普段と同じやうに飯を作り、普段と同じやうに独りで食ふ。
何気無い行動の筈であるのに、奇妙に違和感があつた。
この家はこんなにも静かで広かつたであらうか。
そして知らず知らずにうちに二人分用意してゐた夕食につひては、だう説明を
すれば良いのであらうか。
居間で寛ひでゐても、おれは後ろを振り向ひては、其処に話し掛ける相手が
居るかの如く、声を掛けやうとしてゐる。
風呂が沸ひたぞと言つては、独りである事に気付く。
きつと今日のおれはだうかしてゐるのだ。
晴れてみどりとの婚姻を許して貰つて、今迄蓄積した疲労が纏めて襲つて
来たのであらう。こんな日は早く床に入るに限ると、おれは店の方に向かつて、
おい、店の片付け頼む、と声を掛けた。
暫くしておれは漸く気付ひた。誰が其処に居ると云ふのだ、誰も居る筈が無い。
否、今は居らずとも、確かに今迄は其処に誰かが居たのだ、例へ妄想だと
言はれやうとも構はぬ、確かにおれ以外の何者かが暮らしてゐた痕跡があるのだ。
おれは着替へもせずに家を飛び出した。何処を探すと云ふ訳でも無く、唯只管に
根拠の無い望みを持ちながらおれは走つた。
何処をだう走つてゐたのか良く覚えてゐないが、おれは闇雲に夜の街をさ迷つた。
冬の夜は道行く人の数も稀で、今の取り乱してゐるおれにはそれが有り難い。
どれほどの時間走り続けてゐたであらうか、息が上がり切つたおれは、
呼吸を整へる為に小休止しやうと公園に入つた。
其処でおれの目に写つたものは、鮮やかな色の髪をした二人の少女。
一人は蒼色の髪、そしてもう一人は桃色の髪。
忘れてゐられる訳が無かつた、スフィイ、と自然に口が動ひた。
おれはもう一度あらん限りの声でスフィイの名を叫んだ。上がり切つた息の中、
汗も鼻水も垂れるに任せ、よろめきながらおれは走り寄る。
振り向ひたスフィイのその顔は、驚愕に満ちてゐるものであつた。
何故、と言つたきり、絶句する。
リアンも驚ろひてはゐたものゝ、未だ冷静さを失つてはゐなかつたので、
姉に成り代はつてその驚愕の理由を説明し始める。
それに因ると、グエンディイナ人に関はつた人間は、グエンディイナの機密を
守る為に、帰還前に記憶を全て抹消せねばならないのだと言ふ。
スフィイが直直に術を施しながら、斯くも容易く破る事の出来た人間は例が
無いさうである。しかしながらこの術は仮のものであつて、帰還の術の際には、
本格的な忘却の術が施されるのだとリアンは続けた。
とその時、スフィイとリアンの身体がぼんやりと発光し始める。
帰還の術が始まつたのです、とリアンが言ふ。
おれは未だ口が聞けぬまゝでゐるスフィイの頭に手を置ひて言つてやつた。
直ぐには無理でも何時か必ず思ひ出す、お前へのやうな騒騒しい奴の事を
何時までも忘れられる訳が無いではないか。
スフィイは泣くのだか笑ふのだか良く分からぬ顔をして、何度も頷ひてゐた。
今はごく自然に口を突ひてその言葉が出やうとしてゐた。
スフィイ、おれは本当はお前への事が、
さう言ひ掛けたおれの口を、スフィイは人差し指を突き付けて制し、黙つて
かぶりを振つた。
さよなら、けんたろ、大好きだつたよ。
さう言ふと、スフィイは顔を近付けた。何をしやうとしてゐるかおれも分かつたが、
敢へて避ける事はしなかつた。
スフィイの唇がおれに触れるか触れぬかと云ふ所で、一際眩しい光明が
スフィイを包み、その中でスフィイの姿と記憶が共に消えて行つた。
-------------------------後日談-------------------------
自分らしく生きる事なんて 様になる言ひ訳
小さな事に傷つひてても 認めたくなくて
貴方は私の積み上げた 強がりを支へてた
何処からか懐かしさを覚へる唄が流れ聞こへて来る。
ぼんやりと縁側の方に眼をやると、みどりが洗濯物の山を前へにして
歌つてゐるのが確認できた。
夫婦の契りを結んだ頃は、未だお嬢様らしさが抜け切らなかつたが、
かうして見ると、今やすつかり確り者の女房と云つた具合ひである。
スフィイが五月雨堂を去つてから既に三年の月日が経つてゐた。
その三年で何か変はつた事はと言へば、おれとみどりとの間ひだに娘が
生まれた事であらうか。特に義父などは目尻を下げ捲くつて、傍から見ても
気味の悪い位の喜びやうであつた。 ミヤビ
名前は、おれとみどりの思ひ出の地である京都の風雅に因んで雅とした。
その雅が、歩みを始めた頃に何処からか鞠を持つて来たのである。
今でこそ、雅の足元でいたづらに跳ねてゐるだけに過ぎぬその鞠は、
京都に行つた時にスフィイが作り出した鞠であり、京都から戻つてからは
何時の間にやら何処かに行つてしまつてゐたのであるが、流石は失せ物を
見つけ出すと云ふ鞠だけあつて、おれの求めた時に現はれ、おれの求めて
ゐた失はれしスフィイの記憶を見つけ出したのだ。
否、それは贔屓目であつて、恐らくは鞠の力では無く単なる偶然なので
あらうが、偶にはかやうな浪漫に浸つてみるのも悪くはあるまい。
おれは信じてゐるのだ。
おれの前へにスフィイが現はれたやうに、いづれ雅の前へにもスフィイのやうな
魔法使ひが現はれ、滅茶苦茶ではあるが楽しき日日を齎らしてくれるであらう事を。
そしてその時にはスフィイも共に来て、長き空白の時が何事も無かつたかのやうに、
けんたろ、と呼び掛けてくれるのである。
その日が来るのを、おれは気長に、円満ではあるが退屈な毎日を送りながら
待ち続ける事にしやう。
外では未だみどりの歌声が聞こへてゐる。
また何処かで貴方と逢へたら 有り難うと
笑顔で言へる私に成る 明日の為に
了