とたたたた、と水瀬家に響く、真琴の軽い足音。
きょろきょろと秋子の部屋を覗き込んで、また次の部屋に駆け込み、首をひねって二階へ上がる。
一階にも自分の部屋にも名雪の部屋にも、目的の人は見つからない。
ここが最後と祐一の部屋を覗き込むと、その人の後ろ姿が見つかった。
「あはっ♪」
祐一の部屋を通り過ぎ、開いたガラス戸からベランダへと飛び出し、腰に抱きつく。
「あーきこさん、みーつけた♪」
「あらあら。どうしたの、真琴?」
秋子は驚いた風もなく、いつもの笑顔で真琴を受け止めながら、靴下を洗濯ばさみで止める。
真琴は楽しそうに腰にぶら下がりながら、
「んーとね、ちょっと聞きたいことがあるの」
「なにかしら?」
「あのね、キスってなんなの?」
と、ストレートに聞いてきた。
「キス?」
秋子は洗濯物を干す手を止めた。
「うん、今テレビでやってたの。男の人と女の人が、口と口を合わせて。見てたらなんかドキドキした。あれってなんなのかなぁ?」
「そうね……」
珍しく言葉を選びながら、真琴の頭を撫でた。くすぐったそうに目を細める真琴。
壊れやすい宝物を扱うように、静かに語る。
「――キスはね、好きな人に、自分が好きだって事を伝えるための、合図なのよ」
「好きな人?」
きょとん、と目を丸くする真琴。
「そう。かけがえのない大切な人に、自分の思いを込めて交わす儀式」
「ふーん……」
真琴は手を組んで、なにやら考えはじめた。まだ恋というものを知らない少女には、ぴんとこないのだろうか。
再び手を動かしはじめた秋子を、じっと見上げて、
「……秋子さんは、真琴のこと好き?」
「もちろんよ」
「真琴も好きだよ」
そう言って、えへへ、と照れくさげに笑った。
聡い秋子でなくとも、この次になにを言うかは大体予想がつく。
「じゃあね、じゃあねっ。真琴にキスして」
そう言えば、いつの頃からか名雪にキスをすることも、されることもなくなっていた。
多分あの日。名雪と同じくらい大切な人を、失った日を境に。
愛情が薄れたわけではない。ただ、少しだけ強さを必要としたから。母と娘が2人だけで生きてゆくために。
そして――今、もう一人の娘が、無垢な瞳に愛情を溢れさせ、秋子を見ている。
なぜだか涙が出そうになる。
「……秋子さん? 真琴じゃだめ?」
「いいえ、そうじゃないのよ……」
真琴をぎゅっと抱きしめ、髪の中に顔を埋める。
暖かいお日様の匂いがふわっと広がり、心に染み入ってくる。
「あ、あう?」
戸惑う真琴の頬に、頬を合わせ、軽く擦り合わせる。
しばらく目を閉じて、触れあう部分から伝わる熱に、愛おしさを募らせる。
真琴も動きを止め、おとなしく抱かれていた。
こうしているのは心地良い。ずっと前に感じたことのある、ひどく安心できる感覚……。
記憶はないのに、胸の中に感じるものがある。ずっとずっと昔。目を開けるよりも早くから知っていた、大切ななにか。
心が震えるのを感じた。
秋子は幾万の愛情ととあらん限りの祝福を込めて、滑らかで柔らかい頬に、そっと唇を寄せた。
真琴は目を閉じ、一瞬、身震いする。
全身が、暖められた海の中に浸かったような、不思議な感じ。
秋子が真琴の肩に手を置き、身を剥がしても、少しの間ぼうっとしていた。
優しく髪を梳くと、目をパチパチさせ、にわかに赤くなって慌てだす。
「あーっ、うわぁ、なんだろ。なんだか……すっごいドキドキしたけど、気持ちよかった」
ぱたぱたと手を振りながら、一生懸命言葉を探す。
「あのね、秋子さんにキスされたら、なんだか電気がびりびりしてね、それでふわっとした感じで……えーと、えーと」
秋子はだまったまま、ただ優しさだけを瞳に載せて、言葉を待つ。
「なんだかね……すっごくしあわせな気分だった……」
出てきたのは、秋子とまったく同じ感想。つたない言葉だけに、かえって込められた思いには、一点の曇りもない。
「私もそう。真琴と同じくらい幸せよ」
「えへへー♪」
とそこで、不意に首を傾げて。
「あれ? でも変。口と口じゃないの?」
「それはね、本当に大切な人。真琴が恋をした相手のために、取っておきなさい」
「恋?」
「ええ。いつか必ず、そんな時が来るから」
「うん……そうするっ」
もう一度えへへーと笑って、くるくる回って、手すりに掴まり、ぴょんぴょん跳ねる。今にもしっぽを振り出しそうなくらいに。
「あ、そうだ! 今度は真琴が秋子さんにキスしてあげる!」
「あらあら」
秋子は微笑んで、真琴が届くように身をかがめた。
真琴は背伸びして秋子の肩に掴まり、頬に口づけする。
なんの味もしなかったが、暖かい感触と、髪の隙間から零れたなにかの花の匂いは気に入った。
「ねぇねぇ、ドキドキした?」
「ええ、とっても」
「あははっ♪ うん、真琴もドキドキして、いっぱいしあわせだった!」
「そうね。私も嬉しくて、幸せだったわ」
「2人でしあわせだねっ!」
これ以上ない、という笑顔で真琴は秋子の周りをぱたぱた走り回る。
秋子の腰に抱きついたり、洗濯籠にダイブしたりと、再び大はしゃぎしていると、
「ただいまー」
という声が2つ、下から聞こえた。名雪と祐一だ。ベランダの2人に気づいた名雪が手を振り、祐一が軽く頭を下げる。
「お帰りなさい」
「おかえりー」
思い切り手を振っていた真琴が、不意に目を輝かす。
「そうだ、名雪にもしてあげよっ!」
止める間もなく真琴は身を翻し、ドタドタと足音を響かせながら階段を駆け下りる。
階下から真琴の「名雪ー、いいことしてあげるー♪」の声が響いた直後、名雪の動揺する声が聞こえた。
「わわっ!? ま、真琴!?」
「えへへー、ドキドキした? しあわせ? ねぇねぇ」
「わ、わ、びっくりだよ。えぇと……どうしよう祐一……」
「俺に聞くなっ!」
「ゆーいちにはしてやんなーい!」
「当たり前だ、バカっ!」
「バカとはなによぅっ!」
ベランダにまで届く、3人の賑やかな声。
秋子はくすりと微笑み、洗濯籠からシーツを取り出し、ふわりと広げる。
ぱんっ、とシーツを伸ばす音が、青い空に響き渡った。