國を思えばこそ…ベナウィスレ 第一陣

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82禅譲 1
「それじゃあ、本当にお世話になりました」
 都から辺境へと向かう街道。その関所手前でエルルゥは振り返り、白いウォプタルを連れた男に一礼した。
「……いえ」
 男――トゥスクル侍大将にして騎兵衆隊長、ベナウィは目を伏せ、小さな微笑みを浮かべた。滅多なことでは感情をあらわにしないこの男の笑みを見分けるのは至難の業だったが、慣れ親しんだエルルゥにはそれで十分伝わった。
「本当に、行ってしまわれるのですね」
「はい。ユズハちゃんのことも見届けたし、政のことは私には分かりませんから。それに……やっぱり、あそこは私の故郷なんです」
「……そうですね。愚問でした」
 ハクオロが大封印の彼方に消えて、もうかなりの時が経つ。
 事後を託されたベナウィは皇の不在に揺れる國を支え、エルルゥはヤマユラの集落の復興に取り組んでいた。
ハクオロの子を身ごもったユズハの診察のため長く都を空けることはなかったが、ここ数ヶ月はほとんど辺境と都を往復する生活を続けていた。
 最初は姉妹二人とベナウィの手配した人足のみで始まった復興活動は、次第に姉妹を慕う人々や、
ヤマユラの集落と同じように滅ぼされた村の難民たちの協力を集め、今や集落はかつての姿を取り戻しつつあった。
83禅譲 2:02/05/06 04:06 ID:PPESTr86
「寂しくなりますね。オボロも都を離れるつもりのようですし」
「ん〜」
 ムックルの背にくくりつけた旅装に埋もれる格好のアルルゥが姉を急かす。
「もう……ちょっと待って、アルルゥ。あんただってベナウィさんにはずいぶんお世話になったでしょ」
「構いませんよ。では、どうか息災で。微力ながら応援申し上げております」
「ありがとうございます……あの」
 エルルゥはそこで口ごもった。ベナウィは無言で先を促す。
「あの……私がこういうことを言うのってすごく烏滸がましいし、無責任だとは思うんですけど」
「……?」
 ためらいがちに、エルルゥは口を開く。
「どうか、この國を……よろしくお願いします」
 その言葉にどう答えるか――正直、迷った。
「……はい。承りました」
 結局心の定まらないまま、ベナウィは答えた。安心したような表情を見せるエルルゥに、なぜか罪悪感が募る。
「それじゃあ、そろそろ行きます。……また何時か」
「……ん」
「ええ。また何時か」
 慣れないウォプタルに四苦八苦しながら騎乗したエルルゥは、もう一度アルルゥとともに一礼して去った。その背が霞んで見えなくなるまで見送って、ベナウィは街道に背を向けた。

