今日も、とある病院で働いている長森瑞佳。
看護学校を卒業し、この春晴れて看護婦になった新米である。
彼女がこの病院に配属になって、やっと2ヵ月が経とうとしていた。
この病院にもやっと慣れ仕事が板についてきたときのことだった。
現在の勤務場所は、風邪や軽い怪我などで病院に訪れる人たちを
診察する場所である。
無論診察するのは医師であり、瑞佳の仕事はカルテの整理や、患者の
呼び出し、患者への薬等の受け渡しだった。
その瑞佳の動きが、しばし止まった。
目の前にあるカルテの名前には、見慣れすぎた名前――
「折原浩平」の名があった。
(同姓同名…じゃないよね?)
住所を見てみる。間違いなかった。
その日は空いていたので、浩平の番はすぐにやってきた。
「折原さん」
出来るだけ事務的に、浩平の苗字を口にする。というより、浩平を苗字で
呼ぶのは初めてのような気がする。
「はい」
待合室から、浩平の声が聞こえる。次いでガチャリとドアが開き、診察室に
入ってきた。
(わっほんとに浩平だ…)
医師の前にある椅子に向かって歩く浩平と、一瞬目が合う。
浩平が瑞佳に向かって、軽く目で会釈する。
その様子を見て、瑞佳は確信した。
(浩平、絶対何かたくらんでるよ〜っ!)
長年のカンが、瑞佳にそう告げていた。
心音を測るため、椅子の上で浩平は上半身裸になるよう言われ、
服を脱ぎだした。
「すみません。持っていて頂けますか?」
浩平が瑞佳に言う。ワンテンポ遅れて、瑞佳が返事をして服を受け取る。
(………)
自分の恋人が、他の人の前で裸になるのも不思議な感じがする。
というより、あまりいい気はしない。
瑞佳は黙って、浩平を見つめていた。すると――
「看護婦さん、僕の身体に何かついてますか?」
「長森君、そんなに見つめてたら患者さんが困るだろう?」
「えっ!そっそんなことないですよ!?」
ちょっとぼうっとし過ぎた様だ。いきなり自分に振られ、瑞佳が驚く。
初老の医師は苦笑していた。
浩平も困ったように瑞佳を見ていた。しかし、その眼は、
『はっはっは!やーいやーい恥ずかしいやつ!』
と言っているように瑞佳には見えた。
(浩平〜〜〜〜〜!!)
浩平の診断は終わった。
浩平の病状は、(一応)風邪、ということらしい。
ちょっと熱っぽくて、頭が痛い――普段の浩平なら、間違いなく
『寝てりゃ治るだろ』というだろう。
しかし…「ちょっと頭痛と吐き気がしてフラフラする」と浩平が最後に
言った為、空いているベッドで休んでいくことになった。
「長森君、折原さんを空いている病室まで連れて行ってあげてくれるかな?」
と医師が言う。瑞佳が返事をすると、交代の看護婦が診察室に入ってきた。
そろそろ交代の時間である。
「もう時間だから、折原さんを病室に案内したら、こっちには戻らないでそのまま
休憩入って構わないよ」
「あっはい、わかりました。…ではこちらです」
「はい、お願いします」
ふたりは奇妙な敬語で言葉を交わすと、瑞佳の先導で、診察室から病室へ
と歩き出した。
少し歩いたところで、周りに他の人がいないのを確認すると、瑞佳は歩を
緩めて、それから肩を落とした。
「こうへい〜〜〜・・・」
大きくため息をつく。
「人前であんなに見つめなくたって、いつでも見せてやるのに」
浩平がお返しとばかりにため息をする。
「もう!わたしほんとに恥ずかしかったよ…浩平ほんとに風邪なの?」
「ああ、正真正銘の風邪だ。熱だってあったろ?」
そういえば、体温を測ったとき37度を少し超えていた。
「なかなかしっかり看護婦さんしてるじゃないか。オレは嬉しいぞ。」
ナース服姿の瑞佳を、改めて浩平がみる。
「ありがと。あっ病室あそこだよ」
瑞佳が前方を指差す。
「なんだ。VIP待遇かと思ってたのに普通の病室か」
「VIPもなにも、単に休んでいくだけでしょ浩平?」
