電車のガラス越しに透ける夕陽が、澤倉美咲の顔を赤く照らしている。
美咲はドア脇の手すりに掴まりながら、もう片方の手で文庫本を開いていた。
彼女の地元駅から五つほど先の駅には、お気に入りの古本屋が三軒固まっている。
駅前には大きめの書店もあり、大学が早く終わったときはたまに立ち寄って、当てもなく本を探し読むのを楽しんだ。
今読んでいるのも、古本屋で手に入れたミステリーだ。文体は古いがテンポがよく、話に引き込まれる。
(――読み終わったらミステリー好きの七瀬君にも貸してあげよう)
そんなことを思いながら読書に没頭していた美咲は、駅に着いたことも気づかない。
時間が時間なだけあって、反対側のドアが開くと同時に、大量の乗客が流れ込んできた。
私鉄との乗り継ぎがあるこの駅の乗降数は、沿線でもトップクラスだ。
たちまち車内は人間で溢れ、急流のように押し寄せる人間が巨大な圧力となって、美咲を押し潰した。
気づいたときにはドアに押しつけられ、身動きさえままならない。もちろん本を読み続ける余裕もなかった。
仕方なく本を胸の辺りで持ったまま、窓の外の風景を眺める。
と、電車がカーブにさしかかり、車体と人間がドミノのように傾いて、もろに美咲の背中に体重がかかった。
「くっ……」
背骨が折れそうな痛みに、息が詰まった。
(通勤している人達は、毎日こんな風で大変なんだろうな――)
同情しつつも、この苦しい状況もあとたかだか4駅――十分少々の我慢だと思うと、ほっとする。
まるで圧搾機に放り込まれたような苦痛と、熱く湿った不快な空気には、慣れそうもないし、慣れたくもなかった。
そんなことを考えながら、ぼうっと流れる風景を眺めていると、不意に――、
「!?」
美咲のスカートの後ろ側、尻の部分にぴたりと手が押し当てられた。
最初は偶然だ、と思っていた。こんな混んでいる車内だから、手が触れてしまうこともあると。
だが美咲がなんの抵抗もしないのに安心してか、ゆっくりと手が動き始める。
なだらかな曲線に沿って手を上下に這わせる。
(痴漢……)
痴漢に遭うのは初めてだった。
恐怖に体が震えたが、かといってこの状況では逃げる事もできず、手を払うこともできない。
声を上げることはできたはずだが、喉が張りついたようになんの音も出てこない。
これくらいなら我慢すればいい。そのうちやめてくれる――そんな楽観論で自分をごまかして。
しかし美咲の希望とは逆に、手の動きは徐々にエスカレートしていった。
柔肉を手のひら全体で包み、揉む。力が込められた瞬間、美咲はぴくりと背筋を仰け反らせる。
その反応が楽しいのか、手はタイミングをずらしながら、美咲の尻肉を掴む。
初めての体験に美咲はうろたえ、身を捩るが、それは手の持ち主を喜ばせるだけだった。
(いや――いやぁ――)
文庫本を握る指に力を込め、這い上がってくる嫌悪感に耐える。
不意に、指が1本伸ばされ、尻の割れ目に押し当てられた。
筋に沿って、縦に指が動く。すりすりと擦る指にはだんだん力が込められ、デニム地ごと割れ目に食い込んでくる。
(な、なんでそんなところ……)
沸き起こってくる妖しい感覚に美咲は戸惑い、ただうろたえた。
気持ちよくも痛くもないが、心はひたすらにその感覚を拒絶していた。
そのうち指は、動きを止めた。ちょうどそこは美咲の排泄器官――後ろ側の穴の位置。
まさか、という思いが頭をよぎるが、指はその予測通り、尻穴をきつく圧迫してきた。
「っ!?」
声が上がりそうになって、慌てて文庫本で口元を押さえる。
焦る美咲を嘲笑うように、指はきゅっきゅっとリズミカルにその部分を押し、時に侵入してこようとする。
もちろん間に布地がある以上、入ってくることなどできないのだが、美咲は必死に両腿に力を込めて、指を阻もうとした。
指は委細構わず、ぐりぐりとえぐるような動きで美咲の尻穴を強く刺激する。
(そんな……やだっ、やだぁっ……)
指に押され、美咲の体はぴったりとドアに押しつけられる。
尻穴を押されるたびに息が詰まり、呼吸が荒くなってゆく。
体温が上がり、頬が紅潮する。車内の湿度と相まって、額にはうっすらと汗がにじみ始めた。
(――どうして、こんな……)
泣きたくなった。
抵抗できない自分が悔しくて、理不尽な仕打ちをうける自分が悲しくて。