『――どうか、この國を――』

 別れ際のエルルゥの一言は、脳裏に浮かんで離れないまま。
84禅譲 3:02/05/06 04:08 ID:PPESTr86
「では、今日の朝議はここまでとします。諸官とも協力して一日に励むこと。以上」
 ベナウィの一言で、朝議は締めくくられた。休む間もなく執務室に移動し、山と積まれた書類や木簡のたぐいに目を通し、署名、押印を施していく。
「これは新皇即位まで保留……さて、次ですか」
 紙の巨塔をいくつか片づけ終わり、次の山に移ろうとしたところで執務室の戸が叩かれた。
「大将、この書類なんすが……」
 これで今日何度目になるだろう。クロウの持ち込んだ書類に、あくまで表情は変えないまま内心で頭を抱えながら、ベナウィは目を通した。
 未だ皇不在のままのトゥスクルで、最高の権限を持つのはベナウィである。大規模な戦乱の後ということも拍車をかけ、彼でなければ処理できない仕事は溜まる一方だった。
「すみませんが、女官に言って何かお茶を。これが片づいたら休憩します」
「ういっす。……しかし大将、大丈夫ですかね? なんだか最近やつれてきてますぜ」
「人の心配をしている場合ではありませんよ、クロウ。あなたもです」
 素っ気なく返すベナウィに苦笑しつつも、クロウは真剣な顔で続けた。
85禅譲 4:02/05/06 04:10 ID:PPESTr86
「はは……いやマジな話、このまま皇不在が続いたらやばいんじゃないすかね?」
「仕方がないでしょう。皇を継ぐべき人物はもうここには居ないのですから」
「……大将。あんただって本当は分かってるはずだ。総大将がいねえ、若大将は出奔。今この國を導けるのは、あんたしか居ないってことぐらい」
「またその話ですか……」
 ベナウィは運ばれてきた茶を一口すすり、深々とため息をついた。
「いいですか、クロウ。聖上はお亡くなりになったわけではありません。皇弟であるオボロならばまだしも、侍大将とはいえ一介の武官にすぎない私がこの國を継ぐという道理のあるはずがないでしょう」
 きっぱりと言い捨てるが、クロウはそれでも食い下がった。
「しかしですね大将、現実問題として総大将がこの國を託したのはあんたなんだ。若大将は國を動かすって性格じゃない。総大将はそれを分かってた」
「私は聖上に忠誠を誓った身。その私が玉座に就くということは臣道に背きます」
 片手を挙げてクロウの言葉を遮る。
「少し休みます。離宮の方にいますから、緊急の用件はそちらへ」
「……ういっす」
 まだ何か言いたそうなクロウに背を向け、ベナウィは歩き出した。
86禅譲 5:02/05/06 04:12 ID:PPESTr86
「きゃう〜。さく、さく〜」
「はいはい、何ですかクーヤ様」
 離宮……ケナシコウルペ時代の遺産のひとつである。インカラたちの暴政の象徴ともいえる後宮は、幾度か戦火を浴びてかなり様変わりしてはいるものの、随所にその無駄な贅沢さを残していた。
 ここはその後宮の一部、風雅な庭園と四阿風の建物で構成される一角だった。現在ここは仮に離宮と呼称され、先の大戦ですべてを失った元クンネカムン皇、アムルリネウルカ・クーヤと側仕えのサクヤが暮らしていた。
「あ、ベナウィ様。どうかなされたんですか?」
「いえ。散歩をかねて様子を見に来ただけですから、お気になさらず」
「う〜?」
 サクヤの背中に隠れるようにベナウィを見上げてくるクーヤに一礼して、一言断ってからサクヤの隣に腰を下ろす。
「ここでの暮らしも、もう長くなりますが……何か、至らない点はありませんか」
「とと、とんでもないです! こんなに立派な住まいをいただけたばかりか、みなさん私なんかに過ぎるくらいよくしていただいて……これ以上を望んだら罰が当たります」
「そう言っていただけると。あなた方のことは聖上に託されておりますから」
 話が堅苦しくなりそうな雰囲気を察すると、クーヤはさっさと蝶を追いかけて庭園の方へ行ってしまった。緊張のほぐれないサクヤから視線をはずし、ベナウィはクーヤの背を目で追った。
87禅譲 6:02/05/06 04:15 ID:PPESTr86
「クーヤ殿は……いかがなされていますか?」
「……とても、幸せそうに」
 視線を合わせないまま、うつむき加減にサクヤはとつとつと語り始めた。
「クーヤ様は今、あらゆるしがらみから解放されていますから。お心が壊れてしまっているのは、本当につらいことですけど。でも、あの方には背負うものが多すぎたんです」
 クーヤを苦しめたのは、奸臣ハウエンクアの手による諸官の暴走だけではない。
虐げられた民の痛みの代弁者たることへの重圧。
威儀を保つために、民に素顔さえ見せられない自分への忸怩たる思い。
そしてあるいは、自らがゲンジマルという有能すぎる臣下の主たり得るのかという不安もあったかもしれない。
「だから、今お心が元に戻られてしまったらと思うと……正直、すごく怖いんです」
 クンネカムンという國が事実上崩壊し、シャクコポル族はよりいっそうの苦難を背負うことになってしまった。
謀略に踊らされていたとはいえ、いくつもの國を滅ぼし、大陸全土を戦火に晒した責は消えるものではない。
 アヴ・カムゥという圧倒的な力を持っていたことも災いした。その力に蹂躙された記憶を忘れることのできない諸種族は、その恐怖故に迫害に走る。
幾度となく調停の試みがなされていたが、国を追われたシャクコポル族は各地で冷遇された。それどころか、私刑まがいの暴行までが何件も報告されている。
 そのすべての責も、本来ならばクーヤに降りかかるはずだったものなのだ。その両肩には酷に過ぎる重圧を背負った少女の上に、なお。
88禅譲 7:02/05/06 04:18 ID:PPESTr86
「このまま……元に戻らなければ、と?」
「……そうですね。私は、それを望んでしまっているのかもしれないです」
 そのことが耐え難い罪であるとでも言うように、サクヤはその細い肩を両腕で抱いた。もともと小さなサクヤの体が余計に儚く、今にも消えてしまいそうに見える。
 けれどそれに続いた言葉は、ベナウィを狼狽させた。
「ですけど、クーヤ様は……きっと、こんな私をお許しにならないと思います」
「……何故、ですか」
 聞き返したのは無意識のうちだったろうか。サクヤの一言は、ベナウィの予期し得ぬ何かを秘めていた。
「クーヤ様は、皇だったから……必死に、皇たらんとしている方だったから。どんなに重くても、背負いきれなくても、ご自分が皇だって……そうありたかったんです」
 そう語るサクヤの表情は、うつむいた髪に隠れてうかがい知れない。
「だからきっと……クーヤ様がすべてを忘れたまま、うたかたの夢に生きていけることを願う私なんかがそばにいちゃ、本当はいけないんです……」
「……そんなことは」
 ありませんよ――返す言葉は、何処か白々しい響きをともなっていた。
 サクヤが涙を流していることくらいは、見なくても分かった。こんな時、ハクオロならば黙って肩を抱き、優しく頭を撫でながら胸を貸してやるのだろうが……ベナウィは、ただ無言で嗚咽が漏れ聞こえることのないように祈っていた。
89禅譲 8:02/05/06 04:20 ID:PPESTr86
「あう? さく?」
 いつの間にか戻ってきていたクーヤが、サクヤの膝に乗って顔をのぞき込む。
「う〜?」

