葉鍵的 SS コンペスレ 5

このエントリーをはてなブックマークに追加
 女子高生雛山理緒、十六歳。
 今夜、彼女は、浮かれていた。
銭湯帰りの夜道を歩きながら、とても……とてもとても、浮かれていた。

 こんな、特に可愛くも取り柄もない私に、彼が「俺も、理緒ちゃんが好きだ」
って言ってくれた。
 ずっと片思いだった藤田くんが、こんなドジで貧乏臭い子に告白してくれた。
 
 偶然銭湯の帰りに出会った彼と、夜道を歩きながら話していた。
 人通りもない川沿いの土手道の上で、彼も、春の温かい夜風も優しかったか
ら、なんとなく、いつか必ず言おうと思っていたことが今日、言えた。
 “なぜ自分はあなたを好きになったのか”──あの日の、こと。
 そして、告白以来ずっと待っていた藤田くんからのはっきりとした返事が欲
しい、と。
 十六年の人生で、一番なけなしの勇気を振りしぼったことへの報酬が、彼の
その返事だった。

 そして、ふたりは初めてキスをした。

 雛山理緒だって高校生の女の子だ。これで浮かれない方が、どうかしてる。
 あのキスの瞬間胸奥からせり上がってきた熱が、もう藤田くんの姿も見えな
くなったってのに、まだ繰り返し繰り返し込み上げている。
 顔も火照ったままだ。風呂あがりでぽかぽかなのに、さらに過剰なぐらいの、
熱。
 乾きかけの濡れ髪を暖かい春の夜風に晒して歩くだけで。ただでさえ、心地
よいのに、その上さらにこんなに良い気分が加算されて大丈夫なんだろうか?
 歩く感覚がふわふわして心もとない。
 なんだかいまジャンプしたら、ふだんより30cmは高く飛べそう。
(“天にも昇るような気持ち”って、このことなんだ〜…)
 ドラマやマンガで見た言い回しを、自分の感覚で実感した。
 すごく、感動した。
 自分にこんなドラマみたいなことが実際起きるなんて、ほんとは、本気では
信じていなかったから……。

 雛山理緒は、勤労学生だ。
 朝から晩まで、学校に行ってる時間以外はバイトバイト。
 年頃の女の子らしくはないかもしれない。服やなんか買う余裕だってないし。
 それはでも、気にしていない。そんな自分よりさらにもっと頑張って、女手
ひとつで自分たち兄弟を育ててきた母を、目の前で見て育ったから。
 その母が過労も重なって倒れ、自分の肩に家族の運命が掛かった時、むしろ
(やらなきゃ!)と決意が静かに燃え上がったくらいだ。
 ……ただ、でも、(恋は似合わないよね……)と、作業着姿で汗と埃(ほこ
り)に塗(まみ)れる自分を見て、感じた。
 いっしょに働く年上の人たちはそんな自分を「卑下しすぎだよ」と笑って、
「自信持て」って言ってくれた。実際、どこに行ってもたいてい一番年下だし、
高校生の女の子ってだけで珍しがられる現場も多い。だから職場のおじさんに
可愛いなんて言ってもらえることも、あるにはある。
 でもやっぱり、友達や同級生の女の子に、こんなことしてる女の子は、ひと
りもいないから。

 だからどうしても好きな気持ちを我慢できなくて藤田くんに告白した時は、
もうこの世の終わりみたいな悲壮な決意だった。
 告白しただけで、返事も聞いてないのに自分の中では(もうすべて成し遂げ
た)って感じで、その後ちょっと妙な脱力感と解脱気分までした。
 でも実際は、そこからがはじまりだった。
 即断っても良かったのに、藤田くんは自分に告白してきた女の子に対して真
面目に向き合ってくれた。
 結果なんて駄目100%だって思ってたから隠そうとしてた、カッコ悪いバイト
三昧の姿も見られてしまったし、逆に、格好いいばかりじゃない当たり前の高
校生男子としての藤田くんも、いろいろと知ることができた。
 恋愛って(注:まだ未満っぽい)、ドラマみたいな劇的なことは表層だけで、
意外に地味な日常の積み重ね。
 …そしてその過程の結果が、予想外の、場外ホームランみたいな彼からの告
白!
 そして、ファーストキス!
 その瞬間は、通じ合った心と心にちょっと泣けたぐらいだったのに、あとで
反芻すればするほど、それは幸せの爆弾だった。
 誰にでも起こるようなありふれたことだとしても、雛山理緒は、こんなドラ
マの一場面みたいな、しかも幸せ方面の出来事が“自分に”起きるなんて、予
想もしていなかった。
 なんていうかもう、幸せが原因のパニック状態。
 やばい。つい唇に藤田くんの皮膚の生々しい感触を蘇らせるたび、のぼせて
きゅぅぅーっと倒れそう。
 この満面笑顔でアパートに帰ったらぜったい弟にあやしまれるよ。
 ああ、私なんかがこんなに幸せで、あとで裁判にかけられて重罪にされるん
じゃないだろうか。(切腹とか)
 いまもし、お給料を百万円もらっても、この浮かれ気分のまま街の一軒一軒
に配って世の中のいろんな人たちを助けてしまいそう。
 何考えてんだか自分でももういまいち、わからない。
 こんなに幸せな気分になれるなんて……きっと、神様はこの日のために雛山
理緒を作ったんだ!
 神様ありがとう! 仏様ありがとう!
 浮かれて声をあげるかわりに路上の空缶を景気よく蹴飛ばすと、空缶は暗が
りに潜んでいた野良犬に見事に命中し、理緒は、牙を剥き出した犬に猛ダッシ
ュで追いかけられた。泣くほど追いかけられた。

 女子高生雛山理緒、十六歳。
 明日もきっと、朝日が昇る頃にはもう、息を弾ませながら新聞配達をしてい
る。