新婚さん
由起子さんが出張に行ってから一週間がたった。
もとよりチャーハンかインスタントラーメンぐらいしか作れないオレは、一週間もすると食うものに困ってくる。
さらに悪いことに、今回の由起子さんの出張は一ヶ月の長期に及ぶもので、当分の間何を食べるかということに頭を悩ませなくてはならない。
別に体育会系の部活に入ってるわけでもないので、一日に食う量などそれほどでもないし、一食二食抜いても寝ていればたいして苦にはならないが、今回はさすがに頭を使う必要がある。
しばらく目を閉じて考えた後、おもむろに電話の子機を取り上げ、一番よく知っている電話番号をプッシュした。
数回呼び出し音がなった後、電話の相手が出る。
『はい、長森です』
「緊急事態発生。シークレットレスキュー隊はただちに出動せよ」
『は? って、その声は浩平?』
「くり返す。シークレットレスキュー隊はただちに出動せよ」
『はぁっ、まったく。今からそっちに行くから、おとなしく待ってるんだよ』
どうやら通じたらしい。
長森の家からうちにくるまで、それほどたいそうな時間はかからない。
したがって、ヤツを迎え入れる準備は迅速に行う必要がある。
早速なべに水を入れ、火にかけておいて食器棚から食器を取り出し、テーブルの上にさも今食事をしてましたといわんばかりに並べる。
時計を睨みながらなべが噴いてくるのをじっと待つ。推定長森到着時間の2分前になべが噴き、すかさず火を止めた。
料理こそ無いが、今まで食事をしてましたというような雰囲気を出すことには、何とか成功したといえるだろう。
さて、家人消失の仕上げとしてオレが隠れなくてはならないが、この家で隠れられそうなところは大方隠れたので、選択肢はほとんど残っていない。
だが長森の裏をかいて、既に隠れたことのある場所に隠れるという手もある。
しかし焦れば焦るだけ、考えがまとまらなくなっていく。
落ち着け、落ち着くんだ折原浩平……!
自分に暗示をかけるように言い聞かせ、はやる気持ちを抑えてちらりと時計を見ると、もはや残された時間はなかった。さらに追い討ちをかけるように呼び鈴が鳴る。
くっ、もはやこれまでか!?
玄関の向こうでは呼び鈴に応答しないのに業を煮やしたか、ヤツの奥の手である合鍵で玄関の鍵を開けようとする音が聞こえてきた。
ええい!ままよ!!
ヤツが廊下を歩く音が聞こえる中、細心の注意をはらって音を立てないようにテーブルの下にもぐりこむと、間を置かずにヤツがダイニングに入ってくる気配が感じられた。
オレはすべての気配を絶つかのように、息を潜め、身じろぎもせずにヤツの気配をうかがう。
さしものヤツも、オレがここに潜んでいるとは気がつくまい。
「浩平、テーブルの下に隠れて、いったい何してるの?」
「ぐあ……」
いきなり見つかってしまい、オレはいささかばつの悪さを感じながらテーブルの下から這い出た。
「ちぇっ、あっさり見つけたからってなぁ、もうちょっと泳がせとこうとか思わないのかぁ? おまえは」
「はぁ、そんなことよりもこの食器はいったいどうしたの?」
テーブルの上の食器を指しながら、長森はため息をついた。
「いや、実はな、メアリー・セレスト号事件のような演出を……」
「はぁ〜」
そこまで言ったところでまたため息をつかれた。
「わたしは後片付けするから、あっちでおとなしくしててね」
「だから、演出……」
「はいはい」
う〜む、今回は大袈裟な上に十分な時間がなかったから、うまくいかなかったようだな。もうちょっと身近な感じのことから攻めないと、長森もいい反応してくれないようだし。
今回の悪戯の反省をしていると、後片付けを終えた長森がリビングに戻ってきた。
「あ、おとなしくいい子にして待ってたんだね。えらいえらい」
「子供かオレはっ」
頭を撫でようとして長森が伸ばしてきた手を払いながら言い返す。
「ちがうの?」
「真顔で返すな」
そこまでいったところでやかんの笛が甲高い音をたて、湯が沸いたことを知らせた。
「あ、お湯が沸いた。お茶入れてくるからちょっと待ってて」
オレが何かを言うまもなく、長森は再びキッチンに姿を消す。
それにしても相変わらず気のつくヤツだ。
オレが感心しながら待っていると、お盆に湯呑をふたつ乗せて戻ってきた。
って、ほんとにお茶かよ。
苦笑しながらお盆の上に目を走らせると、乗っているふたつの湯呑が見たことも無いものであることに気がついた。おまけに夫婦湯呑である。
「なぁ、うちにそんな湯呑あったっけ?」
「あ、これ? これはこないだ由起子さんが出張に行ったときに、お土産だってお茶碗と湯呑のセットでもらったんだよ」
「夫婦茶碗を?」
「うん」
「で、何でおまえがもらったお土産がうちにあるんだ?」
「だって、夫婦茶碗なんかわたしの家に置いてもしょうがないもん。あ、でもお茶碗のほうは家で使ってるよ」
「ふ〜ん」
それにしても、どこからオレんちに置くという発想がでてくるんだ?