 ぺろ……

「クーヤ様? ちょ、くすぐったいですよ……」
「さく、さく〜」

 ぺろ、ぺろ……

「大丈夫ですよ。サクヤは大丈夫です。大丈夫ですから……」
「う?」
 まさか自分のことを語りながら涙していたとは知るまいが、サクヤの目尻に浮かんだ雫を優しく舐めとるクーヤを、サクヤは抱きしめた。クーヤが、抗議とも困惑ともつかない声をあげる。
「う、あ〜」
「あ、ごめんなさい、窮屈でしたね。それじゃ、サクヤと向こうで遊びましょう」
 涙を拭って立ち上がったサクヤは、クーヤの手を引いて池の方へ歩いていった。去り際に一礼したサクヤに会釈を返し、ベナウィはしばらくその場に佇んでいた。
90禅譲 9:02/05/06 04:22 ID:PPESTr86
 執務室に戻ったベナウィの仕事は、深夜にまで及んだ。
 やっとの事で全ての書類を処理し終え、窓の外を見上げれば満月。執務に疲れ切った身にも酒興をかき立てる蒼白い光が、静かに宮を照らしあげていた。
 ――呑んでみようか。
 酒は好きでも嫌いでもなかったが、こんな月の晩にはしばしばハクオロの酒の相手に誘われた。このところの忙しさに、ゆっくり酒杯を傾ける余裕もなかったが、この月夜はいい機会かもしれない。
 私室にあった酒瓶を片手にそぞろ歩いていると、いつの間にやら見覚えのある場所へとやってきていた。
「ここは、禁裏……」
 普通ならふらりと足を踏み入れる場所ではないが、ここの主はもう居ない。道理で衛士にも出会わないはずだった。
 手酌で杯に注がれる酒は透き通り、窓から射し込んだ月の姿を映し出す。この清酒も、ハクオロの指示で作られ始めたものだ。
 今日は、何故かよくハクオロのことが思い出される。
「聖上……あなたは何を思って、私に後を託されたのでしょうね……」