「5階の個人部屋とかなら嬉しかったのにな」
「あそこはもっと重い病気の患者さん用だよ。贅沢言わないの」
そこでちょっと、瑞佳は違和感を覚えた。
「よく知ってるね、5階のこととか」
「ん……ああ。来るときに案内板見て…それでな」
何か歯切れが悪い。
浩平が動揺しているように見えたのは、瑞佳だけではなかったろう。
着いた先は、4人部屋位の病室だった。今は誰もいないらしい。
そのうち一つのベッドを整えると、瑞佳は突然芝居がかった口調で浩平に言った。
「どうぞ!折原さん」
「ありがとうございます」
浩平もしゃちほこばってそれに答える。
ふたりに、自然に笑みが零れた。
浩平が横になったベッドのそばの椅子に座り、瑞佳は楽しそうに声を掛けた。
「なんか昔もこんなことあったよね」
「ああ、小学校の時だろ?あのときは保健の先生いなくて大変だったんだよな」
「そうそうっ」
浩平がそれをちゃんと覚えていてくれたことが、瑞佳には幸せに感じられた。
「あの時のおまえ、パニクって大変だったな」
「だって浩平、『オレはもう死にそうだ』とか言うんだもん」
「いや、本当に死にそうだったんだあのときは」
「うそばっかり」
しばらく、ふたりは取り留めも無いことを話していた。
浩平も、いつも通りの浩平だった。
時計を見やり、瑞佳が聞いた。
「わたし休憩もうすぐ終わりだけど、浩平寝なくて大丈夫?」
「ん?ああ、そうだな、ちょっと寝ようかな」
「ごめんね、話し込んじゃって…」
「オレは全然構わないぞ。じゃ、寝るな」
「うん」
瑞佳が立ち上がる。
浩平が、横になったままじろじろと瑞佳を見た。
「小学校のときは、未来にこんな日があるなんて、夢にも思わなかったな」
「そうだよねー」
「立派に看護婦、だもんな」
「まだ見習いみたいなもんだよ」
浩平に見つめられて、照れたように瑞佳が言う。
浩平が仰向けになり、天井を仰ぎ見た。
ふっと、遠くを見るような眼になる。
呟いた。
「オレは…退院できるんだよな」
いつもと違うトーンの言葉に、瑞佳が一瞬「?」という表情になる。
それから笑って答えた。
「退院も何も、浩平入院してないでしょ」
「そう…だな」
そのまましばらく天井を見ていた後、消え入りそうな声で、瑞佳の名を
呼んだ。
「瑞佳」
「なあに?」
「看護婦、頑張れよ」
「うん」
「…死にそうな奴でも、助けてやれよ」
「うん…どうかしたの浩平?」
「……なんでもない」
浩平が横に顔を向けた。
浩平の声に、涙が混ざっているように聞こえた。
「…じゃあ、わたしもう行くね?」
浩平は辛うじて、ああ、と返事をした。
布団をかけ直した後、瑞佳が歩き去る音が聞こえる。
「ダメだな、オレ…」
呟きが涙で消されていく。
浩平は、今この部屋に自分一人しかいないことに感謝しつつ、
しばし――泣いた。
その日、瑞佳の勤務が終わりに近づいたとき、同僚の看護婦たちが
何かを話しているのが聞こえてきた。
「どうかしたの?」
「あっ、瑞佳。別にたいした話じゃないんだけどね――」
話の内容はというと――5階の、今は無人である個人病室に、何故か
綺麗な花束が添えられていた、というものだった。
「誰かお見舞いに来た人が間違って置いてったんじゃない?」
「さぁ?もしかしたら色恋沙汰の名残りかもよ〜」
同僚達がうわさ話を展開していく。
「…合ってるよ」
瑞佳が、ぽつりと言った。
「え?」
「その花束、多分そこに置きに来た人がいたんだよ」
少し、間が空いた。
「だから、合ってるよ」
同僚達は瑞佳の言うことが良く分からない、といった風な顔をする。
「そんな気がする、だけだよ」
明るく言った。
同僚達はまた、勝手なうわさ話に興じ始める。
瑞佳は窓から夜空を仰ぐ。空には、星が瞬いていた。
(はやく、浩平に会いに行こう)
瑞佳は今日最後の仕事を片付けるため、自分の机に向かった。
〜終わり〜