「お茶碗のおっきい方は、浩平が使ってるでしょ」
「っておい!」
「も、もしかして、わたしと一緒じゃ嫌?」
「あ〜いや、別にそういうわけじゃないんだ、うん」
なんとなく悲しそうにするので、一応取り繕っておく。
「そうだよねぇ。わたしとおそろいの物って、いっぱいあるもんねぇ」
そうなのか?っていうか、なにがおそろいなんだろう?
聞きたくはあるが、聞くのが恐ろしい気もする。
「まずパジャマでしょー」
なにぃっ!?
指を折って数え始めた長森を制して問い詰める。
「ま、まてっ! もしかしてパジャマがおそろいとか言うんじゃないだろうなっ?」
「あれ? 知らなかったっけ?」
「初耳だっ」
「結構前だけど、お買い物に出たときに偶然由起子さんと会ってね、浩平に服を買ってあげるのに一緒に見立てて欲しいって頼まれたんだよ。そのときついでにおそろいのパジャマを買ったの」
なぜそこでおそろいにしようと思うんだ、おまえは。
「まさかそのとき買った服って、おまえとおそろいのものばっかりってことは無いだろうな?」
「それはさすがに無いよ〜」
ふぅ。ま、そりゃそうだろうな。
「だって浩平、スカートはさすがに穿かないでしょ」
「って、そういう意味かよっ!」
うぅっ、由起子さんがたまにくれる物には注意しよう……。
「ねぇ浩平」
「んん〜?」
「今日はどうしてわたしを呼んだの?」
お茶を飲みながら談笑するうちに、長森を呼んだ理由をすっかり忘れていた。
せっかく召喚したのに、このまま返しちゃったら何のために呼び出したかわからん。
「おお、すっかり忘れてたぜ」
「忘れてたって……」
なんだか途方にくれたような長森を無視して続ける。
「実はな、由起子さんが出張なんだ。しかも一ヶ月」
「え、そうだったの? でも、わたし全然聞いてないよ」
「急な出張だったしな。だいたいおまえに言う必要はないだろ?」
「何いってんの。由起子さんがいなかったら、わたしが浩平の面倒見なくちゃならないでしょ? だからいつも教えてくれるんだけど、今回は本当に急だったんだね」
「……いろいろ思うところはあるんだが、そういうわけなんで飯をつくってくれ。ちなみに冷蔵庫はいつものごとく空だ」
「はぁ。まったく、そうならそうとちゃんと言いなさいよね。だいたい”緊急事態”だけで、そんなことまでわかるわけないじゃない」
「オレとおまえの仲だし、伝わったと思ったんだがなぁ」
「そんなわけないでしょ。だいたいどんな仲なのよ」
「強敵」
「はぁ。まぁ、いいや。とりあえずお買い物行こ」
長森がそう言って立ち上がったので、オレは快く送り出そうと思い、両手を大きく振って激励してみた。
「がんばれ長森! オレの命運はおまえにかかっている!!」
「何言ってるんだよ、浩平は荷物持ち。ほら早く立って」
「な、なに? オレにおまえとならんで商店街やスーパーで買い物をしろというのか!?」
「あたりまえでしょ。だいたい誰のためにお買い物に行って、お料理まですると思ってるの? 荷物ぐらい持ってくれても罰はあたらないよ?」
確かにその通りだが、商店街でこいつと一緒に買い物してるところなんぞ見られてみろ。しかもそれが食材ときたら、最低一ヶ月はこのネタでからかわれるぞ。
「ぬぅ、なぜうちに来るときに、ついでに買い物してこなかったんだ」
「だから、そんなのわからないってば〜」
ちっ、つかえねぇ。
もっとも面と向かってそんなことを言ったら、さすがの長森も怒って帰ってしまいそうなので、ぐっと堪えて妥協案を出した。
「じゃぁ、こうしよう。おまえが献立を考えて、その材料をメモに書き出し、それをオレが見ながら買い物をする。これでどうだ?」
「う〜ん、なんか初めてのおつかいみたい。一人でちゃんとできる?」
オレは一人で買い物も出来ないダメ野郎だと思われてるのだろうか。ていうか初めてのおつかいってなんだよ。オレは幼児か?
