◆力、消失(1/8)◆
「だあっ!? 何してんだよっ、千鶴姉はッ! ご飯冷めちまうだろうがッ!!」
朝の食卓で梓が荒れていた。
無理もない。なぜか千鶴さんだけ、まだ居間に姿を現していないのだ。いつもならとっくに起きてきている時間なのだが…。
「耕一ッ! 千鶴姉を叩き起こしてきてくれッ!!」
「わ、分かった…」
梓の迫力に圧倒されて、俺は千鶴さんの部屋に向かうことにした。
にしても…。千鶴さんが俺を起こしに来ることはたびたびだが、千鶴さんを起こしに行くというのは初めてかも知れない。
寝起きの千鶴さんか…。どんな感じなんだろう。低血圧な雰囲気でポヤポヤっとしているのだろうか。それとも意外と目覚めが良いとか?。
とかなんとか妄想しているうちに、千鶴さんの部屋の前に着いた。ちょっと緊張する。
コンコン。ドアをノックした。…中からの返事はない。まだ眠っているのだろうか?
コンコン。再びドアをノックした。が、相変わらず返事はない。
「千鶴さん?」
呼びかけにも反応はない。
「千鶴さん、朝飯できてますよ? 梓が怒り狂ってますよ? 起きてますか?」
いささか欲張りに質問を浴びせてみたが、やはり返事はない。
ドアのノブに手をかけ、恐る恐る回してみる…。
ガチャリ。
ドアに鍵は掛かっていなかった。
(不用心だな…)
一つ屋根の下に、年頃の若い男…しかも、少なからず千鶴さんに好意を抱いている男が居候しているというのに。俺は警戒されてないんだろうか。男と見られていないとか?
…ちょっとブルーになった。
◆力、消失(2/8)◆
「入りますよ…?」
断りを入れて、ドアノブを回し切り、ドアを押し開く。千鶴さんの、甘い良い香りが廊下に溢れ出す。
その空気と入れ替わるように、俺は足を部屋の中に踏み入れた。
「おわっ!?」
俺はビックリして声を上げてしまった。
再三の呼びかけに返事がなかったから、てっきりいないものと思っていた千鶴さんがいたのだ。
ベッドの上に、シルクのパジャマのまま上半身を起こして。
「ち、千鶴さん…!?」
「…あ」
千鶴さんはうつろな目で俺に視線を向ける。心ここに在らず、といった状態だ。
「どうしたんですか? もう朝飯、できてますけど…?」
「あ、はい…。そうですね…」
しかし、一向にベッドから出ようとする雰囲気はない。
「気分が優れないとか…体の具合が悪いとか…?」
「あ、いえ…。すみません、すぐ着替えて行きますので」
「だったらいいんですけど…」
「はい。……。あの…」
「はい?」
恥ずかしそうにモジモジする千鶴さん。
「私、これから着替えますので…」
「遠慮せず着替えてください」
「…あのー、こういちさん?」
表情はにこやかだが、声が笑っていない。
「じょ、冗談です…」
すぐさま千鶴さんの部屋から退散した。
しかし…いつもの凄味というか。さっきの千鶴さんには、なんとなく迫力に欠けていたように思った。
◆力、消失(3/8)◆
「おっそーい! これだから亀姉はッ!!」
すっかり冷えてしまった鮭の切り身を口に運びながら、梓は怒鳴りつづけていた。
「梓お姉ちゃん、そんなに怒らなくても…。千鶴お姉ちゃんだってたまには寝坊するよ、ね?」
初音ちゃんが場を繕おうと言葉を挟む。
「ごめんなさい、梓…」
ようやく食卓の前に座った千鶴さんが、小さな声で謝る。
「フンッ…!」
ガツガツ、とご飯を流し込む梓。
ちなみに楓ちゃんは速攻でご飯を食べ終え、既に何杯目かのお茶を啜っていた。
それにしても、千鶴さんの様子は変だ。食卓に着いても、箸も手に取らず、俯いたまま。時折長めの溜め息を吐く有様だった。
