「それじゃあ――真琴……沢渡真琴を」
沢渡真琴。それが私の最萌の娘。元気で天の邪鬼で甘えん坊な少女。彼女が
ゲーム中に起こした奇跡の顛末に、幾度となく涙を流したものだ。
もはや私にとって、真琴が好きだと言うことは遺伝子のレベルで体に焼き付
いている。当たり前すぎて、理由を説明することすらできないほどに。そう――
例えば、日本人は醤油が好きだということと同じようなものだ。
そんな真琴と実際に会うことが出来る。
「真琴ちゃんね、ちょっと待ってて」
「あ、あぁ」
みさおはカウンターの中から黒電話を引っ張り出すと、どこかに電話を掛け
始めた。
落ち着くように一つ大きく息を吐く。自分で思う以上に体は緊張しているよ
うだ。
平常心、平常心。
『――もしもしっ、はい、カウンターです。うん、そうです。え、お兄ちゃん?
あ、あはは、ちょっと……』
誰と話しているのだろう。様子からすると年長者のようだが。やはり秋子さ
んか。それとも葉鍵楼と言うからには、Leafの者もいるのだろう。旅館経営で
手慣れてそうな千鶴さんか。それともロマンを追求する大志か。もしかすると
トゥスクル婆が長をやっているのかもしれない。そんなことを、とりとめもな
く考える。
『それよりお客さんですっ。……はい、真琴ちゃんを伽にって――』
トギ……? あぁ、伽……。そうだ、ここは娼館であり、私は真琴を伽とし
て指名したのだ。
伽として。
急にそのことが強く意識される。伽と言うことはつまり――。
私は真琴のことを抱くのだろうか?
彼女と肌を重ねたい、という望みがないといったら嘘になる。そういう妄想
も幾度となくしてきた。しかしそれ以上に私は、彼女のことを優しく抱きしめ
たかった。私にとって真琴は、恋人のようでもあい、妹のようでもあり、娘の
ようでもあるのだ。優しく堅く抱きしめ、頭を何度も何度も撫でてあげたい……
そんな存在なのだ。
……それ以上のことは、実際に会ってから決めよう。大体、真琴がどういう
状態なのかも分からないのだし。人見知り、という設定もあったはずだ。
『はい、じゃあその部屋まで案内を……はいっ、はい……はう、気をつけます、
はい』
受話器をおろすとみさおはくるりと振り向いた。
「ではこれから部屋まで案内させて頂きます――」
口調が変わっている。おそらく先ほどの電話で、注意でもされたのだろう。
「あー、普通の口調でいいよ。堅苦しいのは苦手でね」
「そうですか? よかったっ、あたしも苦手だから……」
苦笑を浮かべつつ私のことを奥の通路へと導いた。
赤い絨毯で覆われた廊下を歩く。高級なものなのだろう、足音が全くしない。
一体幾らぐらいするのだろう? とお金のことを考え始めたところで気がつい
た。
「そういえば、料金の方だけど――」
私の右斜め前を歩くみさおに声をかける。
「クレジットカードは使えるかな?」
ここが高級な店だ、ということはここまででもよく分かる。さらに真琴と会
えるのだ。幾ら払っても惜しくはないが、さすがに手持ちはそれほどあるわけ
ではない。
ところがみさおは私の方に顔を向けると、笑顔でこう告げた。
「お金とかはいらないの」
「え、しかし――」
「正しくは、もう貰ってる、ってことなんだけど……」
まさか気がつかないうちに減らされているのか? ポケットを探り財布を出
そうとする。
「あ、そういうことじゃなくて……えーと、ここに来た、ってことは、それだ
けの想いを持っているってことで……そういう想いがないと、この『葉鍵楼』
は維持できないんだって」
「想い……か」
「うんっ、そういう想いがあって『葉鍵楼』はあるんだから、これ以上何か貰