そのせいか、嫌悪感が少しずつ、別の何かに変わり始めていることに気づかなかった。
だが、その自覚を得る前に、指が一旦離れる。
ほっと息をつく、その瞬間を見計らって、指がスカートをたくし上げ、太腿の隙間に侵入してきた。
「あっ!」
思わず声が上がった。周囲の乗客が不審気な目で美咲を見下ろす。
美咲ははっとして、真っ赤になって目を伏せた。
(どうしよう……みんな、気づいてしまったかも……)
車内の全員が自分を見ているような錯覚に陥る。できるものなら今すぐこの場から消えてしまいたかった。
(次の駅……次の駅で降りなきゃ。降りれば、追いかけてまでは来ないだろう……)
そんな美咲の決意には委細構わず、指は活動を再開する。
汗と熱で、むわっとした湿気が立ちこめた三角地帯。
揃えられた中指と人差し指が、その三角形に貫くように入り込み、天井部分を擦り立てる。
その動きに合わせて柔らかい肉が前後に震えた。
「〜〜っ!」
声にならない呻きが食いしばった歯の隙間から零れた。
その部分を他人に触られるなんて、生まれて初めてだった。
自分で慰めたことくらいはあるが、これほど激しい快感を得たことはない。軽く達した時点で、満足していた。
それとはまるで次元の異なる、他人の指から与えられる途方もない快楽が、美咲の心を狂わせ、溺れさせる。
汗と指の圧迫でショーツがぴたりと張りつき、食い込んでくる。
敏感な柔肉がきめの細かい繊維に擦られ、微細な快感を送り込んでくる。
(なっ、なんで、こんな……こんな……)
美咲の体の動きがいよいよ激しくなった。合わせるように、指も新たな動きを見せ始める。
普通に擦っていたかと思えば、不意に動きを止め、指を肉に軽く食い込ませて、もみほぐす。
ノックするように指の先でつつき、尖った爪で軽くひっかく。
美咲は腰を振って快楽を逃がそうとするが、ぎゅっと閉じられた彼女の太腿は、もっとと言うように手首を挟んで離さない。
悶える美咲を嘲笑うように、指は秘唇の上で繊細なダンスを踊り続けた。そして、
「!!」
不意に親指が尻穴をえぐった。
同時に秘部をいじっていた指もぎゅっと圧迫をくわえ、前後から挟みこむ。
(く、あぁっ……)
美咲の体が一瞬硬直し、震え、弛緩する。
その間も絶え間なく、指は秘部をこね回し続ける。
(や、やめっ……そんなに……)
じゅわっと痺れるような感覚が湧いて、蜜が零れた。
一度溢れるともう歯止めが利かなくなった。
指が蠢くたびに、奥から奥から愛液が溢れてくる。
(私……痴漢されているのに、こんな……)
見ず知らずの他人に触られ、濡れてしまったという恥辱が、ますます美咲を追いつめ、反応させる。
(こんなに……濡れちゃってる……)
必死でこらえたが、もはや誤解しようがないほどに喘ぎは大きくなっていた。
訝しげにこちらを見下ろすサラリーマン。横目でちらちらとこちらを伺う若者。
自分のされている行為の全てが見透かされているような気がした。
体の反応を押さえ込もうとするが、おとなしくしているとかえって指は笠に着て、美咲をいたぶり続ける。
下着の上から花芽がくじられる。指が押し当てられて、上下左右に揺すられる。
指の圧力と布地との摩擦が否応もなく鋭い快感を弾けさせる。
(もう……やめて……こんなの、こんなの……)
左手に持った文庫本は、折れ曲がるほどに強く口元に押し当てられ、美咲の息で熱く歪んでいた。
尖った爪の先端で柔肉をつつかれると、たまらない快感が背筋を這い上がった。
と、その爪が、濡れて色濃くなったパンストを引っ掛け、小さな穴を開ける。
一度とっかかりができたら、後は簡単にその穴は広がっていく。
ストッキングが破られたというショックよりも、引き裂く音が誰かに聞かれはしないかと、そっちの方が気がかりだった。
破れ目から指が侵入し、直接ショーツに触れる。濡れた部分を広げるように指が激しくぬかるみを擦る。
強く押されると秘裂から愛液が溢れ、ショーツを越えてにじみ出る。
指の動きは蜜という潤滑液を受け、ますます動きを活発にする。
ショーツを引っ張ってずらし、秘裂を晒した。
スカートの中にこもった、湿った空気が抜け出て、代わりに生ぬるい空気が直接触れてくる感覚に身震いする。
そして、
(やっ……いやあっ!)
