかかり、彼女は突然襲ってきた冷たさに悲鳴をあげた。
「ははは、それが海だよ、先輩」
「びっくりした〜」
 驚きの表情は、しかしすぐに笑顔に取って代わられる。
「浩平君、気持ちいいよー」
 幾度か波に触れ、慣れてしまったら子供のようにはしゃぎだす先輩。
 海に触れるのが……いや、新しい世界に触れることのほとんどなかった先輩は、本当に子供のようなものなのかもしれない。
378『名前』:03/03/25 02:47 ID:EoODfIAz
「あんまりはしゃぐと転ぶぞー」
「平気だよー。……わっ」
 波打ち際を歩き回り、突然の波に足をとられて転びかけたりする。
 まんま小さな子供だな。そう思った俺は、ひとつ忘れていたことを思い出した。
「そうだ先輩、ちょっと来て」
「?」
「こっちこっち」
 先輩が声を頼りにこちらに歩いてくる間に、海水に右手を浸す。
「なにかあるの?」
 すぐ近くにまで来た先輩の肩を、優しく、でも力強く空いた左手で掴む。
「え?」
「先輩……」
 驚いて身を固くする先輩に、俺は真剣な声で囁いた。
「浩平、君……?」
 先輩は俺の意図を汲んでくれたのか、頬を染めて形だけ目を閉じ、少し背伸びをするようにこちらに顔を近づけ……

 ぴと。

「わわっ!? ……なにこれ、しょっぱい〜〜!!」
 そんな先輩の唇の隙間から、海水で充分に湿らせた指を口の中に入れると、飛び上がりそうなぐらいオーバーに驚いてくれた。
「ははっ、それが海の水だよ。びっくりした?」
「びっくりした? じゃないよっ! 浩平君のばかっ!」
「いいじゃないか。生まれて初めてだったんだろ? 海水の味」
「そういう問題じゃないよっ!」
 涙目で俺の体を揺する先輩がいじらしくて可愛くて。


 そして、唐突に目が醒めた。
379『名前』:03/03/25 02:48 ID:EoODfIAz
「……なんだよ」
 ぼんやりとした頭で周りを見る。
 闇に目が慣れてくると、月明かりに照らされてどこか現実感を欠いた映像が網膜に飛び込んできた。
「どこだよここ……」
 今まで見ていた輝かしい景色とは違う、壁まで真っ白な、清潔そうな、でも無機質な何もない部屋。
 開け放たれた窓からは、やかましいぐらい蝉の声が響いてきた。
 そこで俺は真っ白いベッドに寝ていて、隣のベッドには……
「―――ふざけんなよ、畜生っ!!」
 そこには鎮静剤を投与されて静かに眠る先輩がいた。薄く幕がかかったような意識が急速に現実に引き戻され、握り締めたこぶしを力任せにベッドへと叩きつける。
 戸外にまで響いてしまいそうなけたたましい金属音がたつと同時に、こぶしに鈍い痛みが伝わってきた。
 予想外に響いた音に自分自身驚いてしまって、慌てて先輩の方を見る。

 だけど、すぐ近くで寝ている先輩にはそんな大きな音すら聞こえていなくて……
 綺麗な寝顔を伝う汗がとても苦しげで……

 俺はいてもたってもいられなくなって、薄い夏用のシーツを固定されていない左手で払いのけると、先輩の寝ているベッドの傍らに歩み寄った。
 清潔そうな白いシーツからはみ出した彼女の手を取ると、自分の胸元で握り締める。
「なんで……」
 静かに眠っている先輩。
 月明かりに青白く浮かび上がる先輩の綺麗な顔。傷のせいか、よくみると頬の辺りは紅く染まっている。
 こうして寝ていると、額に包帯を巻いている以外は以前と何も変わらないのに。
「なんで、俺じゃなくて先輩なんだよ……!」
 こんな、こんな旅行になんかつれてこなければ。両親と一緒に出張先に行っていれば、こんなことにはならなかったんだ。
 頼む、治ってくれ。諦めるなってあの女医も言っていたじゃないか。
「そうだろ、先輩……!」
 やるせない思い。届かない願い。
 自然と涙がこぼれ、先輩の手を握る左手を熱く濡らした。
380『名前』:03/03/25 02:50 ID:EoODfIAz
「……浩平、君……?」
「起きたのか?」
 その涙のせいか、眠っていた先輩が目を覚ました。
 俺は咄嗟の思いつきで先輩の手を自分の首にやり、痛むのも構わず頷いた。
「やっぱり浩平君なんだね」
 ギプスで固定された首はほとんど動かなかったが、それでも先輩に意思は伝わったようだ。
「私ね、耳も聞こえなくなっちゃったみたい。浩平君の声も、自分で何を言ってるかも聞こえないんだよ」
 どうすることも出来ず、先輩の手をより強く握り締める。
「痛いよ、浩平君」
 どうやら強すぎたらしく、先輩が苦悶の表情をみせたので手の力を緩める。
 ほっと小さなため息をついて、先輩はもう片方の手も俺の左手に添えた。
「もうお鼻ぐらいしか残ってないよ。さっき浩平君が言ってたみたいに、犬みたいにくんくんしなきゃいけないのかな」
 笑えない冗談。それは精神の平衡を保つために、魂が上げる悲鳴。
「でも悔しいな。もう浩平君の声、聞けなくなっちゃう。名前で呼んでもらいたかったのに、今そう呼んでもらっても私……」
「先輩……?」
 気丈に話をしていた先輩の言葉が、自身の嗚咽に掻き消される。
「怖いよ浩平君、私、どうなっちゃうの……!?」
 怖いと言う。当然だ。いままで聴覚は、先輩が持つ、ほとんど唯一と言える頼みの綱だったのだから。
 励ます言葉すら先輩には届かない。何も出来ない自分が狂おしいほどもどかしくて、俺は彼女を抱きしめる。
381『名前』:03/03/25 02:52 ID:EoODfIAz
 最初は驚いた先輩も、すぐに抱擁を返してくれた。
「わかる……浩平君の匂い……」
 そうだ。
 俺を触って欲しい。犬みたいに匂いをかいで欲しい。
 こんなにも、狂おしいほどに求めている俺を感じて欲しい。
 そして俺はどうしようもなく先輩を求め、彼女はそれを受け入れてくれた。
 病院の一室だということも忘れ、ただ獣のようにお互いを感じることに没頭する。
「浩平君……」
「みさき……みさきっ!」
 恥ずかしがっていて、つまらないことにこだわって、ついにそう呼んだことは無かった。
 あんなにも呼んで欲しがってたのに。こんなくだらないことで俺は一生後悔しなくてはいけないのか。
 悔恨の念と、自責の念をぶつけるように、いつに無く激しくみさきを抱く。傷だらけで熱を持った身体はべっとりと汗に濡れ、互いのそれが混じってえも言えぬ感覚を呼び、俺は何度も何度も、飽きることなく彼女を愛した。


 そうだよ。前に言ったじゃないか。俺はお前のペナルティを一緒に背負うんだ。
 くだらないことだなんて俺には言えないけど、お前ならきっといつかそう思える日が来るさ。
 決して諦めない。いつか治る時を信じて、一緒に歩もう。
 それが例え果ての無い道だとしても、二人なら歩いて行けるさ。
 なあ、みさき――――