あの日も、静かな雨が降っていた。
濁った夜空も、斜めの点線を照らし出す街灯も、狂ったように鳴り響くエンジン音も、いつも通りだった。
人通りの少ないこの通りでは、時たまサラリーマンが傘を揺らしながら通りかかるだけだ。
かじかむ両手に息を吹きかけると、白いもやは手の中で所在なさげに揺れ、ふんわりと消えていく。
――来ないのは分かっているのに、私はまた今日もこの場所で待っている。
茜は日課となりつつあるこの行為の無意味さを噛み締めながらも、それでも可能性を捨てきれずにいた。
学校には暫く行っていない。
両親は、茜の明らかな変調を察して、あえて茜に何も問いたださないことにしていた。
学校に行ったからといって、何があると言うのだ。住井君も、七瀬さんも、幼馴染の長森さんでさえ、誰も浩平のことを覚えていやしない。
中庭の喧騒、教室の談笑、教室の隅で放ったらかしにされた机、そんなものを見るために行く学校など、茜にとっては苦痛以外の何者でもなかった。
両親に学校に行ってくると告げては、馬鹿だとは知りながらもあの空き地へ向かってしまう。健康的な朝日がゲームセンターのネオンサインに変わる時刻まで、茜は毎日無為に待ちつづけた。
詩子からは、ときどき夜に励ましの電話がかかってくる。
「あかね〜?」
声を聞いたとたんに、電話口の向こうに、明るさを取り繕った心配顔が浮かぶ。その度に茜の胸は痛み、全てを洗いざらい話してしまおうかと思ったことも幾度となくあった。
だけど話すことができない。話しても分かってもらえない。
司のときと同じだ。あの時も、言いたくても言えなかった。言っても、変な顔をされて終わりだろう。
無二の親友にさえ相談できないことを知るたび、茜は自分の孤独を噛みしめた。
そんな茜の思惑も知らずに、詩子はいつも通りに話しかけてくる。
「茜、最近元気ないよ? おかしいよ」
浩平のこと、覚えてませんか?
「ふうん……気分が悪いなら仕方ないね」
喉まででかかっているのに、声が出なかった。
「学校1週間も休んでるんだって? 学校は行った方がいいよ。まあ、あたしの言えた台詞じゃないけどね。あはは」
「そうですね、頑張ってみます。ありがとう、詩子」
「ううん。あたしと茜の仲じゃない」
これでいいのだ。たとえ浩平について訊いてみても、司のときと同じ答えが返ってくるだけだ。もうこれ以上傷つきたくない。
受話器を置く手は重い。茜は小さく息を吐いた。
浩平がこの世界から消えてから2週間が経った。
茜からすれば、絶望を味わった14日だった。公園にも行った。中庭、帰り道、浩平の家、浩平と一緒に行った場所には、全て行ってみた。
それでも浩平の姿は見つからず、最後に空き地に戻って思うことは、この世界から確かに浩平は姿を消したということだけだった。
浩平は戻ってこないまま、時間だけが無為に過ぎていく。
心の中の暗闇は広がるばかりで、夜道を照らし出すための街灯も、茜にとっては何の役割も示さなかった。
そろそろ遅くなってきた。濁った空は、今日も嘲る様に、茜を見下ろしている。
いい加減今日は帰ろうと思ったとき、
茜は後ろの音に気づいた。
まさか……!