直接柔肉を嬲り始めた。
淡い茂みは濡れて張りつき、秘裂の隙間からピンク色の肉が覗いていた。
指が一撫でするたびに歓喜に打ち震え、とろとろと蜜を吐き出す。
頃合いと見たか、指が左右に割れ目を押し開き……その内側に突き立てようとする。
(だめっ!)
さすがにそれ以上の行為は許容しがたかった。自分の指ですら、その内部に入れたことはないのだ。
右手を下ろして、上から指を押さえようとするが、巧みに指が刺激を送り込み、抵抗力を奪う。
(このままじゃ……どうにかなっちゃう……)
いよいよ指が入り込もうとしたその時――電車が止まり、ドアが開いた。
「!」
だが開いたのは、美咲のいる方とは反対のドアだった。
それでもそれは千載一遇のチャンスだった。
美咲は振り向いて逃げようとしたが、その瞬間後頭部をつかまれ、顔がドアに強く押しつけられる。
口元に当てていた文庫本が、ちょうど口を塞ぐ形になった。
「んっ! んんーーっ!」
くぐもった声は、流れる足音と喧騒に紛れて掻き消えていく。
数十人の乗客と僅かな空気を入れ替えて、無情にもドアは閉じられた。
そして、これから先、美咲が降りる駅までこちらのドアは開かない。
僅か十分と思っていたが、それがどれほどの時間に感じられるのか。
恐怖に震える美咲を嘲笑うように、指が再び股間に侵入してきた。
「っ!?」
冷たく、ぬるついた感触が秘部に触れる。
いつの間に準備したのか、指の先に薬品が乗せられていて、美咲の秘所に塗り込められてゆく。
薬と愛液が混じって、皮膚の下に染みこんでゆく。
その感触さえ、美咲の秘部は快感として受け止め、ますます蜜を溢れさせてゆく。
(いやぁ……)
潤んでいた瞳から涙が零れ、頬を伝った。
美咲を嬲っている相手の気配が、すぐ間近に近づいた。息づかいが聞こえた。
美咲とは対照的に、落ち着いた息。
唇をすぼめて細く吐き出された生ぬるい空気が、美咲の耳から首筋にかけてを、そっとくすぐる。
美咲は固く目を閉じて、その刺激に耐える。振り向くことも確かめることもしたくなかった。ただ早く終わらせて欲しかった。
なにをもってすれば終わりになるのか、分からなかったけれども。
不意に耳が舐められた。
美咲の思考を掻き乱すように、舌で耳の裏側をなぞり、耳朶を噛む。
ぴちゃぴちゃと唾液の跳ねる音が直接耳の中に流し込まれる。
思いもよらないところを愛撫され、思わず身をすくめるが、舌は執拗に耳を追ってくる。
(や、やだ……きづかれ、ちゃう……)
いくら混んでいるとはいえ、耳元まで近づかれたらさすがに不自然な体勢に見える。
ただでさえ、さっき声を上げて注意を引いているというのに……。
だが指の主は美咲の逡巡に構わず、耳に執着する。右の耳を舌で、左の耳を指で。
きつくはないが、じわじわと炙るような快楽が発生し、脳に直接注ぎ込まれてるような錯覚を覚える。
「はぁっ……」
とろけるような熱い吐息が零れた。
いや、熱いのは息だけではなかった。頬も、首も、胸の奥から全部、秘部から湧いた燃えさかるような熱で焦がされていた。
(なんで、こんなに感じ……ああっ)
相も変わらず指は股間を撫で回している。違っているのは分泌される愛液の量だ。
