葉鍵的 SS コンペスレ 6

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576泣いて笑って 1/12
 なんでだろうなぁ、と梓は勝手に動く口とは裏腹にぼんやり思う。
 こんなことを言うはずじゃなかったのに、そういう意図で言ったんじゃないのに。なのにどうして、いつもこうなっちゃうんだろう。
 立て板に水を流すような梓の弁舌に目を白黒させて頭をぼりぼり掻きむしった耕一が、形勢不利と見たか、論点を変えて攻めてくる。
「だぁっ! だったら、たまには女らしい仕草の一つや二つ見せてみろってんだ。ほら、横で初音ちゃんが笑ってるぞ。こんな風に、初音ちゃんみたいに可愛く笑えるか?」
「え、え、え?」
「ふんっ。ろくにヒゲすら剃らない男がよく言うよ。初音だって、あんたみたいな奴はこっちから願い下げだってさ」
「わ、わぁぁ」
 売り言葉に買い言葉。滑り出したジェットコースターはちょっとやそっとじゃ止まらない。
「ほぉ……。初音ちゃんはお前と違って見る目があるからなぁ。そうか、初音ちゃんが言うなら明日からは気をつけようか。どっかのオトコ女にゃ何の信憑性もないもんなー」
「えと、えと」
「はっはーん。やっと鏡を見る気になった? 打ちひしがれて鏡割らないように気をつけな」
「あの、あの……」
 楓は喧嘩が始まるのを見越してか、夕食が終わると早々に自室に引っ込んでいた。
 千鶴は言わずもがな。明日の仕事で大事な約束がどうの、むにゃむにゃ口の中で呟いて、わざとらしく電話の子機を片手に持って先ほど居間から出ていってしまった。
 おかげで、どんどんヒートアップしていくこの二人を止める役目は初音の両肩にどさりと圧し掛かり、そんな重責を果たせるはずもなく、かといってそっと逃げるだけの勇気もなく。
 初音はおたおた二人の間を右往左往しつつ、時折相手を攻撃するための武器となり盾となり、微妙に情勢を悪化させていた。
577泣いて笑って 2/12:03/02/22 21:56 ID:1xbfkc0G
 みっともないことだとは思う。この辺にしとかなきゃ、とも思う。
 けれど口喧嘩をしている者の常で、自分から止めるきっかけが掴めない。梓は目の端に入る初音の困った顔に詫びながら、結局、
「あー、そうかいそうかい。どうせ何の取り柄もない男だよ俺は。ぜーんぶ俺が悪いんだな」
「わかりゃいいのさ、ホントにわかってんならね」
「……そこまで言うか。あー気分悪い!」
 荒荒しく障子を閉めて、足音も不機嫌に耕一が居間を出ていくところまでいってしまう。
 障子を睨みつけている視線もだんだんと弱くなり、今までの喧嘩内容を思い返すまでになったらおしまいだ。
 初音とも目を合わせられず、二、三度首を左右に振ると、無理やり勢いをつけて立ちあがった。はぁ、とため息を吐きつつ、気が重いながらも梓は夕飯の片付けを始める。
 喧嘩の後に残るものは苦い思いだけ。後悔先に立たず、とはよく言ったものだ。
 洗い物をしている梓を初音がおずおずと見て、口を開いたものの何も言わずに居間から去っていった。
 そーかそーか、実の姉より従兄弟の心のケアを担当するのか、なんて被害妄想に囚われる自分が嫌になる。今度は知らず知らずの内に口から吐息が漏れていた。
578泣いて笑って 3/12:03/02/22 21:57 ID:1xbfkc0G
 少し洗剤を使う手を休めて考えてみる。
 きっかけが何だったか、なんて忘れてしまった。どっちが悪い、ということではない。
 些細なことだったに違いない。今日の耕一がすれ違う女に気を取られていたとか、そんな下らないことをわざわざあたしが夕食時に当てこすったのが始まりかも知れない。
 いつもこうだ。情けない。狭い度量がほとほと嫌になる。それこそ、初音が羨ましくてたまらない。
 梓は流しに映る自分の顔を眺めて、やっぱり可愛げがないのかなぁと思ったりもしてみる。
 だからこそ、せめて心は胸を張って威張れるぐらいに広くならなくてはいけないのに、これだ。
 自省反省猛省、無限の螺旋回廊に捕まって、梓の手はもう完全に止まっていた。蛇口から垂れ流しにされている水が撥ねて、エプロンをどんどん濡らしていることにも気づかない。
 もっと違う言い方があったと思う。そう、ただ単にあたしだけを見ててほしい、こう言えば良かったのだ。
 しかし同時に、こんなこっ恥ずかしい――そして“初音みたいに”可愛い――ことを言うのは自分のキャラじゃないと、梓は自嘲する。
 終わりのない迷路。結論は決まっているのに辿りつく道筋が見えない。
 ふと気がついて胸元を眺めてみれば、まるで大粒の涙でも流したかのように、エプロンの柄である熊の顔が水に染みてぼやけていた。
579泣いて笑って 4/12:03/02/22 21:58 ID:1xbfkc0G
 翌朝、耕一と顔を合わせることができずに、いつもの朝食の後片付けすら放っぽりだして梓は早くに家を出た。何か言いたげだった初音をも無視して、今日も朝から気分は憂鬱。
 まだ根雪が残る舗道を物思いに耽りながら梓は歩く。
 道端にはちらほら花の芽が出ているけれど、コートも手放せないどっちつかずのこの季節。冷え切った体を温めてくれるはずもなく、純白の雪は申し訳程度にこびりついているだけ。気分が良くなるはずもない。
 ああ、ほんとにもう!