「あん? あたしの料理にゃ毒は混ざってないぞ!?」
何か見つけては千鶴さんに突っ掛かろうとする梓。困ったような表情を浮かべる二人の妹。いくら当人の千鶴さんが無反応だとは言え、放っておくこともできなかった。
「いいから黙ってろ、梓。…やっぱり調子が悪いんじゃないですか、千鶴さん?」
俺の言葉に反応し、顔を起こす千鶴さん。
「耕一さん…」
その眼はキラキラと輝いていた。
「話…聞いてくださいますか?」
俺はこの眼に弱かった…。
「鬼の力が」
「消えた??」
千鶴さん以外全員の声が重なった。
「はい…」
すっかりしょげた感じの千鶴さん。
「昨日の夜までは何ともなかったんですけど。今朝起きたら、全くなくなっていて…」
「…そういう例って今まであったのか? 梓はどうだ?」
◆力、消失(4/8)◆
「大丈夫だよ、あたしはいつでも鬼になれるぞ。耕一にツッコミ入れるためだったらな」
一瞬、空気が重たくなったような感じがした。
「…ならなくていい。楓ちゃんは?」
「私も大丈夫です…」
「うーん…。俺もなんともない…と思う。まあここじゃ変身できないけどな」
さすがに四姉妹の前で服が全部破けてしまうような変化を披露するわけにはいかない…。
「まあ…。エルクゥの一族が地球にやってきてからもう500年とか過ぎてるわけだろ? 世代を重ねる間に鬼の力も弱まっていったんじゃないか?」
「柏木家は近親結婚で血の濃さを保ってきたはずですけど…」
「にしても、食い物や環境だって違うわけだし。地球に慣れてきたってこともあるだろうしさ」
「なるほど…」
どう繕おうとしても千鶴さんは納得してくれなさそうだった。
さっきから未練がましく、自分の右手をブンブンと振り回している…。本能だけは狩猟者のままなのだろうか。
「しっかし…千鶴姉から鬼の力がなくなったら、ただの人だよなァ」
梓の追い討ちが入る。
「ぐさっ」
「不器用だし、料理も下手だし、おっちょこちょいだし」
攻撃の手を緩めることはない。
「ぐさぐさっ」
「今持てはやされてる『鶴来屋の会長の座』だって、叔父さんの事故が元で転がり込んできたもんだからな。実力で勝ち取ったもんじゃないし」
「ぐさぐさぐさっ」
「顔はそこそこだけど、脱いだらいろんな意味でスゴイしな」
「耕一さ〜ん…」
梓の悪魔のような連続攻撃に、千鶴さんは俺に助けを求めてきた。
「ちょっと言い過ぎじゃないか、梓?」
「ヘン、これくらいでちょうどいい薬なんだよ」
…煽りは徹底放置だな。
◆力、消失(5/8)◆
「どうしたら鬼の力が戻るんでしょう…」
「うーむ…」
千鶴さんと俺は悩む。
「仮に戻る方法があったもしてもな、あたしはまっぴらゴメンだぜ」
「梓お姉ちゃん…」
「ああ…なんて姉不孝な妹なんでしょう」
そんな言葉があるかは知らないが、まあともかく真剣に悩んでる千鶴さんを放っておくのも可哀想に思えた。
しかし、思ったところで解決策なんてそう簡単に――
「そうだ」
何か思いついたらしく、千鶴さんがポンと両手を合わせた。
「楓、耕一さん。確か次郎衛門はエディフェルに血を分けてもらって、命を永らえたんでしたよね?」
「あ、ああ…」
「その時、同時に『鬼の力』も引き継いでしまった、と…」
「そうだけど…まさか、千鶴姉さん…?」
「今ここで私が手首やお腹を切って。出血で瀕死になったあとに耕一さんに血を分けてもらおうかな」
「朝の爽やかな食卓をスプラッター劇場にしないでくれ!」
梓の怒号が鳴り響く。
「やめてください、千鶴さん…。大体、血液型が合わなかったらどうするんですか…」
