ここはビジュアルアーツ(以下VA)のCLANNAD開発室。
麻枝准はコーヒーを口にして吐き出す。
「ぐは、砂糖と胡椒間違った!」
隣の席の涼元悠一は椅子から思わず転げ落ちた。
「どうやったら間違えるんですか?」
「いや、考え事をしててだな」
「何をですか?」
一応、聞き返す。
「チンポを出して大回転させたら果たして空を飛ぶことは――」
「無理です!」
にべもなく却下される。
これでは詰まらないと准はどっぺる☆みきぽんにうんこフォルダをLAN経由で送り付けた。
「何するんでしゅか!」
十秒も経たないうちにみきぽんは向こう側の席から大魔神の形相で駆けて来る。
威嚇なのかみきぽんの口からは蝕手が数本出ていた。
だが、これでも女性だ。准はあくまでエレガントに訊ねることにする。
「君にチンポのことで意見を伺いたいんだが、いいかね?」
「しゃー! 良い訳あるか!」
「なに? くそ! やはり俺にはうんこネタしかないのか!」
「じゃかましいでしゅ!」
みきぽんの眼が光り准はその閃光に溶け込んでいく。
人生の走馬灯とも思わせる眩い光だった。
次の瞬間――
「懐中電灯で遊ぶのは止めてください!」
唯一の常識人、悠一の手によって諌められた。
「俺の暇つぶしが……」
「麻枝さん! 本気でCLANNAD作る気あるんですか!」
「何を! 俺はいつもマジだぞ! だからチンポ飛行術で最近流行のノーベル文学賞を狙って――」
「無理ですって!」
「じゃあ、智代のシナリオにチンポを付け加えるってのはどうだ?」
「くわー! CG塗り直しさせる気かー!」
「問題はそこじゃなありません!」
的確に突っ込まれる。
三日ぶりのお通じが来たような感覚だった。
「トイレ」
「分かりました。行ってください」
「に、皆は行ってるのか? 何でいたるや折戸さんは? しのり〜も居ないぞ!」
今日の開発室は、閑散としている気がする。
ちなみに今は夕方頃。もっと早くに気付いてほしかったと悠一は思った。
「そんなわけないでしょう! 今日、他の皆さんはメビウスに出向です。言ったでしょう?
SNOWのデバックを手伝いに行くって!」
「そうでしゅ。准は、シナリオ遅れてるから居残りでしゅよ」
「ん? 涼元、お前は行かないのか? シナリオ八割方できてんだろう?」
「麻枝さんの見張り役です」
「納得」
ジト目で見られる。が、気にする准ではない。
「みきぽんは?」
と、矛先を変えてみようと目を逸らす。
「准のキャラクターは誰が塗ってると思ってるんでしゅか!」
「シナリオ遅延の影響すでに出てるんです! ユーザーに失礼だとは思わないんですか!」
「……」
流石の准もユーザーのことを口に出されては言い返すことは出来なかった。
「……俺もメビウス行きたかった」
もうヤル気なし。准はすっかり拗ねまくっていた。
「SNOWやりたかった……」
身体を小さく三角座りして部屋の隅でこっくりさんの真似事をしている。
「面白そうだし……あんまん食べたいし……」
悠一はこめかみを押さえて言う。
「貴方は仮にも業界が誇るブランドKEYのシナリオチーフなんですよ」
「……」
「同じVA傘下と言えども他社のソフトを軽々しく『面白そう』なんて言わないでください!」
「そんなの、関係ないやい……」
「まったく……」
如何したものか。
悠一が悩んでいると開発室のドアがノックされる。
「KEY開発室宛に荷物が届いてますよ」
「うん?」
首を傾げつつも悠一はドアを開いた。
「あの、これ……麻枝さんに渡してくれって言われたんですけど……」
「ああ、ありがとう」
VA馴染みの受付嬢だったので悠一は警戒心を解いた。
荷物とやらを受け取る。
「送り先は……ああ、メビウスか。と言うことは……」
箱の中身を空けて悠一は苦笑する。
そのCDケースにはSNOWのマスターコピーが入っているようだ。
(これは……気を利かしてくれた、と取っていいのか?)
