白一色の風景の中を、静かに移動してゆく、古びたオレンジ色の車両。
ガタゴト、ガタゴトと、僅かな響きを残して、たった二両の短い電車が、雪山を抜けて行く。
傾斜はきつく、車両は老朽化し、勾配を上るスピードはごくゆっくりとしたもの。
おかげで窓の中から眺める風景も、単調で退屈極まりないものだった。
その変化の乏しい風景を、電車の中から無表情に眺めている乗客が一人。
篠塚弥生は、長く顔にかかった黒髪を鬱陶しく思うこともなく、懐かしさを覚える景色を、ただ見つめていた。
雪は好きだった。
白く、静かで、深く、煩わしい現実もなにもかも塗りつぶしてくれる。
飽きる、と言うことはない。子供の頃から雪は弥生の世界の一部だった。
夏と呼ばれる僅かな例外を除けば、常に雪は故郷を覆っていた。
秋も深まり、雪片がちらと舞いだせば、他人がやれやれと諦めたように空を見上げる中、なぜか弥生は安堵を覚えた。
まるで世界が自分一人きりになったようで、落ち着くのだ。
もともと孤独と静寂とを愛し、誰かと一緒に盛り上がるということがない。
年に一度の祭の日さえも、年頃になってからは色々と煩わしいことが増え、本を読んで過ごすことが多かった。
そもそも他人と同じ事を考え、同じ事をするというのが、大の苦手だった。
そんな自分が、この世でもっともにぎやかな世界――芸能界に飛び込むことになるとは。
いや、変わりたかった――のかもしれない。
一生を雪の中でさしたる変化もなく過ごすよりは、自分の才能でなにができるのか試したかった。
故郷に飽いたわけではない。だが、狭い可能性の中で朽ちてゆくのはごめんだった。
そして都会という名の喧騒に投げ出され、様々な挫折や失望を覚えながらも、その中に見いだした一粒の宝石。
それは儚く、脆く、ともすれば雑多なネオンサインの中で埋もれてしまいそうにささやかなものだったが、他のものとは違う輝きを持っていた。
森川由綺。
余りにも自然で、周囲に馴染みすぎる彼女を、最高の輝きを放たせるために、引き立て、売り込み、磨き上げた。
能面のような表情からは伺い知れなかっただろうが、弥生が一つのことにこれほど真剣に打ち込んだのは、初めてのことだった。
熱病に浮かされたように、由綺に必死になった理由は今もって不明だ。
彼女が自分の理想の姿、だったわけではない。だが、かけがえのないものに思えた。
気づいたのが自分だけだったという自負もあっただろう。あの、緒方英二よりも早く。
それは恋に似ていたかも知れない。
ならば音楽祭での惜敗は、恋に破れたのだろうか?
そこまで考えて、ふっと自嘲が浮かぶ。
恋は破れれば終わりだが、由綺はまだ歩み始めたばかりで、弥生が手を引き、背中を押す日々はまだ終わらない。
彼女がアイドルである限り続く、転落という崖に挟まれた、栄光への細い階段。
音楽祭の優秀賞受賞さえ、ステップの一つに過ぎない。
そう、音楽祭――。
残念ながら最優秀賞こそ逃したが、デビュー一年目としては、十分すぎるほどの成果だろう。
ほぼ予測された結果ではあったが、弥生らしくもなく、もしかしたら、という期待はあった。
そして予想と違わぬ結果を発表され、思わず自嘲――したはずが、ため息と共に流れたのは一筋の涙。
それは感動なのか、歓喜なのか、落胆なのか……少なくとも、戸惑いはあった。
涙なんて、もうずいぶんと流していなかったから。
喘ぐようにして電車が止まった。
山間の隙間に滑り込むようにして、敷設されている小さな駅。
人気の少ないホームは新雪で埋まり、足跡を残すことさえためらわれる。
たった一カ所、改札に繋がっている僅かな屋根の部分だけ、コンクリートの地肌が姿を見せている。
そこに、珍しく人影があった。
おそらく、由綺と同年齢くらいの若い女性。だが、およそ女性らしさは感じない。むしろ少年のようだ。
この地方をなめているのかそれとも無知なのか、薄手のダウンジャケットを羽織っただけの軽装だ。
僅かな手荷物を詰めるだけの小さな鞄も、あまりに旅行者らしくない。
ましてや女性の一人旅だ。旅館だったら危険なものを感じて宿泊を拒否するかも知れない。
その女性は、手動に切り替わっているドアを重そうに引き開けると、冷たい空気と共に乗り込んできた。
ジャケットの雪をぱたぱたと払うと、くるりと車内を物珍しそうに見渡す。
目があった。
彼女は首を傾げると、しばし宙に視線をさまよわせ、こちらに歩いてきた。
静寂を乱される予感が、弥生を嘆息させる。
