葉鍵的 SS コンペスレ 3

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302名無しさんだよもん
 すうっ…、と、大きく息を吸い込んだ後、彼女は、彼の背中に声
をかけた。
「ねえねえあなた、ちょっと!」
「え?」
 振り向いた目が、驚きで大きく見開かれた。
「来栖川綾香って名前……覚えてる?」
「……! あ、綾香、ちゃん……?」
「ああ、やっぱり! ○○さんなんだ! あは」
 彼女は、彼に向けてぱたぱたと手のひらを仰ぐようにして笑った。
「違う、違う。勘違いしてるでしょ? 私は芹香。来栖川、芹香。
綾香の、一コ上の姉。似てるでしょ〜。よく間違われるのよねぇ〜」
「せ、芹…香……さん?」
「あなたのことは、妹からよく聞いたわよん。写真も見せてもらっ
たし。十歳頃、まだアメリカにいた綾香の家庭教師で、日本語と、
それにいろいろ勉強も見てもらったのよね?」
 まだ困惑気味の表情の彼に、彼女はクスッと笑った。
「六年経っても、案外変わってないのね…。写真のまんま。男前」
「本当に、綾香ちゃん……じゃないのか?」
「まあねえ、歩いててもよく間違われるわ。髪型いっしょだし、な
にしろ向こうは有名人だしね」
 笑顔で、彼女は手招きする。
「ねえねえ。こんなトコで立ち話もなんだし、せっかくだからさ、
その辺で話さない? 妹抜きで、さ」
303『remained one』 2/14:02/08/19 07:56 ID:SwmEvy+C

