左の手首を強い力で握られて、ずいずいと引っ張られていく。あたしとヒロの口からは
白い息が間断なく吐き出されて、頬も林檎のように赤いけれど、ヒロに掴まれているその
部分だけは、周りの寒さとは関係なしにじんじんする痛いような熱さを感じる。
口を結んで、許せない敵が待ち受けているかのように正面の暗がりを睨みつけて、早足で
歩いているヒロの横顔は、ついつい見惚れてしまうほどに惹きつけて離さない何かがあると
思う。時々あたしは小走りになりながら、黒く濡れているようなアスファルトの地面に視線を
落とす。たぶん、あたしにヒロをずっと見つめていられるだけの権利はない。
秋の夜空は遠く高く、そこに浮かぶ上弦の月の冷え冷えとした輝きをより一層強固なものに
している。あたしたちが歩く歩道の両端に植えられている街路樹は、漆黒の影に塗り込められる
ようにしてそびえ立つ。あたしが息をすることによって穏やかに動く空気さえも、露出した肌に
ひやりとした底冷えのする感触を増していく。
きっと秋という季節は、全ての力を強めるのだろう。人の想いですら、そのことに例外では
ない。
どのくらい歩いただろうか。ほとんど引きずられているような格好のあたしが判っていないのは
勿論のこと、ヒロ自身も、どこに向かっているか、なんてことはしっかりと考えていないに
違いない。右に曲がってみては直進し、突き当たったら左を向き、この辺りに不案内なせいも
あるのか、行き止まりにも何回か入り――要するに、行き当たりばったりなのだ。
「ねぇ、どこまで行くのよ?」
そう唇を尖らせてみても、ヒロはあたしにちらとも目を向けずに歩を進める。その態度が
答えを雄弁に物語っている気がして、あたしもまた黙りこくる。
街灯に仄かに照らされた住宅地の公道。まだ太陽が顔を隠してからそんなに時計の針は
進んでいないというのに、車の行き交いはおろか、猫一匹姿を見せない。自然、目に入るのは
浩之の横顔と、その後慌てて視線を逸らした先にある、美しい弧を描いた半円の月。
あの星に帰ったかぐや姫は、今でもそこにいるのだろうか? 虚無に浮かぶ荒涼たる地から、
蒼く光る地球を眺めて。独りきりで、彼女は何を想いながら生きているのだろう。必死に
引き止めようとした翁たちには何も言わず、どうとも動かず、泣き伏すばかりで、月に帰って
いった彼女は今、月で何を想えるというのだ?
あたしはヒロをそっと窺うことしかできない。月を正視できない。ただ、足元だけを見て歩く。
地面に地核まで繋がる穴があって、どこまでもどこまでも落ちていくことだけを願う。
不意にヒロが、ネジの切れたぜんまい時計のように立ち止まる。あたしはたたらを踏んで、
慌てて周りを見渡し、もう一度驚いた。ただ、二度目のそれはあまり大きなものではなかった
けれど。
「戻ってくるんだったら、何のために歩いていたのよ?」
答えが返ってくることは期待していなかったが、意外にもヒロは独り言のように、
「頭を冷やすためだ。……オレと、お前の」
と呟いた。先ほど浮かべていた、腹立ちのような表情はほとんど消えている代わりに、
その瞳は、夜の帳が下りていくことに合わせたように、深い藍色に染まっている。
今まで強い力で握っていたことを忘れでもしたかのように、ヒロはあたしの手首を壊れ物を
扱っているみたいにゆっくり放した。そして、初めてあたしに視線を向ける。しばらくお互いに
見詰め合って、対峙したあたしたちは、月からは滑稽な無言劇に見えたかもしれない。
「結局、このシホちゃんに夜の散歩に付き合ってほしかったワケ? もぅ、はじめっからそう
言ってぇ……」
沈黙に耐え切れず、おどけた調子で話し始めたあたしは最後まで続けることができなかった。
ヒロの眼光に射竦められたからではない。むしろ、その逆に――
「なぁ……この三日間、どこで、何をしていたんだよ?」
ヒロはあたしの目を覗き込みながら、そこに隠されてある何かを見つけ出すかのように、
ぽつりと言う。いつも通りのヒロに、癖のような仕草に、あたしの舌は動くことを拒む。
「学校には風邪だって伝えて休んでおきながら、お袋さんには何も言わずに、毎朝、さも
学校に行くような素振りをして、家を普通の時間に出ていたんだろ? お前のお袋さん、
目を丸くしてびっくりしていたぞ」