はたして彼女は、弥生の座るボックス席の向かいを指し示し、
「ここ、いいかな?」
と、聞いてきた。
「他にも席はいくらでも空いていますが」
弥生のぴしゃりと閉ざすような口調を気にもせず、
「ひまだから」
だから話し相手が欲しい、とまで説明はせずに。
「……ご自由に」
望郷の念に囚われ、多少なりともノスタルジックな感傷に浸っていたからだろうか。
弥生はいつもの冷たい眼差しで跳ね返すこともせず、ただ、好きにさせた。
「お姉さんはどこまで?」
普段なら無視するか席を立つかしただろうけど、それも面倒だった。
しっとりとした白い風景の落ち着きが、弥生に伝播していたせいもあるだろう。
「――までですが」
短く、駅の名前を告げた。多分、誰も知らないような、ごく小さな村に繋がる駅。
「里帰り?」
「当たりです」
「あんまん、食べる?」
脈絡のない会話の流れに、座席からずり落ちそうになる――という無様な動きは見せず、視線に疑問符を乗せるだけにとどめた。
「冷めちゃうから、はい」
鞄から取りだしたあんまんを、断る間もなく弥生の手に押しつける。蒸れた暖かさが手のひらの上に乗った。
「駅員のおじさんがね、冷えるからってふかしてくれたんだ」
楽しそうに説明しながら、あんまんを半分に割って、ぱくつく。
調子の狂うのを自覚しながら、弥生もあんまんを小さく囓った。餡に届かず、もう一口。
焼け溶けるような熱さが舌の上に広がる。そして、甘さと。
あんまん、と言うよりは、郷土特産の蒸し饅頭だ。素朴だが、懐かしい味がする。
「おいしいね」
無邪気な笑顔につられて、つい、
「……そうですね」
ほっと、ため息のような笑みをこぼした。
思いがけず得た旅の相方は、馴れ馴れしくはないのに、時に深く心に踏み込んでくる。
それが鬱陶しくないのは人徳なのか、独得の空気のせいか。
じっと窓の外を眺めていたかと思うと、急に話をふってくる。弥生も言葉少なに返事を返す。
そんな対応を続けているうち、この奇妙な同行者に、少なからず興味が湧いた。
「どこまでゆくのですか?」
「――どこまで行こうか?」
疑問に疑問で返され、一瞬言葉に詰まる。勝手にすればいい、とも思うけれど。
「当てのない旅ですか?」
「実は失恋を癒すために、傷心旅行(センチメンタル・ジャーニー)を」
人物像からは意外なような、状況を考えると意外でないような返答。弥生は生真面目に、
「お気の毒です」
と返した。考えてみれば非情な物言いだが、言った方も言った方で、
「んー、冗談だったんだけど」
「そうでしたか」
ボケとマジ突っ込みの応酬なのに、なぜか笑いの一つも起こらない不思議な漫才。
そんな自分たちがおかしくて、くすりと笑いが零れた。
一つ聞くと、疑問はいくつも数珠繋ぎに出てくる。
「どうしてあの駅にいたのですか?」
自分の知る限り、あの駅にあるのは故郷と似たり寄ったりのわびしい寒村だ。
と言って、彼女からは地方特有の話し方の癖や、空気は見られない。
「ん、なんか降りたくなって」
「偶然……ですか?」
「雪が綺麗だったから、もっと見たくなった」
ああ、それならなんとなく分かる。
「ずっとね、ぼーっとしながら雪を見ていた」
ここの雪は人の手が入ることなく、全てが自然なまま、降り注いだときのまま、春が来るまで沈黙の中、ただ、静かに積もりゆく。
自分と同じ空気の分かる人の存在が、弥生の心を軽く浮き立たせる。
仲間を見つけて喜ぶなんて、弥生の行動パターンには稀な出来事だった。
世界から剥離している者同士の、痛みの共有だったのかも知れない。
「でもびっくりした。電車が一日に二本しかないなんて、知らなかったし」
「乗る人が少ないですから」
「寝転がって、このまま埋もれていくのもおもしろいかな、と思ってたら、駅員さんが駅舎の中に入れてくれた」
「あそこで凍死していたら、春まで発見されない確率が高いですね」
「熊に食べられていたかも知れない」
「その可能性もあります」
「んー、これも冗談だったんだけど」
「冗談ではすまなかったかもしれませんが」
「恐い恐い」
そのくせ楽しそうに笑っている。不思議な少女だった。
パァン……と残響を残して、列車がトンネルの中に飛び込む。
電気代の節約か、それとも切れているのか、車内のライトは灯らず、闇の合間に閃くオレンジの光が、2人を照らす。
ごうごうと狭い空間がにわかに騒がしくなる中、少女が口を開いた。
「お姉さん、森川由綺って、知ってる?」