「あとでまたお買い物に出るのも面倒だし、やっぱりわたしも一緒に行くよ」
「まてこら。何でオレがまともに買い物ができないって前提で話すんだ」
「だって浩平って、適当に妥協しちゃいそうなんだもん」
「うっ」
「ほら、お買い物行く前から適当にすましちゃおうって考えてる」
「そ、そんなことは」
「あるでしょ?」
うむぅ、ここまで読まれてるとは。こういう時は幼馴染も考え物だ。
重い荷物を持たされ、慣れない力仕事にフラフラになりつつも、ようやく帰宅することが出来た。キッチンまで荷物を運び込み、ようやく一息つく。
「あ〜重てぇ。まったく、何でこんなに買い込むかねぇ」
「何言ってるの。由起子さん一ヶ月もいないんじゃ、ある程度買っとかなくちゃ。どうせ浩平はお買い物なんてする気ないでしょ?」
確かにそうなんだが、そこまで考えてるのかこいつは。まったくもって長森侮りがたしだ。
それにしても、今日はなんだか長森にやられっぱなしな感じで、なんとうか非常に不満である。
なんとかこいつをやり込めることが出来ないだろうか。
う〜む。
冷蔵庫に頭を突っ込んでごそごそやっている、長森の揺れる尻を眺めながらしばし考えにふける。
ふむ、ここでオレがこの尻を撫でると、びっくりした長森が冷蔵庫の中で頭をぶつけるな。
しかし、そういう直接攻撃は最後の手段だし……。
よし、しょうがない。あれでいくか。
「なぁ、長森」
「ん? なに?」
オレが呼ぶと、長森は律儀にこちらに向き直った。何が楽しいのか、ニコニコしている長森の目を見ながら続ける。
「こうしてると、なんだかオレ達新婚夫婦みたいだな」
「へ?」
ふっ、さすがに面食らってやがるな。
長森は鳩が豆鉄砲食らったような顔をして呆気にとられていたが、すぐに一瞬にして耳まで真っ赤になり、必死に否定し始めた。
両手を振り回し目が渦巻きになっている長森に、もはやクラスナンバーワン美少女の面影はない。
「なな、何言ってるのキャプテン!? それはナオンの攻略しつつドラゴンボールで永遠より離脱ですよ!?」
ぺしっ
「落ち着けバカ、冗談だって」
「はっ!?」
「だいたい誰がキャプテンだ」
「え? わたしそんなこと言った?」
「……まぁいい。それより早く飯の仕度をしてくれよ」
「う、うん。わかったよ。なるべく早くするからちょっと我慢してね」
確かに効果覿面だったが、あそこまで壊れちゃうと料理できないだろうしなぁ。
まぁ腹も減ったことだし、オレのくだらない冗談で長森の邪魔をしても飯にありつけるのが遅れるだけなので、おとなしくリビングに戻ろうとしたところで呼び止められた。
「ね、ねぇ浩平。あの、ちょっとで良いから手伝ってくれない?」
妙にもじもじしながら奇天烈なことを言い始めた長森を訝しげに見て、とりあえず聞き返してみた。
「おまえはオレに邪魔をしろと言うのか?」
「ちがうよっ。もう、何でそうなるんだよ。わたしが言ってるのは、その、一緒にご飯の仕度をしようっていうかぁ、え〜と……」
だんだん声が小さくなっていくのでよく聞き取れない。
「なんだぁ? はっきりしないヤツだな。だいたい手伝いっていっても、オレにできるのはせいぜい柱の影から温かく見守るぐらいだぞ?」
「それ全然手伝いじゃないよ〜。だからぁ、その、この際だし浩平もお料理覚えたらどうかなぁ〜って、思ったんだけどぉ。ねぇ?」
長森は最近多くなった例の上目遣いで、オレの様子をうかがうように見ている。
写真を撮っておいて、長森上目遣い写真集とか作ったら売れるだろうか。
「その第一歩として、おまえの手伝いか?」