 カシュッと、缶ジュースのフタの開く音。
 私が引き止めたんだから私のおごり、と、彼女が彼に手渡した缶
ジュース。
 彼女も、カシュッと音を立てて、自分の分を開ける。
「あらためて。はじめまして。その節は妹がお世話になりました♪」
「あ、ああ……」
 公園のベンチに座った彼女の横に、ぼーっと所在無げに立つ彼。
 その顔はまだ戸惑い気味だったが、にっこりと、眩(まばゆ)い
ばかりの笑顔を向けてくる彼女に、ついほんの少し、表情はやわら
いだ。
 彼女の生き生きとした魅力に長く抵抗するのは、誰にだってなか
なか難しい作業なのだ。
「聞いてるわよ。勉強もできて。ルックスも良くて。映画や音楽に
も詳しくて。空手までスジがいい、スポーツマンで。近所の女の子
たちからモテモテだったんでしょう?」
「いや…そんな……」
「綾香だって、憧れてたんだから。あなたには」
「…………」
 無言で目線を逸らしながらジュースに口を付ける彼を、彼女の目
線が追う。
「何? ひょっとしてこういう風に言われるの、イヤだった?」
「ごめん。正直…ね」
「あらごめんなさい。私ったら、無神経ねえ」
 こつん、と自分の頭を叩く。
「いや、そんな。気にしなくていいよ」
「いえいえ。でもね、綾香があなたのこと憧れてたのは、ほんとよ。
ていうか、好きだったのよね。初恋の人なのよ」
「え……?」
「あら? 気付いてなかったの?」
304『remained one』 3/14:02/08/19 07:58 ID:SwmEvy+C
 彼は、ちょっと驚いた顔をした。彼女は、ゆっくりとジュースに
口を付けていた。
「い…いや……、その、好かれてるな、とは思ってたけど」
「あのね」
 ジュースを、口から離す。
「ほんとに、好きだったのよ。初めての異性としてね。だから、綾
香が、好きな人から誕生日プレゼントをもらったのも、デートした
のも、あなたが生まれて初めての相手…なのよ」
「ふうん……」
 彼は、本気で驚いているようだった。
「まあ…、当時十歳の子供だもんね。十六歳だったあなたがどうと
も思わなくても、無理ないか。私だって、いま十歳の男の子に“芹
香さん。好きです!”な〜んて言われても、どうしたもんやら、だ
しね」
「いや……そんなことないさ」
 彼は苦笑した。
「いまやあれだけの有名人の初恋の相手が僕なんて、そりゃまあ、
光栄だよ」
「あ、そう……あなたも知ってるんだ? いまの綾香のこと」
「ああ、そりゃね。総合格闘技女子高生部門チャンピオンの、天才
格闘少女──、おまけに、美人で、来栖川グループの正真正銘のお
嬢様。僕らぐらいの年頃の男だったら、少なくとも一度や二度、雑
誌かTVで見てるさ」
「……あなたみたいに、昔から綾香を知ってる人にそう言われると、
少し…微妙な気分ね」
「君も、見た感じやってそうだけど?」
「え? 格闘技?」
「ああ」
「ああ…、経験者はさすがね〜。私も空手やってるわよ? 綾香に
影響されてね」
305『remained one』 4/14:02/08/19 07:59 ID:SwmEvy+C
「そうなんだ」
「そうなの」
 にっこりと、彼女は笑う。
「綾香ほどは強くないけど、練習では一、二本取ることはあるわよ。
大会とか目立つところには出ないけどね。嫌いだから。けっこうす
ごいでしょ?」
「ああ、すごいね」
 彼も、微笑んだ。
「あなただって、あの綾香に、チャンピオンに、初めて空手を教え
た人なんでしょう? 充分すごいじゃないの」
「教えてなんてないさ」
「あら? そう聞いたわよ? 初めて型を習ったのも、空手を始め
たきっかけも、全部あなただって言ってたわ」
 彼は、自嘲的に薄く笑った。
「あ、笑うことないわよ〜。そりゃチャンピオンになったのは、そ
の後、本人が鍛練したり、いいコーチやライバルに恵まれたからか
もしれないけどさ。でも、その最初、第一歩は、まぎれもなくあな
たのおかげなのよ?」
「君はどこまで聞いてるの? 僕と、綾香の空手のこと」
「え?」
「試合をしたこととか?」
「あ……。そういうことね。ああ、うん……、全部」
 ふっと彼女の顔に、戸惑いの影が差した。
「全部か」
「うん」
「十六歳の男が、十歳の女の子に空手で、腕力で負けたこと」
「うん……」
「十歳の女の子に叩きのめされて、泣きわめいたこと」
「あ〜……、うん、でも」
 彼女は、くいっと顔を上げて彼に話し掛けた。
306『remained one』 5/14:02/08/19 08:00 ID:SwmEvy+C
「でも、いまはその後を知ってるんでしょ? 綾香は、十年に一度
の天才なんて騒ぐ人もいるような奴よ? 格闘技の才能があったの
よ。それも特級の。気にしなくていいと思うわ。子供の頃のマラド
ーナやタイガー・ウッズに負けて、いまそれを自慢にしてる人なん
て、世界中にいっぱいいると思うし。それとまあ、似たようなもん
よ。ただの十歳の女の子に負けたのとは、訳が違ったんだから」
「……そうかもしれないね」
「そうよお」
「ただ、十六歳の僕が、そう思えなかっただけさ」
 彼は、ジュースを一口飲んだ。
「空手は、あれ以来やってない」
「……。ごめんなさい、私、ちょっと、無神経だったわね」
 彼女は、ベンチにジュースの缶を置いた。
「話題を変えましょう」

「で、あなたはいま何やってるの?」
「僕?」
「ええ、そう。綾香はそんな道を進んでいるわけだけど」
 自分に水が向けられるとは、思っていなかったらしい。
「当時十六歳だったから、いま、二十二歳か。大学生?」
「……あ、ああ」
「じゃ、いま、就職活動で大変なんじゃない? 志望は? ひょっ
として、来栖川系列のどこかなの?」
「…………」
「あれ? どうしたの?」
「いや、別に……」
 彼はあからさまに視線を逸らすと、缶ジュースを飲み続けた。
「就職活動、してないの?」
 いかにも、答えにくそうな顔を、彼はしている。
307『remained one』 6/14:02/08/19 08:04 ID:peNgF5/9
「どうしたの?」
 彼女は、彼の目を覗き込んだ。好奇心と好意、そして意外なほど
の知性を感じさせる、生き生きとした彼女の瞳の輝き。
「まいったな……」
 ふうっ、と彼は溜め息をついた。
「君の目を見てると、何もかも見透かされてるみたいな気分になる。
ほんと、綾香ちゃんそのまんまだ」
「そう?」
「就職活動なんて、してないよ。そもそも、卒業だってできっこな
い。学校にも、もう何年も行ってないからね」
「…じゃあいま、何をやってるの?」
「別に。ただ一日中家にいたり、ぶらぶらしてるだけさ。何もしな
いで」
「……そう」
「気が向いたらネットしたり、ゲームしたり、CDを聞いたり……。
まあ、ね。ご立派な、ひきこもりって奴さ……」
 彼女はベンチで、ふたたび両手に持った缶に、目を落とす。

