「祐一、準備出来た?」
「ああ、これで終わりだ……っと」
段ボールのふたを閉め、ガムテープで封をする。
すっかりガランとした部屋を見回すと、一つ残った目覚まし時計に手を伸ばす。
「ありがとうな。今まで世話になった」
そう言いながら、従姉妹の声が録音されたそれを、元の持ち主に差し出した。
「うん……」
名雪は両手で受け取ると、そのまま胸に抱え込む。
俯く顔に一瞬光るものが見えたのは、気のせいだろうか。
「……お別れ、だね」
「そんな寂しそうな声、出すなって。また今度、遊びに来るから」
「うん、そうだね」
そういうと顔を上げ、笑みを浮かべてみせた。
「今度来た時は、あんなに待たせないよ」
「まったくだ。こんどはせめて一時間は切ってくれよ」
「うん、頑張るよ」
「……冗談なんだけどな」
俺は苦笑すると、旅行鞄を手に取った。残りの荷物は宅急便で送ってもらうこ
とになっている。
「あ……もう行っちゃうんだ」
「ああ。最後にこの街を一通り見て行こうと思ってさ」
優しき嘘の辿り着く場所
俺がこの街に来てから二ヶ月余り。ようやく暖かくなり、俺もこの街に馴染ん
できた頃、思わぬ事が起きた。
両親の長期出張が取りやめになってしまったのだ。なんでも景気の悪化から、
そんな余裕が会社になくなったとか。
お陰で俺は、また四月から元の街で暮らすことになったのだ。
「それじゃ祐一さん、またいつでもいらしてくださいね」
「はい。それじゃ、また。今までお世話になりました」
いつもと変わらぬ笑顔の秋子さんに別れの挨拶をすると、俺は水瀬家に背を向
けて歩き出した。
この街で暮らしていきたい、と思わないこともなかったが、俺が居候すること
が迷惑になっているのも事実である。むろん、秋子さんは何を言うわけではない
が、母子家庭で食い扶持が一人増えるというのは大変なものだ。
それに名雪のこともある。
名雪だって年頃の娘だ。そのうち誰かと恋に落ち、彼氏も出来るだろう。そん
な時、俺のような男が同居してる、と聞けばその男も気分が悪いだろうし、いら
ぬ誤解を生むことも十分に考えられる。
二人のためにも俺は引っ越した方が良い。そう俺は納得している。
――※――※――※――※――
俺はいつもの道をたどり、商店街にやってきた。
ここも春の装いのまっただ中だ。
花をあしらったディスプレイが並び、ピンクを基調とした装飾が辺りを彩って
いる。
「わーい、まってよー」
「おいてっちゃうぞー」
歓声をあげ、小さな子供たちが俺の横を通り過ぎる。
男の子と女の子。互いに手を繋ぎ、笑いながら駆けてゆく。
まるで七年前の、俺とあゆのように。
月宮あゆ。七年前に出会い、その七年後に偶然再会した少女。
しかし、ある日を境に彼女と出会うことは二度となかった。
『もう会えないと思うんだ』
その時彼女が言った言葉通りに。
遠くに引っ越したんだろう。
そう納得しようとはするものの、最後に出会った時のことを考えると、いつも
ある疑問にたどり着く。
七年前、俺はあゆとどうやって別れたのだろう?