「そうそう! そうなんだよ!」
「そうか、オレはてっきり一緒に料理して、新婚気分を味わいたいのかと思ったんだが」
「ちちちちっちち」
「乳? 乳が出るのか?」
「違うよっ!!」
オレが軽いジョークで落ち着かせてやろうというのに、何で余計に興奮するかなぁ。
「はぁ、もういいよ。わたしが全部やるから、浩平はおとなしく待ってて」
長森はため息をついて再び冷蔵庫に頭を突っ込むが、さっきまでの覇気が感じられない。
どうやらオレのジョークは長森を疲弊させるだけのようだ。
せっかく長森を激励するつもりだったというのに、逆効果になってしまったことに対して遺憾の意を表明することにやぶさかではないので、ここは一つ何とかすることにしよう。
「あ〜、そこの若奥さん」
「若奥さんて誰」
う、なんか機嫌が悪い。
長森はこちらを振り返りもしないで返事をする。
「いや、そのな、腹が減って腹が減ってどうしようもないから、早く飯にありつくためにオレも手伝おうかと」
「ふ〜ん、わたし一人には任せておけないってこと?」
「そうじゃなくてだな、微力ながらもオレが手伝えばスピードが0.8倍ぐらいにはなるんじゃないかと」
「遅くなってるじゃない」
「あああ、じゃなくってプラス0.01ぐらいにはなると言いたかったんだ」
「それじゃあんまり変わらないもん。やっぱり一人でやったほうがいいよ」
うあー、怒ってるよ。
長森に限って飯に一服盛るとかいう事はないだろうし、料理がおざなりになる心配もないと思うが、しばらく出動要請に応じてくれない可能性がある。
オレの明日のために、なんとか怒りを鎮めなくては。
「えーとー」
いつもなら泉水のごとく次から次へとでまかせが出てくるのに、こういう時に限って何にも思い浮かばない。
半分途方にくれながら長森を見ると、背中が震えている。
よくわからんが、もしかしてオレが泣かしたのか?ていうか泣きたいのはこっちなんだが。
とりあえず声をかけようと顔を覗き込んでみると、いきなり長森が笑い出した。
「ぷっ、あはははははっ。浩平ってやっぱり可愛いよ〜」
「こっ、こいつ、だましたなっ!」
「うふふ、わたしなんかもっといろいろやられてるもん。たまにはお返ししなくちゃね〜」
「くっそ〜、あとでおぼえてろよっ! 倍にして返してやるからなっ」
「もう〜、何でお返しにお返しされなくちゃいけないんだよ〜」
「それが自然の摂理だ」
「はぁっ、浩平はすぐこれだもん」
やれやれ、何とかうまく収まってくれたみたいだな。一時はどうなることかと思ったぜ。
「それじゃぁ浩平、ジャガイモの皮むきってできる?」
「あ? 何の話だ?」
「もうっ、お手伝いしてくれるんでしょ?」
ジャガイモと包丁を渡されたが、無論皮むきなどやったことはない。
そのあたりは長森も承知のようで、手本を見せてくれた。
「ジャガイモはこうやって、りんごの皮ををむくように回しながらむくんだよ。あと、ジャガイモの芽には毒があるから、こうやって包丁の根元の部分でえぐって取るの」
「ほう。なかなか奥が深いな」
「そ、そうかな。それじゃやってみて」
長森の真似をしてジャガイモの皮をむこうとするが、当然そううまくはいかず、むしろ指の皮をそいでしまいそうになったり、我ながら危なっかしいことこの上ない。
そのたびに長森が慌ててオレの手を抑えたり、いちいち大騒ぎになる。
しかしやってみれば結構楽しいもんだな。
たまにはこんなのも良いかなと思いつつ、オレの手を取って楽しそうにあれこれと教えてくれる長森を見ていた。