……俺はふと、小さな疑問にとらわれた。
目の前にいるのは、仕事は終わったとばかりにてきぱきと荷物を整理する弥生さん。
俺はたった今、由綺のスケジュール管理を手伝わされた所だ。彼女にしてみれば、
由綺の忙しさを俺に思い知らせ、ひいては俺に「由綺の恋人」でいる事を諦めさせようと
いう魂胆があったのだろう。
そしてそれは成功していた。こんなにも忙しい日々を送る由綺を、俺が縛っていいのか。
そういう想いは確かに俺の中にあった。
……だけど。
腑に落ちない事があった。
由綺のスケジュールは本当に分単位で詰まっている。芸能活動が無い日も一応あるが、
その日は大学だ。いわゆる「のんびり出来る日」が、一日たりとも存在しない。
一日たりとも。
それはつまり、毎日のように動き回り続ける事を意味する。
だけど、由綺は確か……。
「どうしました?」
ふと顔を上げると、弥生さんが俺の顔をのぞき込んでいた。
何もかもお見通しのような目に、俺は一瞬たじろぐ。この女に近付くのは危険だ、と
頭の片隅で警告が聞こえたような気がした。
「いや……」
でも、どうするか。このスケジュールは由綺には厳しい。否、無理だ。それを俺は
知っている。仮に由綺が、それを隠して無理してるんだとしたら……。
「何か言いたい事があるようですね」
……感情がこもっていないだけに、嫌みなのか単なる確認なのか判断しかねる。
でも、それが俺に決断させた。ここで何も言わずに引き下がるのは、何だか敗北を
認めるような気がしたし……俺が由綺を大切に思っている事実、由綺の事をよく知って
いるという事実を、隠す必要も意味も無いだろう。
「弥生さん」
「何でしょうか」
「このスケジュールだと、由綺はこの一ヶ月、休みらしい休みがないですよね」
「その通りですが?」
事務的な口調のはずなのに、何を今更、という雰囲気を感じるのは俺の先入観だろうか。
「でも、ちょっと待って欲しいんですよ。俺は高校時代から由綺を知ってますけど……」
……いざ口にするとなると、なかなか度胸がいる。
しかし幸いというか、今のエコーズにはマスターしかいなかった。それでも俺は声を潜めて、
「……あいつ、生理が辛いんですよ」
ささやき声で弥生さんに言った。
それに気付いたのは付き合い始めてすぐだった。
はっきり言えば、すぐ分かるぐらい由綺の変化が大きかった。努めて元気を装っていても
眉のあたりに力みが入ってて、顔色も少し悪くて、普段は化粧などまるっきり無縁の由綺が
ファンデーションで地肌を隠そうとすらしていた。
初めは風邪でもひいたのかと思った。だけど、
「おい、大丈夫か?」
「あ……大丈夫、いつもの事だから……」
普段に比較するとほのぼの度8割減の、由綺の(無理矢理っぽい)笑顔。
そしてその発言。俺は直感した。
以来、俺は由綺の体調の変化には気を付けるようにしていたものだ。こう言っては何だが、
あいつは他人が気を付けてやらないと無理を押して突っ走る面もあったりするし。
……その由綺が、全く休み無しで芸能活動その他を続けるというのは、恋人を自認する
俺としては見逃すわけに行かない。冗談でなく、これでは由綺の体がもたない。
……だが。
「ええ、知ってます」
さらりと、弥生さんは受け流した。
「……え?」
俺は一瞬、呆けた顔で弥生さんを見返してしまった。
「由綺さんの生理現象が苦痛を伴う物である事は存じ上げております。マネージャーとして、
健康管理は当然の義務です」
淡々と事務的スマイルで、しかしある意味容赦なく、弥生さんは言葉を紡ぐ。
「で、でも……」
「ですから、由綺さんにはピルを服用して頂いております」
「!?」
俺の思考は硬直した。
「ピルは日本ではまだ認可途上ですが、欧米ではごく普通に服用されているのです。使用法を
守れば人体への影響もありません。由綺さんのような、スケジュールが厳しい方には最適の
解決法です」
あくまで冷静な弥生さんの声が、幾重にも俺の頭の中で反響する。
ピル。避妊薬。妊娠していると体に思い込ませる事で生理を停止させる薬。
そんな物を飲んでまで、仕事をするのか?
そこまでして仕事をする価値があるのか?
「由綺さんだけではありません。理奈さんも、私も常用しています」
「……!」
「ご安心いただけましたか?」
ふっ、と笑みを浮かべる弥生さん。
恐怖とも絶望とも違う何かが背筋に走った気がした。
この人は、どうしてこうも俺を追いつめるんだ。
人体への影響が無い、訳がない。現に生理を無理矢理止めているんだ。そこまでして夢を
追う由綺と、それを支える弥生さん。
なのに、俺は何も犠牲にしていない……その事実が重く、俺にのしかかってくる。
結局、俺に自分の仕事を手伝わせた弥生さんの目的は、十分以上に果たされたのだった。
……と言うわけで。
これが、後日めでたく由綺と結ばれた時に、あのヘタレ冬弥君が何のためらいも無く
中出ししてのけた理由なのでありました。