様々なことを思い出したが、結局そのことは最後まで思い出すことはなかった。
ふと足を止める。
この場所だ。あゆと俺が最後に話をしたのは。
『探し物、見つかったんだよ……』
声と共に脳裏に蘇る、あゆの顔。言葉とは裏腹の、寂しげな表情。
『だから……祐一君とも、もうあんまり会えなくなるね……』
「また……会えるといいな」
俺は小さく呟いた。
――※――※――※――※――
商店街を抜け、学校に向かって歩を進める。
街路樹からの木漏れ日が地面に斑模様を描く。こんな光景を見ると、春になっ
たことを実感させられる。俺がこの街に来た頃はまだ、葉の上にまで雪が積もっ
ていたものだ。
そういえば、その雪を頭からかぶった少女がいたことを思い出す。場所もちょ
うどこの辺りだ。
美坂栞。自称、病気の少女。
雪にも劣らぬほどの白い肌を持った少女は、風邪で学校を休んでいる、という
話だった。
けれど、俺はあの後学校で、彼女を見かけることはついに一度もなかった。
風邪なら一週間もすれば治るだろうに。
彼女は一体何だったのだろう?
実は別の学校をずる休みしている、登校拒否児だったのだろうか?
ちゃんと学校に来ていて、単に俺が会えていないだけなのだろうか。
それとも実はもっと重い病で、今も家で寝ているのだろうか。
あと気になることが一つ。
学校に美坂香里、という級友がいた。
栞と同じ名字。けれど香里は、自分に姉妹なんていない、と以前話してくれた。
果たして本当に無関係だったのだろうか。嘘を付いていたんじゃないだろうか。
もはや確かめることもできないのだが。
二月に入ってから学校を休みがちになった香里は、三月にはついに一度も俺た
ちの前に姿を見せることもなかったからだ。
引っ越した、と聞いたのはつい最近のこと。名雪も知らなかったらしい。
美坂栞と美坂香里。
この二人の事を思い、俺は空を見上げた。
緑の葉の隙間から見える空は、ただ青く透き通っていた。
――※――※――※――※――
あえて何も考えないように努めながら先を急ぎ、俺は学校へとたどり着いた。
どうやら今日は卒業式だったようだ。校門では華やかな姿の人々が談笑している。
感極まったのだろう。袴姿の女性が目を潤ませ、ハンカチで目元を押さえている。
俺も後一年この街にいれば、こうして卒業式を迎えていたのだろうか。
そういえば、あの人はどうなったんだろう。
俺は何とはなしにある女性の姿を探してみる。が、見つかるわけもない。
ここにいないだけなのか、それとも――。
川澄舞。
彼女との出会いは突拍子もないものだった。
『……私は魔物を討つ者だから』
嘘か冗談だとしか思えない言葉を、彼女は深夜の学校で口にした。制服に剣を
持った幻想的とも言える格好で。
興味を持ったのは事実だ。何度か話もした。けれど直ぐに疎遠になった。
話す事は理解できなかったし、何より彼女は学校の問題児だったからだ。
その後も何度か彼女の華々しい噂を聞いたのだが、ある時を境に全く話が出て
こなくなった。
それは学校の窓ガラスが全て割られていた日。
二階、三階の窓ガラスも廊下側に向かって割られており、どんな超常現象が起
きたのかクラスでもひとしきり話題になったものだ。
川澄舞との関係を噂する者もいたが、学校からは何の発表もなかった。
何も。
ガラスが割られたことについてさえ――。
「あの……」
「あ、はい」
気が付くと、袴姿の人が俺に向かってカメラを差し出していた。
「一枚撮ってもらえないかしら」
拒否する理由もない。俺は桜をバックにその四人グループをファインダーに収
め、ボタンを押す。
シャッターがきれるその一瞬、幼い女の子の姿が見えた気がした。
――※――※――※――※――
お礼の声を背に、学校を後にした。
まだ時間がある。
俺は最後に街の全景を見ようと、丘に登ることにした。子供の頃の記憶を頼り
に細い道を歩く。
しばらく行くと視界が開けた。青々と茂った草の向こうに、ミニチュアの様な