 謝ろう。唐突に思った。あるいは昨日寝床に入った時から心に決めていたことかも知れないが。
 こんな気分のまま一日を過ごすぐらいだったら、うん。なんとかは一時の恥、なんて古いことわざもあった気がする。
 けれど――足が止まる。どうやって謝ればいい?
 不器用な自分が、ごめん耕一、全部あたしが悪かった。耕一とこれ以上お互いに気分を悪くしたくないから、だって耕一のこと大好きだから、あたしの大事な……だぁぁぁっ。
 こんなことをぽろぽろ言えるはずがない。でも、仲直りは、したい。したい、けど、うむ。やっぱダメだ。けど。
 梓は独りで顔を赤くしたり、怒鳴ったりしながら学校に向かう。道行く他人から適度に距離を置かれ、学校にて変な噂が広まるのはまた別のお話。
580泣いて笑って 5/12:03/02/22 21:59 ID:1xbfkc0G
 授業中も休み時間も授業中も昼休みも授業中も考えに考えぬいて、けれど名案は出ない。
 朝より更にどんより気落ちして、心配するクラスメートにも放っといて、と手を振り、梓は深海にコンクリート漬けで沈められたような顔でとぼとぼ校門をくぐる。
 このままの状態で家に着いて、ただ一人残っているだろう耕一に何か言われたら今度こそ、どうにかなるかもしれない。
 お天気模様とそっくりな暗い心であれこれ必死に頭を捻ってみても、学校の時間を一杯に使って思いつかなかったものに、そんな簡単に完全無欠の解答が与えられるわけもなく、あっという間に家の玄関にまで来てしまう。
 知っているばかりの神様仏様イエス様えっと後イスラムの神様って何だろう、と思いつつともかく、なんでもかんでもに祈って、扉を開けてみる。
 やっぱり鬼の神通力は偉大だったのか、玄関に置いてある靴は可愛く小さい初音の革靴のみ。
 耕一が外出してるなんて珍しいこともあるもんだ、と思って、瞬間、あたしと会いたくなくてどっかに気晴らしに行ったのだろうか、とも頭に浮かんでさらに気分は海の底。
 居間にちょこんと座っていた初音が聖女のように見えて、もう恥も外聞もなく、梓は文字通り泣きついた。
581泣いて笑って 6/12:03/02/22 22:00 ID:1xbfkc0G
「……どうすればいいかなぁ」
 すると梓が驚いたことに初音はにっこりと笑って、事も無げに言ってのけた。
「贈り物をしてみれば?」
 外では折りしも、一面真っ白に曇っていた空から急に光が差して、支柱のように何本も地上と天空とを幻想的に繋いだ。梓の心も漂白剤を流されたようにぱあっと晴れていく。
 そうだ、その手があった。何かプレゼントと一緒にごめんなさいと一言謝れば、全て了解してくれるはず。何なら手書きのポストカードを添えたっていい。
 なんでこんなことに気づかなかったんだろう、やっぱり相談してみるもんだ。
 仄かな後光すら見える気がする初音に梓は満面の笑みでしっかと握手して、思い立ったが吉日、すぐさま立ちあがり玄関に回れ右をする。
「お姉ちゃんどこに行くの?」
「んー、早速デパートにちょっと買い物に」
「え、え、デパートって……」初音は駅前に一つしかないデパートの名をあげた。「そこに行くの?」
 決まりきったことを言う。この付近でデパートと言えば決まってるじゃないか。
 返事をするのも煩わしく、梓が背中で頷くと、初音は何故か慌てたように居間から飛び出してきた。
582泣いて笑って 7/12:03/02/22 22:02 ID:1xbfkc0G
「あたしは急いでるんだ、邪魔しないで」
「ご、ごめんなさい。……でも、何を買うつもりなの?」
「まだ決めてないけど――ああ、そうだ」ちょうど今朝の新聞に入っていた折込ちらしを思い出す。
 細かい文面までは忙しくて覚えてないけれど、季節が終わりに近づいているということもあるのだろう、確か冬物売り尽くしセールを開いていた気がする。
「やっぱり帽子とか、マフラーとか、その辺かな」
 靴を突っかけて戸に手を掛けた梓の正面に、初音が素早く廻り込む。
「そ、そこはやめた方がいいんじゃないかな? ほら、ちょっと遠いけど駅から反対方向にもっと大きい百貨店があるよ! あそこなら品物から絵柄からよりどりみどりで……」