腿を伝い、ソックスにまで垂れるほどの愛液がとろとろと流れ、留まることを知らない。
胸は一切触られていないが、乳首は固く尖り、揺れるたびにドアに押しつけられ、ツンとした快感を送り込んでくる。
(どうして……変だよ、私。知らない人に触られて、こんなに……いやらしく……)
自分がひどく情けなかった。淫らで見境のない体が口惜しく、恥辱で涙が溢れそうになる。
だが体は指が与えてくれる刺激に敏感に反応した。電車が揺れる度に不規則な振動が美咲の体を犯し、甘い波動で狂わせる。
脳裏に顔が浮かんだ。心の底で密かに思っていた人の顔だ。
(助けて……助けてよ……)
白濁した思考の中でそう願うが、現実は容赦なく美咲を苛む。
先ほどから単調に美咲の秘部を撫で回していた指が、頃合いと見たか、美咲の割れ目を押し開いた。
愛液のたっぷり絡んだ指で、割れ目の上部に隠れていた、薄桃色の真珠をぬるりと撫で回す。
「〜〜っ!!」
声を上げそうになって、慌てて文庫本に噛みついて耐えた。
無機質の紙の味と噛み締めた感触が、足の間から沸き上がってくる感触に押し流される。
ぬるり、ぬるりと、指は真珠の周りで円を描く。一回りする度にきつい電流が背筋を這い上がり、脳裏で弾ける。
(やっ! いやっ! それ……気持ちよすぎるっ!)
初めて心が快楽を肯定した。途端、どくっと花蜜があふれ出て、滴り落ちる。
指が淫核を挟みこみ、くにくにと柔らかく揉む。爪を軽く立て、弾く。
「ふぅっ……ふぅーっ……」
まるで獣のような吐息が、歯と本の隙間から漏れた。
(止まらない……止まらないよぉ……)
腰が勝手に動いて、淫らな快楽を要求する。体は高ぶる一方で、気が狂いそうになる。
今までに達したことのない、未知の領域に恐怖が募る。
だがそれさえも、快楽の流れに押し流され、ひたすらにより強い刺激を望む。
もう他人の目なんか一切気にならなかった。
ドアに自ら胸を押し当て、固く尖った乳首を自分の胸で押し潰す。
足を心持ち開いて、指が動きやすいようにした。
文庫本を噛み締めた口の中で、淫らに本の表紙に舌を這わせる。
そんな屈辱的な行為でさえ、美咲を高める材料の一つになった。
(もっと……もっとちょうだい……、もっと……)
心の中の願いを汲み取り、指は緩急をつけて美咲を責めた。
美咲が達しそうになると動きを緩め、落ち着きそうになると激しい愛撫を行う。
徐々に徐々に、快楽の圧力が美咲の中一杯にたまってゆく。
熱く快い波が美咲の中で揺り返し、少しずつ大きくなってゆく。
(あぁ……溢れちゃう……)
愛液をたっぷりと湛えた割れ目が、ついに押し開かれた。
「んふぅっ!」
たっぷりと潤った肉襞は、さしたる抵抗もなく指を受け入れ、締め付ける。
内部は驚くほど熱く、柔らかく、それでいてきつく、とろりとした蜜で一杯になっていた。
浅瀬の部分をリズミカルに擦られると、さざ波のような快楽が湧いて、腰全体に響く。
(いいっ、いいよぉ……気持ちいい……)
鉤状になった指が蜜を掻き出し、複雑な形をした襞を擦り上げる。
親指は淫核に押し当てられ、蜜を絡めて撫で回している。
(ああっ! いくっ、いっちゃう……いっちゃうっ!)