「鶴来屋グループ会長、家族親戚の目の前で割腹自殺、なんてシャレになってない…」
楓ちゃんはほのかにダークだった。
「いい考えだと思ったのに…」
心底残念そうだった。
「この体に耕一さんの血を入れるチャンスでもあったのに…」
(やっぱりそんなこと考えてたのかよ)
…エルクゥ同士のツッコミは無言で行なわれる。受信した側の頭が痛くなるほど、強烈に。
そしてこれは、鬼の力を失った千鶴さんの前では、実に有効なコミュニケーション手段であるようだった。
◆力、消失(6/8)◆
「でも…さっき梓が言ったことじゃないですけど…。このままじゃ、本当に私、不器用で一人じゃ何もできない、ただちょっと可愛いだけのお飾り会長に成り下がってしまいます…」
「十分厚かましい形容だと思うけどな」
梓の悪態は尽きることがない…。
「こんなんじゃ私…私…。耕一さんに…」
「ん?」
「耕一さんに、愛想尽かされてしまいますよね…」
寂しげな横顔。さすがに見ていて気の毒になってきた。ここは励ますことにしよう。
「そんなことないさ。千鶴さんは今のままで…鬼の力なんかなくったって、十分可愛らしいし、魅力的だよ」
「本当ですか!?」
千鶴さんの目がパッと輝く。
(何だよ、その勝ち誇ったような顔は…)
千鶴さんの意識を感じ取った、他の三姉妹の目に呆れの色が浮かんだ。
「あ、ああ…」
少したじろいでしまったけれど、うん、嘘じゃない。
千鶴さんはいつまでも俺の憧れの姉さんだと、胸を張って言える。
この幸せそうな顔を見ていると、本当にそう思えるんだ。
「私…頑張って生きていきます」
そのか弱い…まるで一昔前のアイドルが引退する時に述べるような口上は、ありふれた言葉ではあっても、俺たちの心に染み入ってくるのだった。
◆力、消失(7/8)◆
「うーむ…」
千鶴さんの前向きな発言を聞けて多少安心したが、俺にはあるひとつのことがずっと引っ掛かっていた。
「『鬼の力』って、普段から宿ってることを自覚してるものか? 少なくとも俺は、発動させないと確認できないんだが」
「あたしだって同じさ。さっきちょこっと気合入れてみたから、『お、ちゃんとあるな』って確認できたようなものだし」
「私もです…」
梓と楓ちゃんの二人も頭を傾げている。
「千鶴お姉ちゃん、どうして鬼の力が消えてることに気付いたの?」
初音ちゃんの質問を受けて、みんなの視線が千鶴さんに集中する。
「実は…」
恥ずかしそうに語り始める千鶴さん。
「実は?」
言葉をなぞる四人。
「今朝、起きたら壁に黒いものが…」
「黒いもの?」
「よく見たらゴキブリで…」
「ゴキブリで?」
「退治しようと思ったんです」
「…は?」
「鬼の力で、こうさくさくっと」
「…さくさく…?」
「はい」
「……」
「……」
「……」
しばらく見つめ合う一人対四人。
◆力、消失(8/8)◆
「まさかそれだけのために、鬼の力を?」
沈黙を破った俺。
「はい」
即答した千鶴さん。
…かつてこの人がツメを向けた対象である俺は、ゴキブリと同じレベルということなのだろうか。
「一応訊くと、昨日の夜には鬼の力が発動できた、ってことですよね?」
それゆえに、『鬼の力は今朝なくなった』という推論が立ったわけである。
「健康のため、寝る前のストレッチついでに」
ペロッと舌を出す千鶴さん。
「…あんたって人は」
「千鶴姉さん…」
「お姉ちゃん…」
呆れ返った妹たち。
「ええと…」
四人の視線に頬を染め、困ったようにモジモジしだす千鶴さん。
「そんなに見つめちゃイヤですぅ」
二度と千鶴さんに鬼の力が戻らないことを祈る四人であった。
(完)