慎重派の悠一が思案していると、
きゅぴーん。と音が出そうなほど眼を光らせて准がそれを奪い取る。
「やっほー! SNOWじゃないか。これこそ神の贈り物。
よし涼元、あんまん買って来い! みきぽんは茶を入れてくれ!」
嬉々として准はインストールを始める。
やれやれと悠一は頭を掻いた。
(こうなったら誰にもこの人は止められないな)
子供のように目を輝かしている彼に、悠一は心から付いて行こうと誓ったのだから。
打って変わって――
スタジオ・メビウス開発室では、しのり〜が厳しい眼差しで彼を見つめていた。
「麻枝君たちを連れて来なくて良かったわ」
「僕としては拍子抜けだけどね」
両手に抱えたあんまんをひとつ取り出し、彼……久弥直樹は口に放り込む。
「あんまんは命の源だよ〜」
「……」
「は! 僕はまたやってしまったのか!?」
折戸伸治はふっと苦笑した。
「相変わらずだなその癖は。
キャラクターの持つ個性を味わい深いものに変えるために同じ仕草、口癖を真似するところは……」
「折戸さん! もしかして――」
直樹を見て動揺どころか率先して話し出す折戸にしのり〜は困惑した。
「無論、知っていたよ。メビウスに来ていることは。馬場社長に直接聞いていたかね」
「……貴方って人は!」
「勘違いするな。君も知っての通り、麻枝と久弥の生産ラインを二つに分けようという話があったろう?
つまりは、こういうことだよ」
「でも、わたしは納得できません。准君が知ったら、どうなるか……」
「だから、連れて来なかった。問題はない」
折戸の言葉に、しのり〜は反発したかったが、確かに准を彼に会わせてたくは無かった。
このソフト……SNOWをプレイした後では……。
「……でも、SNOWが出たら分かることだわ。それまでの束の間の平和ね」
「くかかかっ、その心配は無用だ」
扉の向こうから出てきた男を見て、しのり〜は我が目を疑った。
知らないわけ無い――業界でもこの顔を知れ渡っている。
「あおむら――」
「おう誰だそりゃ! オレっちは竹林秀明って言うんだよ!」
「まあいい。それに今、オレっちはもの凄く気分がいいからな」
「どっちにしてもleafの人間でしょう! どうしてここにいるのよ!?」
目を見開いて詰め寄ろうとする彼女に、
「しのり〜!」
直樹は親の仇を見る目で睨んだ。
「竹林さんに何て――言葉を慎むんだっ!」
「――!」
しのり〜は我が耳を疑った。こいつは敬称で呼ぶに値しない奴だと彼女は思っていたからだ。
しかも、直樹の口から出るなんて想像も付かなかった。
「へへへへへ。望月くん怖かったよ。何だい何だいこの女は。可愛い顔しておっかねー」
「すみません。元同僚ですよ」
「もと? 久弥君いい加減にして――」
しのり〜は、今度こそ息を呑んで直樹のことを見てしまった。
(……怖い。これが、あの穏やかだった久弥君なの?)
そこに、竹林が割り込んで、へへっと笑う。
「言ったろう。こいつはもう久弥直樹じゃねー望月JETだ!」
「そういうことだ。しのり〜。君が知ってる久弥はもう死んだんだ……」
しのり〜は驚きの余り折戸を見る。
彼は小さく首を横に振った。
このことはどうやら折戸も知らなかったらしい。
それが、しのり〜に腹を括らせた。
「格好付けないで!」
パチン。平手打ちの音が開発室に響いた。
「殴ったね! 親父にも殴られたこと無いのに!」
「馬鹿! 何様よアンタ! 大体、このゲームは何なのよ! このパクリゲーは!