ヒロが肩越しに顎をしゃくって指し示したあたしの家は、弱弱しく外灯が点滅するほかは、
家全体がまるで息をひそめて外の様子を計っているようにひっそりと静まり返っていた。
大きく息を吐いて、ヒロはあたしから視線を反らさずにゆっくり話す。
「見舞いに来たら、『まだ帰っていないわ』なんて、とんちんかんなことを言われるんだから、
オレだって驚いた。……何でなんだよ」
ああ、だから玄関先にいたのか、と呑気にあたしは思う。今日も駅に行く途中の商店街で
適当に時間をつぶして、味がしない昼ご飯を食べ、すっかり知り尽くしたこの街をぶらぶらと
端から端まで歩き、そろそろみんなが帰った頃合だろうかと、茜色に彩られた雲を見て。
その雲の色も暗くなり、もうすぐ一番星が出てくるんじゃないかという時間に、昨日のように、
一昨日のように、素知らぬ振りをして家に帰った。ただ一つ違ったのは、ヒロがポーチで
あたしを待ち構えていたことだった。息を呑んで立ち尽くしたあたしに、ヒロはものも言わず
手首を引っ掴んで歩き出した。
あたしもびっくりしたわよ、ヒロ。他人事のようにぼんやりとそう考えていると、ヒロがもう一度
繰り返す。
「何で、なんだよ……」
「……いや、ほら。学校とか、ワケもなく突然サボりたくなる時が……」
「違うっ!」
初めて、ヒロが怒鳴った。けれど、すぐ後にまたぼそぼそと喋り出す。一気呵成にまくし立て
られた方がどんなにか楽だろう。
「そんなことを言っているんじゃない。なぁ、何で教えてくれなかったんだよ?」
「な、何のことよ」
ヒロは顔を歪めて、怒っているような、泣いているような表情で言う。
「シホ、もう聞いたんだ。お袋さんが言っていた。『淋しくなるけど、時々手紙を出してやって
下さいね』ってさ。大阪に引っ越しするのは明日です、志保も悲しがっていましたよ、って。
そんなこと、今まで一言もオレに伝えてくれなかったじゃんか。
……黙ってないで、何とか言ってくれよ。急に決まったっていっても、三日前にはもう判って
いたんだろう? 何で……」
あたしはパパが喜び勇んで帰ってきたあの夜を思い出す。栄転だとかなんとか、有頂天に
なって。寝耳に水だと、ママが少し拗ねていたけれど、今更行かないわけにはいかない、
なんてパパはママを説得していた。
あたしには、「いいだろ?」と当然のように言っただけで。
「……何よ」
「へ?」
ママはあたしに何か言いたそうな顔をしていたけれど、パパは結局祝杯をあげて、ぐでん
ぐでんに酔っ払って床についた。
「言って、何になるのよっ!」
四日後、つまり明日には飛行機に乗らなければならない。何もかもが急過ぎて、あたしは
よく事態が呑み込めなかった。そうして次の日、あたしは学校をサボった。
「もし言っていたら、ヒロがどうにかしてくれたの? どうせ慰めて、さよなら、手紙書くよ、また
会おうな、そんなことしか言えないんじゃないの?」
「……おい、志保?」
何故行かなかった? ヒロの顔を見るのが嫌だったから。
「どうなのっ。ヒロはこの転勤を止めてくれたわけ? パパに直談判してくれたの?」
ヒロに会ったら、あたしは気持ちを堰き止めているダムが決壊して、言葉が溢れてしまう。
そう思ったから、やることもないのに商店街を回っていた。
「違うでしょ。結局何もできずに、せいぜい空港に見送りに来るだけで、それだけで、責任を
果たした気になって、帰るんじゃないの!」
「……志保」
「ヒロに何ができるのっ! いい加減なことを言わないでよ。ヒロっ……」
「判った。判ったから……泣くな、志保」
気がつけば、あたしの頬にヒロの手が沿えられていた。月明かりにぼやけて、ヒロの顔は
見えない。
「あたしは、泣いてなんか……」
急に視界が暗くなり、押し付けられた鼻先からはヒロの匂いがした。耳元では、ヒロの、
大丈夫だから、という囁きが聞こえる。子供がよくされるように、髪をそっと撫でられる。
「……ひ……くっ」
あたしの喉が、あたしには制御できない器官になって震え始めた。駄々をこねるようだと
判っていても、それを止める術はもうない。
「ごめん……ごめん、ごめん……」
何に対して謝っているのか自分でもよく判らないまま、病人のうわごとのように繰り返す。