「かなり遠いし、高い。わざわざ行く意味なんてない。デパートでいいじゃないか」
 いきなり何を言い出すのか、初音の思惑が掴めないまま気は急いて、どいて、どいて、と梓は彼女らしくもなくやや強引に初音の横をすり抜けて外に飛び出した。
 初音は呆然とその後姿を見つめて、しばらく考え込んでいたけれど、まぁいっか、何とかなるよね。そう自分に言い聞かせ、それにしても梓お姉ちゃんも耕一お兄ちゃんのことになったら本当に必死なんだから、見てて微笑ましいなぁ、
 などと当人が聞いたら情けなさと恥ずかしさで身投げをしたくなるであろうことを思って、鼻歌を歌いながら家の中に入っていった。
583泣いて笑って 8/12:03/02/22 22:04 ID:1xbfkc0G
 購買意欲をそそらせるようなアップテンポな曲が流れている。暖色系で纏められた装飾はどことなく春の季節を思わせて、梓はきょろきょろと混雑した店内を見回した。
 買い物をすること自体は慣れてはいるけれど、男のためにプレゼントを探すことは初めてで――そう、オトコだ。思って梓は赤面する。
 人々の何気ない話し声が、あの娘は地下の食料品店で食材を吟味しに来たんじゃないのよ、あら奥さん、サイズが合うブラジャー探しに服飾売り場に足を運んだわけでもないわ、七階のレストランで食事もしないの、
 あの娘ったらね、オトコに贈り物をするために来たらしいよ、あらあら全く近頃の若いのは、もうねぇ、夜もさぞかしよろしくやるんでしょうね、なんて自分を指差している気がして、目を伏せてそそくさとエレベーターに乗りこむ。
「お泊りは何回でしょうか?」
「え、え、いや、まだ一週間だけっ!」
「……あの、お客様?」
 怪訝な顔のエレベーターガールに聞き返されて、やっと梓は我に返る。六階、催事場をお願いしますと呟いて、少し落ち込んだ。
 全く自分らしくもない。仲直りのためなんだから、そうそう変に意識する必要もないのだ、たぶん。
 ぺしぺしと火照った頬を叩き、冷たい指先を当てて、高揚した心を何とか地上に引き戻そうとする。
584泣いて笑って 9/12:03/02/22 22:06 ID:1xbfkc0G
「六階でございます」
 エレベーターが目当ての階に着いた。丁寧なお辞儀と共に送り出された催事場は、まさに戦場だった。
 いつもは古ぼけた骨董品売り場なんかをやっていて、いやぁお客様もお目が高い。これは唐のうんたら年代ものですよ、掘り出し物ですねぇ。そうでしょうなぁはっはっは、などと笑い合う好々爺しかいない過疎地が、
 冬物セールを始めたばかりか、朝刊に大々的にコマーシャルを打ってしまったものだから、猫が鰹節を争うが如く、目の色を変えて集まった主婦たちが簒奪し、略奪し、賞品を競うコロシアムのような様相を呈していた。
 あちこちから怒号と絶叫と悲鳴とがミックスされたような阿鼻叫喚の喧騒が聞こえ、梓は救いの手を求めるように周りを見渡してみたが、アルバイトの店員はもちろん、たまたまそこを視察していた店長でさえ素知らぬ振りでこの有り様を容認している。
 清水の舞台から飛び下りるような心持ちで梓もその輪の中に体を押し込むが、簡単にはじき出され唖然となる。気を取り直してもう一度試みても、一ミリたりとも進めやしない。
 小さい頃からおしくらまんじゅうは苦手だったもんなぁと、現実から離れてしばし遠い目で過去を回想してみたりする。
 どうすりゃいいのやら。悩んでいる間にもどんどんエレベーターから新たなる戦闘要員が吐き出され、輪が一段と広がっている気がしてならない。
 自分に言い訳すると、梓はちょこっとだけ奥の手を解放した。
585泣いて笑って 10/12:03/02/22 22:06 ID:1xbfkc0G
 この日を境に、催事場でセールを開かないという不文律がデパート業界にできあがったというが、詳細はさだかではない。
 とにもかくにも、梓はゆっくりと商品を検討する時間を得、心許ない予算とも相談して充分過ぎるほど迷った挙句、選んだ淡いモスグリーンの手袋をラッピングしてもらった上に何故だか大幅に値下げをしてもらう。
