『ハルジオン』
視界の外れにいつも映っていたのは、白くて小さな花だった。
花は、わたしの見る世界に、手を差し伸べるように揺れていた。
ただ、目をやると、いつもそれは見えなくなった。
そして忘れた頃――塾の成績が一番だったり、学級委員長として
ホームルームの司会をしているときなどに、不意に視界の隅に現れた。
時折、思い出したように、わたしは花を追った。眼球がひっくり
かえるのではないか、と思うほどに、上を見たり横を見たりしても
花は見えなかった。それでも、花を追っている間、あの場所に還る
ことが出来た。
いちめんの、のはら。
背丈の揃った深緑の草草が、一斉に、吹き抜ける風の中で波打ち、
頭を垂れ、振り返るように表を返した。巻き上がる雲が列をなして
こちらに向かってきてそのまま空の先へと飛び去っていく。ずっと
歩いていくと、樹が見えてくる。近づくとどんどん姿が大きくなり
やがて風景全体を覆い隠すように手を伸ばし、野原に陰翳を落とす。
世界を埋めるほどに大きなその樹に、「星の王子さま」のバオバブの
木を思い出す。
それは、夏のある一日。
虫取り網と籠と、水鉄砲を持って、駆けた、野原。
今やわたしは、線を引いたように真っ直ぐに延びる道を、ひとり、歩く。
そばにいたはずの男の子の手をつかもうと、手をのばすが、空を
切るばかりで、仕方なくひとりで走った。息が切れて立ち止まり、
ひとりたたずむ。そして、首をまわして、しるしを、探す。
かつて、あの子と一緒になって道端に埋めたはずの、種。
かつて、わたしが手にしていた、その花の。
くらい。暗い。
門も、壁も、空も、土も、暗かった、その日。
真っ暗な服を着た、顔のない無数の参列者の中、わたしは、その花を
持っていた。小さくて白い花の花束は、わたしの両手を覆うように
してそこにあった。
真っ暗な布のかかった真っ暗な玄関の戸が開き、
叔父さまやお兄さまが白い四角い箱を、抱えて出てきた。
お父様は、どうしても抜けられない所用があってそこにはいなかった。
生木で作られたその箱は、ぬけるように白くて、意外と大きかった。
箱がわたしの前で立ち止まると、お母さまがわたしを促し、わたしは
手に持っていた白い花を箱の上に置いた。
声をかけようと口を開いた。
しかしその前に、箱は持ち去られ、人ごみがそれを覆い隠し、黒塗りの車
に収められ、扉が閉められ、わたしは別の黒塗りの車に押し込められ、
車の列は発進した。
それ以来、花を、見ていない。
学校の勉強をしていたり、お父さまの付き添いでいろいろな催し物に
顔を出したり、周囲に笑顔を見せているとき、不意に、自分には何もすることが
ないのに気づく。
何も見えず、何も聞こえず、ただ残されているだけ。
そんなとき、わたしは、花を探した。
瞬きをしたときに見える刹那の残影を追い、踵を返したときの何かを
置いてきぼりにする感覚に、もう一度振り返ってみたりした。
しかし影は、逃げ水のように消え失せる。
手を伸ばしては、空を切り、
振り返っては、目を見開いたまま立ち尽くす。
自分で作った虹を掴もうと手をのばす子供のように、幻想を積み立てては
それが現でないことを確認するしかできなかった。
手を広げても、何も残っていない。これが誰の手だかもわからない。
この場所に存在するものも、誰のものだか、わからない。
色を映す風景も、どこのものだかわからない。
それに気づいたとき、わたしは、自らに痕をつけた。
泣くお母さまと何も言わないお父さまにも、どこかよそよそしげな
同級生のみんなにも何も感じなかった。これまでと同じように勉強をし、
塾の模試で一番をとり、お母さまに褒められ、学級委員を務めた。
あるとき、目に見えるものがいつものまま変わらないことに気づいた。
視界の隅を追い、何度も瞬きをした。
白い影はいつまでも見えなかった。
揺れていた花は消えた。もう見えなくなっていた。
それに気づいたとき、視界が滲んだ。あふれ出るものがわたしを
押し流した。肺は溺れ、細胞は浸透圧を失って溶け出した。
たった一つのものすら失った、わたしから。
どれだけ、かかっただろう。
帰る場所を失い、さすらい人のように、私はあてのない時間を
過ごしていった。相変わらず、学校の成績は優秀で、与えられた義務
もそつなくこなし、親の言うことは素直に守っていた。
ようやく戻ることのできた野原では、草はみな倒され枯れていた。
曇空の下、水たまりばかりのぬかるんだ道を、ゆっくりと歩くが、
そこにあったはずの大樹はいつまでも見つからなかった。わたしは
足が泥だらけになるのも構わず、歩き続けた。転んでも、水たまり
に顔をつけても、歩き続けた。あてもなく。
ある日。
高校の入学式、校庭で迷い出た野犬に手をかませていた不思議な
女の子と一緒に昼ご飯を食べた。わたしは、一緒に帰ろうと誘った。
これまで、そんなことはなかった。
舞は、校門で佐祐理が来るのを待っていた。
「あはは、佐祐理からお願いしたのに、待たせてしまって、ごめんなさい」
ぷるぷると舞は首を振ると、やおら後ろに回していた左手を前に差し出した。
「これ、は……?」
「犬さんのお礼、していなかったから」
彼女が手に持っていたのは、白くて小さい花だった。
長い茎の先に、黄色い中心部をかこんで、小さな花びらが並んでいる。
「……そんなに、うれしいの?」
彼女が声をかけた。
震えて動かない身体で、わたしは声も出さず、立ち尽くしていた。
泣くのはよそう。その日知り合ったばかりの子の前で、そんな姿は
見せられない。そう思っても、胸の堤防が決壊するのを抑えられない。
頭に何か触れるものがあった。
舞が、佐祐理の頭を撫でていた。
「ふぇ……」
わたしは俯いたままずっとしゃくりあげていた。下校する他の
生徒たちは、わたしたち二人を不思議そうに見ながら通り過ぎていく。
中には、今朝の騒動を知っているのか、舞を指さす者もいる。
顔をあげた。
「ありがとう……舞」
「私こそ…、ありがとう……」そこまで言うと彼女は、口篭もった。
「さゆり、だよ」
「さゆり……」
「うんっ」
「ありがとう、さゆり」
わたしは、目の前にある、白い花を受け取った。
花はわたしの手の中で小さく息づいていた。
顔をあげた。不思議そうな顔をしている舞の手をとって言った。
「ねえ、舞、もしよかったら、これから佐祐理の家に遊びにこない?」
そのときの花は、押し花にして今も大事に置いている。
そして、迷ったとき、困ったとき、すこし悲しくなったときにはいつも
プレートに挟み込んだしおり大の押し花を手にとって眺めた。
きっと舞は、花のことなんか忘れているだろう。
花を見せても、どんな名前なのか知らないだろう。
それでも構わない。わたしはずっと舞のそばにいるのだから。
わたしは忘れない。
もう、迷わない。失わない。
名前の知らない花でも、吹く風に揺られながら、強く咲く。
もし、それがわたしの中で、手折たれることなく揺れるのなら、
それは、わたしのもつ、力なのだから。
fin.