淫核を覆っていた包皮が剥かれ、露出した。
そこに爪が立てられると同時に、秘裂の天井が指でえぐられる。
瞬間、頭の中が真っ白になって、電光が弾けた。
「あっ……、くあっ……、ああーーーっ!」
歓喜の絶叫が零れたが、美咲はそのことを認識する余裕はなかった。
ただどくどくと、体の中を熱い奔流が流れてゆく快さに身を委ねているだけだった。
手がだらりと下がって、持っていた文庫本が滑り落ちた。
「ふはあっ……、はぁっ……あ……」
崩れ落ちそうになる美咲の体が、背後から抱き留められ、支えられる。
無理矢理に顔を振り向かせられ、唇を奪われた。
舌があっさりと侵入してきて、優しく美咲の舌と絡む。
ファーストキスだったが、そんなことはどうでもよかった。
ただぼうっとした視界の中で、その相手が女性であったことに微かに驚き、また納得した。
むしろ男に汚されるよりも、同性が相手である方がはるかにましだった。この長い髪をした、美しい女性に。
甘えるように唇を押しつけ、唾液を交換し合う。
背徳感も、羞恥も、気にならなかった。ただ快楽さえあれば、それでよかった。
女性は予定通りに美咲を手に入れたことに満足し、飼い犬に餌を与えるように、愛撫を再開した。
「ああっ……」
美咲はその繊手が織りなす快楽の宴に、身も心も委ねていった。
「んっ、いくっ、いっちゃう……もっと、もっとぉ……ああっ……」
美咲は三度目の絶頂を迎え入れようとしていた。
後一押しで堰が切れる、そんなところまで追い込まれたとき、不意にこちら側のドアが開いた。
背中を支える壁が消滅し、美咲はよろめく。助けを求めて手を伸ばすが、逆に酷薄に突き放された。
ひどく冷たい視線が、美咲を嘲笑っていた。
(どうして――)
快楽に浸された足腰は上手く動かず、バランスを崩して、たたらを踏んだ。
すがりつくような形で、電車を待っていた人物にぶつかる。その人物は美咲を認めると、息を呑み、身を固くした。
見上げた美咲の前に、藤井冬弥の顔があった。
「え――藤井、君……?」
「美咲さん……」
冬弥の憧れていた人が、腕の中にいた。
恋人としての由綺とは別に、尊敬し、親愛の念を持っていた先輩。綺麗で、優しくて、妄想の中で犯したことさえ何度かあった。
その彼女が、今自分の胸にすがりついている。ひどく艶やかな雌の色を発散させて。
美咲にしても、密かに想いを寄せていた相手だ。由綺がいる限り、けして口には上らなかったはずの想いだった。
だが情欲の炎に炙られた体は、冬弥という男を求め、隠していた情愛を暴き出す。
いつもと違う美咲に、冬弥は激しく欲望を覚えると同時に、恐れた。
引き返せない道が目の前に広がっていることに気づいて。
「美咲さ――」
理性が美咲を引き離そうとするが、当の本人の美咲が首を振り、冬弥を離さない。
「藤井君……」
きゅっと込められた力に、媚びを含んだ声色に、冬弥の男が敏感に反応した。
押し当てられた胸の感触は柔らかく、回された腕は暖かく冬弥を包む。
振り解くこともできず、ただ唾を飲み下す冬弥の横を、どやどやと人の群が通り過ぎてゆく。
その中に混じって、長い髪と冷笑が、二人の横顔を撫でて通り過ぎていった。
すれ違い様になにか呟いていたが、小さな声は後ろ姿と共に、雑踏の中にあっさりと紛れてゆく。
残された二人が、自然、見つめ合った。
濡れた瞳と艶やかな唇が、冬弥を誘っていた。
火照った体と満足しきってない情欲が、冬弥を求めていた。
冬弥は美咲から目を逸らすことができなかった。
美咲は冬弥から離れることができなかった。
背徳の契約書にサインするように、二人は口付けを交わした。