 こんなんだったらもっと高いの選べば良かったかな、と荒涼とした売り場に独り佇んで、うっすら涙を浮かべている店長を尻目に考えたが、この色も随分気に入っているからまぁいっかと思い直してデパートを出た。
 デパート前に集まってがやがや騒いでいる群衆を掻き分け、サイレン音を背中で聴いて、梓は家に向かって歩き出す。
 ふと空を見上げれば西日が雲を紅く染め上げて、気が早い若い月が昇ろうとしていた。きっと明日はいい天気だ。梓はプレゼントを抱きしめて微笑む。
 そういえば、と考える。どうして初音はこのデパートを避けさせようとしていたのだろう。
 あの異常な混み様を想像していたのだろうか。それとも。つらつら考えていたが、その思考は家の門に着いたら粉々になってどこかに消えてしまった。梓はゆっくり深呼吸をして、
「ねぇ、寒くないの?」
 自分でも意外なくらい、自然に声が掛けられた。
586泣いて笑って 11/12:03/02/22 22:07 ID:1xbfkc0G
「寒いさ」門柱に寄り掛かった耕一が憮然とした顔つきで答える。「結構待った」
 どのくらい家の前で立っていたのか、腕組みをした手を小刻みに震わせて、しかし頭の先から地中まで一本の芯が通っているかのように、耕一はその場から離れようとしなかった。
 しばらくの間、互いに相手を探るような沈黙が訪れる。梓は天に残っている夕焼け雲を確かめて、覚悟を決めた。渡す機会は今を置いてないと思った。
 なるべく視線を合わせないように、怒ったような、照れているような、微妙な表情をして、梓は右手に握った紙袋を耕一にずいと差し出した。耕一が中を見る前に、「手袋」と梓は早口で言った。買ってきた、さっき。
 まじまじとその袋を眺めて、それから梓とを見比べて、耕一は吹き出した。
 む、と梓は眉をひそめる。そりゃちょっと柄じゃないかもしれないけど、笑わなくたって。
「初音ちゃんの入れ知恵だろ」梓の紙袋にプリントされているデパートのロゴを指差して、耕一は悪戯っぽく言った。「贈り物をしてみれば仲直りできるかもーって」
 図星だったので、梓は言葉に詰まった。
 自分の行為がひどく厭らしいものに思えてきて、皺の寄った紙袋に嗤われているようだった。
 気落ちした表情に気がついたのか、耕一はくしゃくしゃっと梓の髪を弄って言う。
「いや、俺もな。昨日の夜、初音ちゃんに説教されちゃったんだよ。なんで梓お姉ちゃんと喧嘩するの? ってさ。
 嫌いじゃないんでしょ、仲直りしたいんだよね? でもなぁ、どうすりゃ……って言い掛けたら、女の娘って贈り物されたらそれだけで嬉しいんだよ。お姉ちゃんもお兄ちゃんからプレゼントされれば喜ぶんじゃないかなぁ。
 こう言われたら、男として、な――」
587泣いて笑って 12/12:03/02/22 22:08 ID:1xbfkc0G
 ぽかんと口を開けた梓に、先を越されたんだよ俺は、と耕一はコートのポケットから先ほどの梓のそれと全く同じロゴが入った紙袋を渡す。
「ピンクの手袋だ、可愛い犬の刺繍がされてる。……しっかし、なぁ。同じこと二人に言ってたわけか。初音ちゃんも案外策士だよな」
 だからデパートを勧めなかったのか。梓はようやく事情が飲み込めて笑い出した。あたしたちは考えることが根本的に一緒なのだから。
「ん、ありがと。……あのさ、そろそろ家に入ろう」
 いい加減体の冷えてきた梓が、突っ立ったままの耕一を促すと、妙に改まった神妙な顔つきでわざとらしく空咳をした後にもごもご喋り出した。
 その、なんだ。昨日は。うん。血が上ってて。えっと。あーうー唸りながら、何とかして言葉をひねり出そうとしている。
 梓はもう一度笑って、耕一の手を引っ張った。
「いや、おい」
「いいの、いいの」
 むしろ謝るのはあたしの方だし、と梓は思う。それに、こうやって手を繋げば全部わかる。
 あたしたちは不器用だし、これからだって、晴れの日ばかりとは限らないけれど。
 苦笑した耕一が梓の手を握り返してくる。左手にはプレゼント、右手には耕一。梓はぶんぶん上下に両手を振って、温かな光が灯った玄関の戸を叩く。
 泣いて、笑って、それでもあたしたちは確実に前へ進んでいくだろう。