こんなの……こんなの、わたし達のAIRの焼き直しじゃない! 大馬鹿よあなたは……」
「パクリ! パクリだと!」
直樹の手がぷるぷると動き出して、
「ふざけるな!」
しのり〜の頬を平手で殴り返そうと孤を描いた。
しかし、手を振り落とそうとしたところで、ぐっと力強く捉まえられる。
直樹は邪魔するなと、相手を見やるが、そのまま押し黙る。
「……折戸さん」
「もういい。止めておけ久弥」
親に叱られた子供みたいに直樹はその手を引いた。
眼差しだけが真っ直ぐに折戸を見つめる。
「でも、パクリだなんて酷いです。
僕は頑張って作りました。自信を持ってそう言えます!」
「久弥、お前……もしかしたら」
「じゃあ、宜しくお願いしますねー!」
その時、会議室から漏れ出た声、廊下側の方から徐々に迫って来る。
開発室のドアをその声の主が開けた。
「待ったーみんな? ごめんね。打ち合わせの方が長引いちゃって……あれ?」
いたると他、雲竜魁にスタジオメビウスの飛鳥ぴょん。
新川仁もその後方に控えていた。
「久弥君、久弥君だ。久し振りじゃない。元気してた?」
「樋上……」
直樹にはその笑顔が眩しいのだろう。
いたるをぐっと抱き締める。
「どうしたの? ……痛いよ、久弥君? ねえ、久弥君てっば」
「……樋上、樋上、僕は……」
「もしかして、久弥君……泣いてるの?」
直樹自身、そのことに気付いていないのだろう、子供のままに彼女を抱き締めた。
いたるも照れながらもそれを受け入れた。
「折戸君、話を聞かせて貰える?」
「うーん……参ったね、これは」
折戸は頭を掻きながら、いつも通り苦笑して見せた。
「俺もSNOWをして驚いたんだがね……まあ、これも馬場社長の方針さ」
「……そっか、仕事だもんね。仕方ないもんね」
いたるは上目遣いに直樹を見つめる。
しのり〜はそれを横目で見やり敵わないなと胸中で苦笑を漏らした。
いたるは笑顔である問い掛けをすることにした。
「久弥君、AIRって知ってる?」
「何を――君らのブランドが出したソフトじゃないか。
……知らないわけ無いだろう」
直樹は顔を伏せて呟く。
でも、いたるは体を反らせて更にその下から、直樹の顔を覗き込んだ。
「じゃあ実際に、ゲームをプレイして見てはくれた?」
「そ、それは……」
直樹はしどろもどろになる。
しかし、いたるの笑顔の前では誤魔化せそうに無かった。
白状することにする。
「ごめん……実はやってないんだ。ピクミンばかりしてたから……」
「……」
「だって僕が居なくなった後のKEYのソフトだよ?
悔しいよ凄く。それを第三者の視線からプレイするなんて、僕にはできないよ」
「……だと思った」
「樋上?」
いたるはSNOWと描かれた企画書を折戸に『後は任せた』という風に手渡した。
「……声高に言う気は無かったけど、これも仕事か」
やれやれと折戸は久弥に向き直った。
「久弥は、誰に『LEGEND』の案を聞いたんだ?」
「え? 僕のアイデアに決まって……あ、いやそう言えば、『こういうのはどうだ』って聞いたんだ。
確か……僕がシナリオ展開に行き詰っていた時に、竹林さんが……」
「何を言ってるんだ望月! 転生ネタなんてどこにでもあるだろう? 別にオレっちが言ってたなんてことは、全然――」
「いや、あれは確かに竹林さんだった……でも、どうして否定するの? すごいアイデアじゃないですか?」
「そ、それは……」
じりじりと壁際にまで下がっていく竹林。
皆の注視を受ける中、
「VIP待遇なのに、もっと前に出て来いよ。竹林君。いや――」
折戸が彼の手を引き寄せて、微笑を浮かべた。
「青紫と言った方がいいかい? 元leafの俺を騙そう何て十年早いよ」
嘘だ、と直樹の目が大きく見開かれていった。
「あおむらさき……あの出来杉の……そ、そんな……」
「何を言ってんだ! オレっちは馬場社長の意向を受けてここに――」
「まあ、本当だろうな。が、それを知らない下川じゃないな。それは、俺自身が一番良く知ってる。
ふふふ、下川にこう言われなかったか? 『隙在らば内部分裂の工作をしろ』ってね」
「――ぐっ!」
「まあ、それくらい馬場社長も分かっての起用だろうし、Routesの開発から左遷を喰らったのには同情するがね」
「ち、ちくしょう!」
青紫の苦虫を噛み砕いた顔を見てすべてを悟り、直樹はその場に崩れ落ちた。
「じゃあ、僕は――まさか、僕は! 准のシナリオを――くそっ!
何のためにKEYから離れたんだ。准が居なくても世間に僕の価値を認めさせてやれるハズだったのに……」
「久弥君……」
「ちくしょう! ちくしょう! ちくしょう!」
「しかしまあ、SNOWの延期に告ぐ延期で、馬場社長もトサカに来てたんだろうな。
久弥、お前の自業自得だよ。元ネタありの作品なら開発期間は少なくて済むことは分かるだろう?