街が広がっている。
柔らかな風が、少々ほてった体に心地よい。
「うにゃー、うなー、なー」
不意に聞こえる猫の声。
「にゃー、うにゃー」
高く低く、歌うかのように続くその鳴き声は、なぜか悲しげに響いてくる。
どこからだろう。
草を掻き分け、声の方に近づいてみる。草むらを掻き分けつつ進むと、突然開
けた空間に出た。十メートル程度の広場の中央に一匹の猫がうずくまり、鳴き声
をあげている。
「お前は……?」
その猫の容姿には見覚えがあった。真琴が歩道橋から落としたヤツによく似て
いるのだ。
沢渡真琴。自称、記憶喪失少女。
よく分からないうちに水瀬家に住み着き、ある日突然いなくなった迷惑なヤツだ。
夜毎の悪戯に随分と睡眠時間を削られたことを、今となっては懐かしく思い出す。
けれどそれも、真琴が拾った猫を歩道橋から落とした時に終わりを告げた。
どこに行方をくらましたのか、あの後彼女に出会うことは二度となかった。
結局記憶喪失は嘘だったのだろう。今頃は家族や友達を困らせつつ、楽しく遊
んでいるに違いない。そうに決まっている。決まっているんだ。けど――。
「ねこ、ねこ」
片膝をつき、猫に手を伸ばす。本当にあの時の猫か、確かめてみようと思った
のだ。しかしそいつは警戒の声を上げると身を翻し、あっという間もなく姿を消
してしまった。
「これは……?」
猫がいたところに、土が小さく盛り上がっている。
その前には、小さな茶碗。
まるで……まるで何かの墓のように。
何より俺はその茶碗に見覚えがあった。いや、あるような気がした。あれは――
……いや、気のせいだろう。そんなはずはない。だいたい、今まで残っている
はずがない。
俺はそこに眠る何者かに対して、そっと手を合わせ冥福を祈った。
再び聞こえだした猫の鳴き声が、鎮魂曲のように思えた。
――※――※――※――※――
街を一通り回ってきた俺は、ようやく駅前の広場に辿り着いた。
時間を確認する。よかった、後数分でちょうど予定していた列車が出発する。
俺は改札に向かって歩き出した。
「祐一っ!」
突然背後から声をかけられる。振り向くとそこには、名雪が立っていた。
名雪にしては珍しく息を切らしている。格好も先ほど別れたときのままだ。
動揺を抑え、笑顔で問いかける。
「あれ? 名雪、どうしたんだ? 何か俺、忘れ物したか?」
「ううん、そうじゃないよ……あ、そうかも」
「おいおい、一体なんだ?」
「忘れたのは、わたしの心」
そういうと名雪は目を閉じ息を整える。何か大事な事を伝えようかとするように。
「あのね、わたし――」
「名雪っ!」
俺は名雪の言葉を遮るように大声を出した。
「えっ、なに?」
驚く名雪を後目に、俺は改札に向き直った。
「……元気でな。彼氏でも出来たら、連絡しろよ?」
「っ――! 祐一……」
「じゃあな」
「ゆう……い……」
俺は歩き出した。後ろを振りかえず。
名雪のためにも。俺のためにも。
――※――※――※――※――
本当は気が付いていた。
あゆがこの世から姿を消したことも。
栞が大病を患っていたことも。
舞が魔物と戦って果てたことも。
真琴という記憶喪失の少女を見捨てたことも。
けれど俺は、誰も救うことが出来なかった。
気が付いたときには遅すぎたのだ。
嘘の中の真実に。真実の中の嘘に。
そして、名雪。
名雪が俺のことを好きなことも分かっていた。
俺も名雪のことは嫌いじゃない。
だからこそ、こんな情けない男の側を歩かせるわけにはいかないのだ。
彼女には幸せになって欲しいから。
――※――※――※――※――
ホームに着くと、ちょうど列車が到着したところだった。空席を探し、腰を下
ろす。
「すまんな……」
誰にともなくつぶやき、目を閉じた。
発車のベルが鳴り響く。
こうして俺は逃げるようにこの街を出ていくのだ。
自分自身にも嘘をついて。
優しき嘘が降り積もった、この街を。
〜了〜