ぽんぽん、と、喉に何かがつまった人を介抱するように、背中を柔らかく叩かれる。頭上では
微かなため息が漏れ聞こえた。どうしようもなく叫び出したくなって、暴れたくなって、あたしは
どうすることもできずにただ泣き続ける。
声がかすれて、恥ずかしいほどに顔中がぐしゃぐしゃになって、ようやくあたしが我に返った
時までには、随分な時間が経っていたと思う。その間、ずっとヒロは黙ってあたしを抱きしめて
くれていた。
「……ごめん」
あたしが鼻をすすりながらヒロの胸から顔を離すと、ヒロは目を細めて真上に据えられた
半月を見ていた。
そして、唐突に話し出す。
「志保。お前……ビリヤードのルールって知ってるか?」
「……え?」
「ビリヤード。玉突き。ほら、いつも行くカラオケの向かいにあるだろ」
戸惑って聞き返したあたしに、ヒロはどこかとぼけたような口調で言い換える。
「そりゃ、まぁ……やったことぐらいはあるけど」
そっか、と得心がいったように言うヒロは、未だ夜空を見上げていた。そこに何か見えるの
かと、釣られてあたしも顔を上に向けた瞬間、ヒロは身を屈めてあたしの頬に口付ける。
「……っ」
あっ気にとられて声も出ないあたしを尻目に、ヒロは、たっぷりまばたき三回分はキスを
していた。
「少し塩辛いか」
「ちょ、ちょ、ちょっと」
頭に血が上って、ろれつが回らない。ヒロはあたしにおどけたような顔をつくって、涙って
あまり美味くないよな、と言う。
「な、何をするのよっ」
「あれだ、大阪っつっても、かぐや姫が帰ったあの月よりは遠くないわけだろ?」
「……それが?」
「気軽に行き来ぐらいできるさ。それにほら、大学はどうせこっちを受けるよな」
「うん……たぶん」
「簡単に戻って来れるだろ」
いつのまにか、あたしの肩から張り詰めた力が抜けていることに気づく。あたしも笑って、
だからそれがさっきのとどう関係があるのよ、とヒロの言葉を遮る。
「……ビリヤードでさ、一度触れた球と球がもう一度触れ合う時、なんていうか知ってるか?」
「そんなの、知らないわよ」
「うむ……実は、そのことを『キスする』って言うんだ!」
「で?」
「……いや、んで、離れた球がまたくっつくなんて、縁起がいいかなぁ、と」
あたしは思わず吹き出す。うわ、ひっでぇなぁ、とヒロが大げさに両手を広げる。
「その言い訳、ちょっと苦しいわよ」
「やっぱりそう思うか。キスするにしちゃ、いいアイディアだと思ったのにな」
ヒロは苦笑して、ふと思いついたように頭上に視線を向ける。そして、自分に言い聞かせる
ように、絶対戻って来るよな、と小さな声で言う。目を凝らさなければ判らないほど僅かに、
けれど確かに、その唇はきつく噛み締められていたと思う。
何かを言わなくてはいけない気がして、あたしが口を開いた瞬間、とんとん、と軽い音が
聞こえる。二人で驚いて振り返ると、あたしの家の、庭に面した窓ガラスに薄いシルエットが
写っていた。気を使ってくれたことに感謝して、もう帰るから、と呼びかけると、人影は頷いて
カーテンを閉める。
「やべ……もうこんな時間かよ」
ヒロが慌てて腕時計に目をやり、再び天を仰ぐ。さっきまで多少なりとも光を零してきた月が
流れてきた雲に隠れたために、その表情は判らない。
「……ねぇ、ヒロ」
急に闇が濃くなった感じのする夜空を見つめて、静かに言う。
「あたしに、こっちに戻ってきてほしい?」
「もちろん」
間をおかずに即答される。あたしはガードレールに腰をかけて、にんまりと笑う。
「だったら、あの縁起の担ぎ方じゃ足りないと思わない?」
「……え?」
「頬にしたぐらいじゃ、ご利益ないわよ」
うそだろ、と浩之が言うのを無視して、あたしは心持ち顎を上に傾けて、さ、早く、と促す。
「いや、志保、お前のお袋さんとかにも見られているかもしれないし……」
「さっきは簡単にやったじゃない。それとも、もしかして帰ってきてほしくないの?」
本気かよ、とヒロが深深と白い息を吐く。それが夜に拡散していくのを見届けて、あたしは
目を閉じる。
暗闇が広がったけれど、ヒロがあたしに顔を近づけてきているのが気配で判る。それと
同じく、目を瞑っていても、雲に隠されていても、あたしは月が中空に浮かんでいることを
知っている。
秋の夜空は煌煌たる月の輝きを一際高めてくれる。