それに久弥――安易に自分より他人の意見を聞いてシナリオに回すなんていうのは……」
折戸はハイライトを取り出しライターで火を点けた。
肺にそれらの煙を満たして吐き出す。
「謂わば――三流だ」
直樹は信じられなかった。
生産ラインを二つに分ける時のことだ。
KEYでそれらを同時進行をさせるのではなく、
久弥自身を他ブランドに移すことになるとは思いもしなかったから。
行った先のブランドで直樹は激昂した。
――折戸さんならこういう音楽を作る。
――KEYのCGはもっと映えるし色使いも独創的だ。
――この原画には萌が見当たらない。
直樹が煙たがられてしまったのは言うまでも無いだろう。
だが、誰が直樹を責められる?
最高の環境にて仕事をしていた直樹に最早、妥協の二文字は在り得なかった。
AIRがKEYから出た時には嫉妬さえ感じた。
スタジオメビウスに招かれてもその想いは拭えるものでは無かった。
苛立ちだけが日に日に募っていく。
シナリオは精神状態に大いに左右され遅延は余儀なくされた。
そんな時だった。竹林秀明と出会ったのは。
「お前の感じている感情は、精神的疾患の一種だ。
鎮める方法は俺が知っている。俺に任せろ」
久弥は任せた。
そこに自分が求めているシナリオがあることを信じていたから。
「だけど、その結果が……これだなんて……」
その場から直樹は駆け出した。
「久弥君!」
「あんなやつ放っておけ!」
「……折戸さん」
だが次の日も、直樹はスタジオメビウスに現れることは無かった。
「うおー芽依子様萌ー!」
「何を言ってんですか……これAIRの類似品ですよ?」
「え? そうなのか?」
准の能天気さに悠一は頭を抱え込んだ。
「だってほら――『SUMMER』と『LEGEND』なんてそのまんまじゃないですか。
本当に誰なんです? 望月ってシナリオライターは。同じVA傘下でも程がありますよ」
「え? 望月?」
准は目を丸くして、
「これ久弥だよ」
と、PCのディスプレイに表示されたSNOWを指差した。
「……へ?」
もう一度、悠一は脚本が誰か確認するためEDを見てみる。
「望月JETって書いてますよ?」
「いや、久弥だって。あー面白れー。桜花シナリオの挿入歌もサイコーだ!」
「……まるっきり青空だし」
「何か言ったか?」
「いえ何も……」
これ以上は何も言うまいと悠一は頭を振った。
(久弥さん? 本当に?)
実は内心、萌を感じた悠一だったので、彼のシナリオなら自分を納得させることができた。
KEYは最高のシナリオソフトメーカーでなくてはならなかったから。
「……手ごわい敵の登場ですね」
「そうだな。お前は俺のシナリオパートナーだけど……」
「……?」
「あいつとはONEの時もkanonの時も互いにパートナーにはなれなかったから、
もしかしたら、これでいいのかもしれないな……」
「それってどういう……」
「うん? ははは、簡単なことだって。あいつはパートナー何かじゃなくて俺の唯一の――ライバルなんだから」
KEYの部屋から電気が消える。
明日の朝日とともに再び光が灯されるまで。
「雪が降って来たか……」
KEYの開発室にSNOWを届けた後のこと、彼は暗雲立ち込める空を見上げた。
「冷えるか今日も……」
すでに最終電車の時間も過ぎている。
タクシーを使うには少し勿体ない夜だと彼は飽きるまで町を歩くことにした。
交差点に差し掛かったところで、
「お久し振りです」
旧友に出会い挨拶され彼は破願した。
「折戸君じゃないか」
「YETさんも変わりないようで安心しました」
暫しの間、世間話に興じことにした。
「今日、友人にきついことを言いました」
「そうか」
「でも、あいつは分かってくれると思います」
雪舞う空を見上げて折戸は言う。眼差しはとても真っ直ぐに、優しく――
「帰って来るよ久弥は」
「……え?」
「今夜はしばれる。早く帰れお前も」
「はい」
「あははは、互いに苦労するね、あいつ等には」
「まったくその通りで」
次の信号が赤から青に変わり二人は背を向けて歩き出す。
指先を伸ばすと雪が触れた。
それは、やはり冷たい。しかし何故だか心は温かく満たされていく。
「雪のくれた贈り物か……」
あのSNOWについて麻枝准がどう出るか、それだけを楽しみに夜は深ける。
それから半月後――
1月31日、SNOWは一斉に棚卸されることになる。
久弥直樹と麻枝准の勝負はこれからが本番だった。