「あれからね。どうしても、僕は何をやっても駄目だって先に思っ
ちまうんだ……。日本に戻って来て、大学には入ったけど、何をし
てもどうせ失敗するんだって先に思っちゃうと…。何もしないまま
……いや、できないまま、ずるずるともう何年たったかなあ……」
「綾香の……せいなの?」
「いや、そんなことは言ってない」
 彼は、手を振って否定した。
「二十歳を過ぎた大人のやることは、本人の責任だろ。むしろ、綾
香ちゃんには感謝しなきゃいけないくらいだよ」
「……どうして?」
「なんて言えばいいのかな……。身のほどを知ったって言うのか」
308『remained one』 7/14:02/08/19 08:05 ID:peNgF5/9
 彼は、少し間を空けると、ぐいっとジュースを喉の奥に流し込ん
だ。
「あれで僕は、僕を初めて知ったのさ。うぬぼれや、思い込みを捨
てて。僕はこのていどの奴なんだって」
「そんな……」
「いや、ほんとなんだ。いま君から昔の僕の話を聞かされて、かえ
って身が縮む思いさ。身のほども知らないで、ちやほやされていい
気になって……。いまの自分の方が、結局落ち着くところに落ち着
いちまった自分なのさ、って思ってる」
「そんなこと言わなくても」
「どうせここまで言っちゃったんだ。もうちょっと喋らせてくれよ。
別にもう、綾香ちゃんを恨んだりしてるわけじゃない。ただ、あの
日、十歳の女の子に叩きのめされて、泣いてその子を罵って……、
後で、思ったんだ。あれが、俺の正体なんだってね。いま、親を困
らせること以外なにもできないような、バカで、無力な……、自分
って人間は、ハナからそのていどの器に生まれついた奴なんだって、
自分でわかっちゃったのさ」
 彼女は、いったん口を開きかけて、しかしそのまま黙ってしまっ
た。
 彼もそれきり、黙ってしまった。