うわけにはいかないだろうって支配人がね」
「そうか……妖怪と隠れ里……か」
「え? 何て言ったの?」
「いやいや、なんでもないよ」
みさおは怪訝そうな顔をつつ前に向き直った。その後ろで私は先ほどの考え
を検討してみる。
グループSNEの妖魔夜行や百鬼夜翔という文庫本のシリーズがある。この
オカルトファンタジー小説では、人々の想いが何らかの形で実現化したものが
妖怪だ、という設定になっている。私はこの建物も人たちも、そういう経緯で
生まれたのであろう、と思ったのだ。そして人々が葉鍵の事を強く想えば想う
ほど、この建物は存在を強くする。そういうことなのではないだろうか。
「ふふ、妖怪、か」
「ん? どうしたの、突然笑ったりして」
「いや、思い出し笑いだよ」
単に状況からそう思いついただけなのだが……確かに葉鍵のヒロインには妖
怪じみた者たちが多い。エルクゥは正にそうだし、目の前のみさおだって、先
ほどの通り人を永遠送りにすることの出来る力を持っている。
それに――真琴。妖狐が人間へと姿を転じた少女。元は高級な妖怪なのだ。
それがこうやって実体化することの符合を可笑しく思う。
その後も幾度か階段を上り下り、曲がり角を右へ左へと折れ、ようやく辿り
着いた。
廊下の突き当たり。白い壁の中、浮きあがるように薄い緑色の扉がある。こ
こが目的の部屋であろう。
その扉の目の前でみさおは私の方に向き直り、一礼する。
「お待たせしました。こちらの部屋です」
そして脇へと下がる。私の目には、もはや扉だけが映っている。この部屋の
中に真琴が……。
最初になんと声をかけよう。何を言えばいいのだろう? 真琴はなんと返事
をしてくれるだろう。親しげに? 丁寧に? おそるおそる? それとも……?
「それじゃあ、楽しんで行ってね」
後ろから声をかけられ、危うくはまり落ちそうになっていた思考の渦から辛
くも抜け出す。いけないいけない、考え込みすぎる悪い癖が出たようだ。
私は今までの礼を言おうと振り返る……が、もうみさおの小柄な姿はどこに
もなかった。空間を渡ったのか? ……まぁいい。今は真琴の方が重要だ。
扉に向き直ると大きく深呼吸し、シンプルなノブに手を伸ばした。ひねると
わずかな金属音と共に何の抵抗もなく回る。
私はそこでもう一度深呼吸をすると、ゆっくりと扉を手前に開いた。
そこには――
――誰もいなかった。いささか拍子抜ける。それとも後から来るの
だろうか。
部屋の中にざっと目を走らせる。淡い色調で彩られた壁。その側には背の低
いタンスが置かれている。上に積まれている本はマンガだろうか。
驚いた事に、ベッドがない。フローリングの上に布団が畳んでおかれている。
が、Kanonの真琴の部屋も、フローリングに布団だったことを思いだし、嬉しく
なった。こういうこだわりは嫌いじゃない。
けれど椅子やソファーがないのは困ったものだ。どうやって真琴を待とう?
そんなことを思いつつ、部屋に足を踏み入れた。その時――
「わっ!」
左に気配を感じたと思った次の瞬間、叫び声とともに衝撃が走った。
誰かがぶつかって――いや、飛びかかってきたのだ!
勢いを支えきれず、私は床に倒された。運良く布団の上だったので、痛くは
なかったのだが……。
ちょうど仰向けに倒れた私の上に覆い被さるように、その子も倒れている。
女の子だ。緑色の服……これはパジャマ? 金色――いや、狐色の髪の毛に
は赤いリボンが2カ所、留められている。
これらの事実が意味するところを理解するより早く、彼女は私の胸から顔を
あげた。
「あははっ、こんにちはっ」
楽しそうに挨拶するその顔は、まさしく沢渡真琴のものであった――。