『――どうか、この國を――』

 あの日、ハクオロに事後を託されてから。
 あの日、辺境への街道でエルルゥを見送ってから。
 消えない声は次々と声音を変えて、それでも同じ言葉を繰り返す。
91禅譲 10:02/05/06 04:24 ID:PPESTr86
 執務室での、クロウとの会話もそのひとつ。
 似たようなことは、今までに何度も――クロウに限らず、多くの官たちから言われていた。ハクオロもオボロも居ないこの國を支えられるのはベナウィ以外にあり得ない、いっそ皇の座を継いではどうか――。
 そんなことは、ほかならぬベナウィ自身が誰よりもよく理解していた。
 実際問題として、この國は既にベナウィの手で動いている。今更皇を名乗ろうが、そんなことはもはや肩書きでしかない。むしろ今まで皇の手でしか裁けないとして保留してきたいくつもの懸案を、よりよい形で処理することもできる。
 それをそうさせないのは、生まれたときから染みついた武人としての性だった。
 ハクオロは皇であり、自分はそれに仕える武人。ケナシコウルペ陥落のあの日、彼に命を救われてからというもの、ベナウィはそこに自らの存在意義を見いだして生きてきた。
92禅譲 11:02/05/06 04:27 ID:PPESTr86
「武人は武人……皇は皇。そういうわけには、行かないのでしょうか」
 サクヤは、必死に皇であろうとし続けたクーヤの苦衷を語った。己にかかるべき重責を全て捨て去ってしまったクーヤの安息を喜びながらも、失われてしまった皇という責に涙した。
 それは、ベナウィには痛烈な意味を伴う涙だった。
 かつては責を負わんとする明確な意志を持ちながら、壊れた心は全てを投げ出してしまう。負うべき責を負うことのできない――痛み。
 己の背負うべき責なら目の前にある。今更その責を負うことにためらいなどあるはずもない。後は玉座に就くだけで、全てが動き始める。そう知っていてなお、皇を名乗る決心は付かない。
 己は皇に仕える身。そう定めた己のあり方が、根底から崩れてしまう。

 ――皇に、仕える――?

「……否」

 ――いつから、己は自身をそう定めた?
93禅譲 12:02/05/06 04:29 ID:PPESTr86
「皇、ではなく」

 ――武士ならば、あの誇り高きエヴェンクルガならば、それが正しいのだろうが。

「仕えるべきは……」

 ――己は武人。故に、仕えるべきものは。

「この、國」

 己が仕えるべきものは、皇ではなく國。
 いみじくもそう口にしたのは、あの日インカラの首を刎ねた自分自身ではなかったか。
「……愚かな」
 心底から、そう呟く。
 ハクオロという偉大な皇に心酔するあまり、彼の偉業を理解するあまり――
 誰より冷静であったはずの己が、自身を見失っていたとは。
「はは……っ、これではオボロに偉そうな口もたたけませんね」
 月を映す酒杯の中身を飲み干し、頭上の月を仰ぐ。
 月の面影を追うあまり、酒杯に映った月影を必死に守ろうとしていたとは笑い種だ。
 けれど、これでもう、迷うことはない。
 大封印の彼方に消えたハクオロが戻ることがあったとしても、既に還る場所はここではない。あの男が還るべき場所はただひとつ、土と薬草の匂いのする辺境だ。
 ならば、己のすべきことは決まっている。

「――貴方の御座を譲り受けます。どうかご加護を」

 今はもう居ないかつての主に、ベナウィは最後の臣下の礼をとった。
94禅譲 13:02/05/06 04:34 ID:PPESTr86
 この翌日、ベナウィは正式に禅譲を布告し、即位の意を明らかにする。
 トゥスクル二代目國皇となったベナウィはその晩年に至るまで善政を敷き、長きにわたる繁栄の礎となった。その名は建國皇ハクオロとともに伝説として語り継がれ、人々の記憶に末永く刻まれることとなる。

 史書に曰く、トゥスクルに仮面の賢皇あり。幾多の戦乱を収めるも失跡す。武人あり、名をベナウィ。白騎に跨り槍を取らせては並ぶ者なき、一騎当千の強者にして賢士なり。禅譲にて即位し、よく諸官をまとめ政を執る。以てトゥスクル興隆の二賢と称す。