 缶ジュースをみつめながら言葉を探していた彼女に、彼は、別れ
の声を掛けた。
「じゃ、そろそろいいかな。ジュース、ごちそうさま」
「待ってよ」
 彼女は、顔を上げて、もう一度彼を真剣にみつめた。
 こんな真剣に人をみつめる眼差しになど、彼は、もう何年もお目
にかかっていない。彼のような生活では、当たり前だった。何も言
い出せないうちに、彼は、視線に射すくめられてしまう。
309『remained one』 8/14:02/08/19 08:06 ID:peNgF5/9
「あのね、でも、あの空手の試合の後、泣いたのはあなただけじゃ
ないのよ」
 彼女は言葉を紡ぎ出した。
「綾香も…、泣いた…らしいわ……。家に帰って、もうわんわん泣
いたって。たぶん、あなたの三十倍ぐらい。あなたの前で泣かなか
ったのが、子供ながらに綾香らしさだったのかしらね……。おかし
いわね」
 おかしそうな顔はしたが、彼女は、笑わなかった。
「初めての失恋だったんだもの。しかも、自分に非があることはあ
きらかだった」
「綾香ちゃんに非?」
「そう。あの日、自分ってものに気が付いた……と、そう思ったの
も、あなただけじゃないのよ。綾香は、自分の無神経さがあなたを
傷付けたことを知った。それまで、勝つたび、何かに上達するたび、
誉められてばっかりだったものね。それが嬉しくて……。その時も、
あなたに誉められることしか考えられなかったのよ」
 彼は、黙って耳を傾けていた。
「アメリカじゃ、負けても勝った相手を尊敬するようなサバサバし
た子ばっかりだったしね。とにかく前向きに、頑張って、上達して
勝ってって繰り返してるうちに、自分を無神経にしてたことに気付
かなかったのよ。負けた人の気持ちなんて自分が思いもしなくなっ
てたことに」
 でもそれは……と彼が声を掛ける前に、彼女は、言った。
「でもね、結局綾香はそんな自分を変えなかった。それでね、最近、
そんな綾香をそのまんま認めてくれる奴が現れたの。綾香に、彼氏
が出来たのよ」
 喋りかけた口の動きが、止まった。
310『remained one』 9/14:02/08/19 08:07 ID:peNgF5/9
「それも綾香の個性のうちだって。例えば背が高い人はバスケやバ
レーで有利だけど、それで人間としての価値の上下が決まるわけじ
ゃない。綾香が格闘技王者だったり、何でもできる奴だったりする
のも、人間としての格の上下じゃなくて、それも単なる個性なんだ
って。なんでも頑張るのが綾香の性格だから、それで身に付いたも
のも、綾香の個性なんだって」
 彼女はベンチから熱弁を振るう。
「綾香もきっと、自分って奴に悩まされないわけじゃないのよ? 
現にあなたを傷つけたし、それはずっと心の傷として残っていたみ
たいだったわ。最近だって、そのこと、その彼氏に話していたみた
いだし。でも、そのままの綾香でいいって彼は言ってくれたそうな
の。だから、綾香は変わらないの。あなたとの事件を、胸に刻んだ
まま。そのままでも」
「……さすがだね」
「あなただってそうよ?」
「え?」
 急に自分に振られて、彼はきょとんとしてしまった。
「そうよ、あなただって。綾香は、空手で上回っても、勉強で上回
っても、だからってあなたを好きなのに変わりはなかったわ。最初
はそういうとこに憧れてたにしても、でも、そこが好きだったわけ
じゃない。あなたって人間そのものが好きだったのよ。たぶん、程
度の差こそあれ、わ…綾香だけじゃない、あなたを好きだった他の
子たちや、あなたの家族もみんなね」
 彼は、言葉を返せない。
「あなたが知らなくても、あなた以外の人達はあなたの良さを知っ
てたのよ」
「…………」
311『remained one』 10/14:02/08/19 08:12 ID:peNgF5/9
「いまのあなただって、私は、あなたが自分自身でそう自分の価値
を決め付けてしまってるだけだと思うな。あなた、プライドが高す
ぎるのよ」
「僕が? 最低の野郎だと自分で思ってるのに?」
「そこよ! プライドが高すぎるから、その一回の負けが、そこで
醜態を晒した自分が、いまだに許せないままなのよ」
 錐(きり)のように鋭い声が、空気を貫いて届いた。
「綾香だって自分の個性で人を喜ばせも、傷つけもするわ。人間生
きてれば最高の時も最低の時もあるわよ。でも、プライドが高いか
ら、初めて見た自分の醜態が、そんな自分が許せなかった。そんな
自分ならいらない、って見捨てたがるほどに」
「…………」
 彼女はすっとベンチから立ち上がると、彼に近づいた。
「あなたの問題は、最後のその薄皮一枚のプライドよ。たぶん…。
一度、それを脱いでみなさい? そして、駄目な自分のこと、それ
ばかりに捕らわれないで、自分の振幅に過ぎないんだって認めてあ
げなさいよ。そしたら、あなた、変わると思う」
 頬を、撫でた。
「冷静に鏡を見てご覧なさい? 最低なんて言ってるけど、あなた、
顔立ちはそう悪くないし、高校の時を考えれば頭だって悪くない。
運動神経だって悪くない。けっこう人間の中で平均点の上を行って
るはずよ? そう思ったら、もうちょっと自信を持ちなさいよ」
「……誉めてもらうのはありがたいけどね……、でもやっぱり、学
校も除籍寸前、親に現在進行形で迷惑をかけているひきこもりさ。
僕は」
「多少つまずいたからってねえ、いまどきその程度のつまづきをし
てる人は、他にもいくらだっているわよ。立ち直った人もね。四十
代五十代であなたよりずっと深刻に毎日過ごしてる人だってどれだ
けいるかわからないわ。人生、折り返し地点も迎えてないのに、人
生終わったみたいな寝ぼけたこと言ってんじゃないわよ!」
312『remained one』 11/14:02/08/19 08:13 ID:peNgF5/9
 ぱちん、という破裂音がして、思わず彼は目をつぶった。
 ……目を開ける。
 彼女が、目の前で両手を叩き合せた音だった。
 くすっと笑うと、彼女は、ベンチから空缶を拾い上げ、五mは先
のゴミ箱に当たり前のように投げ入れた。
「それじゃ。私行くわ。お説教なんかしてゴメン。もう会うことも
ないでしょうね」
 ぱんぱん、と服を叩いてはらう。
「じゃあ、元気出すのよ。もう人に心配なんかかけちゃ駄目よ。そ
んなことしてたら、また年下の女の子に説教くらうような羽目にな
るわよ!」
 二度三度手を振ると、彼女は、振り借りもせずに公園を後にした。
313『remained one』 12/14:02/08/19 08:14 ID:peNgF5/9