「……ええ」
「実は私の友達なんだ」
秘密を打ち明ける、にしては余りにもさりげない口調で。
「そうでしたか」
「んー、残念。びっくりしない」
この少女なら、例え英二の隠し子だ、とか言われても驚かないかも知れない。
そういう非常識な事実を内包している感じはあった。
弥生もいたずら心が湧いた。普段ならけっして公表しないだろうけど。
「実は、私は森川由綺のマネージャーなのですが」
「へぇ」
「驚きませんね」
この少女の驚くところを見てみたくはあったが、正直、そんな普通の反応を見たくもなかった。
自分でも心の動きがよく分からない。巻き込まれている感じはないが、微妙に自分のペースが崩れている。だが、不快ではない。
逆に彼女は、これが本命だと言わんばかりの、笑みを浮かべた。
「実はね、エコーズで見かけた事あったから」
「ああ……」
不意に納得した。
いくら弥生でも喫茶店の客一人一人は覚えていないが、逆に由綺と一緒にいるところを覚えられたと言うのなら分かる。
「では、藤井さんともお知り合いですか?」
「少しね」
彼女は小さく笑って、暗い壁しか見えない窓に目を向けた。
オレンジの光が瞳孔を滑り、また現れるのを繰り返す。
横顔を見ながら、あながち、傷心旅行というのは冗談ではなかったのかも知れない、と思う。
それは弥生も同じようなものだった。ただし、それが冬弥に対してのものか、由綺に対してのものかは――自分でも分からない。
弥生も同じように窓の外に目を向けた。
トンネルを抜けても、まだ世界は銀色の紗に覆われていた。
薄い陽光が雪に反射し、眩しさに目を細める。
その光は常に、弥生の心を惹きつけて止まない。
そう、由綺も周りからの光を受けて輝く、白色の宝石だ。
余りにも素直で混じりっけがなく、ともすれば、見てるこちらが不安になるくらいの純粋さで、真っ直ぐに受ける光を跳ね返す。
一度誰かが足を踏み入れれば、容易く灰色に穢れてしまうのに。
由綺を守りたいという思いは、その危うさと懐かしさと、故郷の静けさを大切に思う気持ちに連なっていたのだろうか。
自分がここに帰ってきた理由が、少し理解できるような気がした。
弥生にとっての終着駅が近づいてきていた。
雪でレールが滑るため、減速も長く、ゆっくりとしたものだ。
荷物を下ろし始めた弥生に、少女が聞く。
「つくの?」
「ええ」
短い、別れの確認。
「また会えるといいね」
「そうですね」
再会しても、電車の中での邂逅などおくびにも出さず、変わらぬ素っ気なさで迎えてくれることを期待して。
多少の名残惜しさを覚えるが、二度と会えないわけでもない。仮に一度きりの出会いになっても、らしいと言えばらしくていい。
列車はゆっくりとホームに滑り込んだ。
「では」
「ん」
軽い会釈に、少女は小さく手を振って返した。
重いドアを引き開け、高低差のあるホームに、飛び降りるように足を落とす。
踏みしめられた雪がきゅっと耳障りのいい音を発する。
冷たい空気は痛いほどに胸を満たすが、それもまた、懐かしさの前には心地良い。
駅員の一人すらいない、小さな無人駅。
だが、駅舎の形も、その上に掛かる木の枝も、規則正しく時を刻む時計も、記憶の中の光景と一緒で――そして少しだけ変わっていた。
弥生の背が伸び、髪が伸び、けれども今だ篠塚弥生であるように。
帰ってきた。そんな感じがした。
短くベルが鳴った。列車が滑るように動き出してゆく。
窓の中で、少女が小さく手を振っていた。
弥生は黙ってそれを見送った。
なぜだか心が暖かかった。
すぐに電車は雪に埋もれるようにして、見えなくなってしまった。
歩き出して、ふと、気づいた。
少女は自分を知っていた。それはいい。
だが、それはこんな寂れた電車の中で、弥生と出会う理由にはならない。
話がしたいならそれこそエコーズでもどこででもできる。わざわざ凝った演出をする理由はどこにもない。
かといって、偶然にしては、余りにも可能性の薄い偶然だ。
振り返ってみたが、電車はすでに山陰の向こうに隠れてしまっている。
まるで狐か狸に化かされたようにも思えた。
ふっと弥生は笑った。
偶然なのか、意図的なのか、誰かの導きなのか。それはどうでもいい。
ただ、暖かく、楽しく、ほんの少しだけ寂しく、心地良い出会いだった。
それで十分だった。
弥生は雪を踏みしめ、人っ子一人いない無人駅の改札を、そっとくぐった。
雪がその後ろ姿を追うように、再び舞い落ち始めた。