でもそのまさかを茜は捨てられない。息が止まり、心臓が早鐘のように鳴る。身体じゅうが火照ってくる。
意を決して恐る恐る振り返ってみると、そこには薄汚れたダンボールの中に、仔猫がうずくまっていた。
茜はため息をついた。
人騒がせの張本人は、申し訳なさそうに体を低くして、上目遣いに茜を見つめている。澄んだ無垢な瞳は、自然に幼馴染の司を思い出させた。
何日も目立たないところに置き去りにされていたのだろう、彼はひどく汚れていた。泥水が跳ね、昨日の大雨に打たれた毛なみは、それでもまだかろうじて風格を保っている。
野良でも、もともとの血筋はいいのかもしれない。茜は持ち上げると、猫が体をよじらせるので、首についた鈴が小さく鳴った。
洗ったらどんなに綺麗になるだろう。
鉛を呑んだような気の重さでも、少しは晴れた気がした。体の汚れも気にせずに、茜は猫をしっかりと抱きしめて家に連れて帰った。
風呂場で綺麗に洗ってあげると、彼は見違えるように綺麗になった。体を覆いつくしていた汚れの奥からは、想像していたような艶のある長めの白い毛が綺麗に生えそろっていた。
眠たそうに大きな欠伸をする猫を、茜は微笑ましく見つめていた。
神経を張り詰めて暮らしてきた今までのストレスが、溶けてなくなったような気がした。茜は、ベッドの中に猫を招き入れ、久々のうれしい眠りについた。
茜は、寒さを感じて飛び起きた。
ベッドをかぶり直してうずくまろうとしたとき、猫がいなくなっていることに気づいた。
「うそ……」
あわてて辺りを見回すと、窓が少し開いていた。
猫は、僅かな隙間でも通り抜けられるという。おそらくあそこから逃げたのだろう。茜はそう確信した。
気まぐれな猫は、自分になんか愛想を尽かしてさっさと外に出て行ったのかもしれない。今となれば、茜には拾って体まで洗ってあげたことが馬鹿らしくなっていた。
――猫にまで裏切られてたら世話ないですね。
茜の目から、自然と涙が零れ落ちていた。
猫が出て行ったその日、茜は今までの感情をぶちまけるように泣いた。
信じたものには、全て裏切られてきた。
いつもだったら思わず目を細めたくなるような、夕焼けを貫く雲も、茜にはどうしようもなく醜く思えた。
思考がまずい方にかたむいてきた。いけないと分かっていても、手が勝手に動く。
引き出しの中を漁る手は、目的のものを探り当てると、それを握りしめて止まった。工芸の授業のために買わされたカッターだ。
レバーをスライドさせると、乾いた金属音と共に、銀色の刀身が姿を見せた。何の変哲もないはずのカッターは、妖しい光を乗せて茜を誘っているように見える。
一筋の涙が頬を伝った。まだ泣くことが出来ることに気づいて、茜は乾いた笑いを漏らした。
手首に押し当てたカッターに力を込めた瞬間、階下からチャイムの音が聞こえた。
茜の意識は急速に現実へと引き戻された。
――死ぬ時くらいゆっくり死なせてくれてもいいでしょ?
都合のいいときにだけ孤独を打ち破る日常を、茜は呪った。
待っていれば諦めて帰るだろう。茜は目を閉じて、訪問客が去るのを待った。
居留守だと分かっているのか、チャイムは異常なほど続いた。おそらくは茜が出るまで鳴らし続けるだろう。
こんな悪質な訪問は、宗教か新聞の定期購読ぐらいしか思いつかない。どっちも間に合っていると考えた時、茜は自分がつい先ほどまで死を決断していたことを思い出した。
いくら待っても埒があかない。茜はとりあえず、迷惑な来訪者の応対をすることにした。どんな用件でも、帰ってもらうだけだ。これ以上の邪魔はされたくない。
苛立ちと共に階段を下り、ドアを開けた。
「すみません、新聞も宗教も間に合ってます」
「あの、そうではなくて……」
茜は、言葉に詰まった彼の顔に視線を向けた。まだ幼さの残る顔立ちと、無垢な瞳が印象深かった。
純白のワイシャツが、彼の純粋さをいっそう醸し出していた。
「僕、あなたにお礼が言いたくて来たんです」
「お礼?」
「ええ。あなたは僕に優しくしてくれた。そのお礼が言いたくて」
覚えがない。ここ数日、外にも出ない生活をしていた上に、第一面識がない。
それでも、ポケットからはみ出た、ストラップ付きの鈴には見覚えがあるような気がした。
「本当はあんな短い間なんて嫌だった。もっと一緒にいたかったけど、それは無理だから」
「……」
それでも、声を出すことはできなかった。周りの空気が明らかに変調し、ゆったりとした空気が茜の中に入り込んでいった。
「僕は、あなたにすごく感謝してる。だから、もう死ぬなんて言わないで」
訊きたいことはいくつでもあった。それでも、彼の姿を何の違和感もなく、それらは霧散していった。
「待ってればかならずいいことがあるから。あなたにはその資格がある」
男の姿がぼやけ始める。
「あなたは彼を迎えてあげなきゃいけない」
男の気配が空気と同調しようとする。
――その瞬間、茜は無意識に手を伸ばしていた。
「連れてってください」
茜の手は、何の手ごたえもなしに彼の体をすり抜ける。男は、僅かばかりの驚きを含んだ目で、茜をじっと見据えた。
茜の瞳からは、涙が珠のように溢れ出す。彼の半身だけが、この世界に映っていた。
「連れてって……」
「まだ、あなたは生きるべきだ」
彼の姿はもうそこにはない。
涙でぼやけた視界は、ただ街灯に照らされた夜道を捉えていた。
もうあちら側には行けない。分かっているからこそ、茜は彼が戻ってくるのを待つしかなかった。
街灯は、茜の行く先を照らしていた。
その道筋を辿って、茜は今日も待つためにあの場所へ向かう。
鈴の音が、遠くから聞こえた気がした。