 ──────

 誰の目も届かない路地裏で、彼女は、ビルの壁に背を預けて目尻
を押さえていた。
「まいったな。泣くなんて何年ぶり? 六年ぶりか…」
 自分がそこまで動揺していることそれ自体に動揺している、そん
な様子。
 けれど、自分のそういう姿は決して晒さない。
 彼女は、そういう人間だった。
「他人を泣かすような情けない生き方晒してんじゃないわよ。馬鹿
ヤロ」
 それでも、彼女は後悔していなかった。
 今日だって今日なりに、精一杯やった。少なくとも、自分として
は。
 そうだ、携帯で浩之を呼び出そう、と彼女は思った。
 そして、何の説明もなしにヤックのバリューセットをおごらせよ
う。
 きっと浩之は、「お嬢さまが人のサイフあてにしてんじゃねーよ」
とか「お嬢さまがバリューセットなんかありがたがって食ってんじ
ゃねーよ!」とか言いながら、それでも、何も聞かずに彼女におご
ってくれるだろう。
 そんな光景がありありと想像できて、彼女は目元を手のひらで押
さえながらも、くすっと笑えた。
 そう。
 彼女にはもう、彼は必要ない。
 十歳の経験はともかく、彼女がいまの彼のことで傷ついたり、い
まの彼のことを思い出す必要は、二度とないのだ。
314『remained one』 13/14:02/08/19 08:15 ID:peNgF5/9

 ──────

 公園にひとり取り残されて、彼は彼女の残像を脳裏に反芻してい
た。
 彼女には彼に言わなかったことがあったが、彼も、彼女に言って
いなかったことがあった。
 彼女が、ちょっと失敗をしていたことをだ。
 彼も、来栖川電工のかつての部長──現在の専務の息子だ。
 グループ総帥の孫娘、来栖川姉妹のことは、彼女が思っていたよ
り、もう少しよく知っていた。
 綾香の姉の芹香は、信じられないぐらい無口で、空手なんてでき
もしない深窓のお嬢さまだってことを。
315『remained one』 14/14:02/08/19 08:17 ID:peNgF5/9
 ふぅ……と深い溜め息をついた。
 彼は、自分がいま不快じゃない気分なのを確かめていた。
 一時期確かに、彼にとって来栖川綾香は、ネガティブな感情だけ
を伴って思い出す存在だった。
 もし万が一ふたたび会ったら自分がどんな心境になるか、彼は確
信していた。
 けれど、実際は違った。
 魅力的な笑顔と、生き生きとした目。そして、一生懸命彼に向け
てきた言葉に、柔らかく温かい感情が胸の中に広がるのを、彼は感
じたのだ。
 力一杯のお説教の内容よりも、その彼女の印象に、彼は新鮮な感
動をおぼえた。
 六年間確信を持ち続けていたその時の自分の反応が、実際その事
態になってみたら、まったく違うものだった。
 そのことは、いま確信している自分の姿も、自分でそう思い込ん
でいるだけかもしれない──彼に、本当にそんな可能性を考えさせ
ることに成功していたのだ。
 彼は、残りわずかな缶ジュースに最後の口を付けた。
 彼女におごられたジュースを一気に飲み干した後、突然彼は、一
秒先から、何をどうするかは、すべて自分が選ぶことができる、その
事実に気付いていた。