最萌トーナメント支援用SSスレッド#2

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187【決別】1/10
オガリナ支援SS【決別】

 ――ピアノの音が響いていた。
 最新の音響設備を備えた部屋で、重厚なグランドピアノが音を流し続けている。
 高く歌い上げるように、低くささやくように――。
 ショパンの小品が終わってモーツァルトに切り替わるころになると、奏者は突然気まぐれに主題を変え始めた。
 ジャズ、アップテンポにアレンジされた演歌、そしてネコふんじゃったと、支離滅裂な演奏が続く。
 ピアノの上に置かれた五線紙には、音符の代わりに“∠´×`)ユズハニャーン”が丁寧な筆致で落書きされている。
 要するに、いまこの瞬間、プロデューサー緒方英二はぜんぜんやる気がなかった。

 ふと目を上げると、ドアの脇にあるランプが来客を告げている。

 鍵盤から指を離して、白髪の天才は気のない動作で椅子から立ち上がった。
 いかにもだるそうな風情で、扉の電子ロックを解除する。
 開いたドアの向こうには、隙なくスーツを着こなした長身の女性が立っていた。
「失礼します」
 小ぶりのファイルケースを抱えて一礼すると、艶のある黒髪がさらりと流れた。
「おやおや、弥生さんがここに来るなんてめずらしいね。
今日は由綺ちゃんに着いてなくていいんだっけ?」
「由綺さんは今日はオフですから……。少し、よろしいですか?」
 彼女は『あなたもそれくらいご存じのはずです』とは言わなかった。
 篠塚弥生という女性は、余計な会話で時間を無駄にすることを好まない。
<続く 1/10>
188【決別】2/10:02/03/05 02:16 ID:EWhZqeFr
 微かな香水の匂いが部屋を横切って、篠塚弥生の長身がピアノの前に立った。
 この怜悧な女性に対する評価は、好意的なものからそうでないものまで幅広く存在している。
 あらゆる無駄がそぎおとされたその動作は、プロダクション内では洗練とも無機質とも評されていた。
 ただ、彼女が『恐ろしく切れる』という一点において、大勢の意見は一致している。
「十四時の約束をしたお客さまがお見えになったそうです。よろしければこちらにお通しするそうですが」
 英二は壁の時計にちらりと目をやった。
 ――13:32。
「もうそんな時間か。ありがと」
 やはりどこかなげやりな返事をして、両手の人差し指だけで黒鍵を順番に押していく。
 気の抜けたような和音が、厚い防音壁に当たって跳ね返ってきた。
「……伝言は以上です。それから別件ですが、この書類の決裁をお願いします」
「あ〜、この件は任せるよ。いいから適当にやっといて」
 書類をつまみ上げて、英二はひらひらと手を振った。
「はい。では、お仕事中失礼しました」
 五線紙の“∠´×`)ユズハニャーン”に気付いたとしても、彼女がそのことに触れることはない。
 必要なことのみを簡潔極まる口調で言うと、弥生はきびすを返した。
 ――その背中に、道化るような英二の声が掛かる。
「弥生さんは……今日の来客のこと、気にならない?」
 均整の取れた弥生の長身が、直線的な動作で振り返った。
 温度のない視線で英二を一瞥してから、彼女は微かな笑みを浮かべる。
「気になりますね。私と由綺さんの今後にも関わりますから……」
「でも、別に心配することでもないんじゃないかなあ。由綺ちゃんの人気って今すごいんだし」
 まるで他人事のように、森川由綺のプロデューサーはそう言ってのけた。
「頂点に立つよりも、それを維持することの方が何倍も困難ですわ」
 ごく微量だけ、弥生の声には得意げな響きが混じっている。
 何気なく煙草をくわえて――英二は部屋に灰皿がないことを思い出した。
「ふむ、弥生さんは謙虚だな」
「悲観的な予想は当たらなくても困りません。ですが、楽観的な予想は外れると致命傷になります」
「なるほどね」英二はくしゃくしゃになった紙箱に煙草を突っ込んだ。
<続く 2/10>
189【決別】3/10:02/03/05 02:17 ID:EWhZqeFr
 ちょうど二年前――。
 人気の絶頂で引退した緒方理奈の後を引き継いだのは、当時着実に実力を伸ばしていた森川由綺だった。
 もちろん、雑多な市場の動きを読んで、気まぐれな流行の波を注意深く乗り切る必要はあった。
 だが、結果として、新たなトップアイドルはさしたる困難もなく頂点に登りつめたと評されている。

「ああ、そうだ。弥生さん……」
 不意に、英二が軽薄な表情を消した。
 目もとの道化た光が消えると、この男は急に鋭角的な雰囲気を帯びるようになる。
 先ほどまでとはうってかわって、張りつめたような空気が流れた。
「なんでしょう?」
 弥生の表情に変化はない。
「給湯室の娘に、出すのは一番安いお茶でいいって言っといて」
 へらへらと――音が聞こえてきそうな落差で、英二の顔がもとに戻った。
 弥生の表情には、やはり変化はない。
「コーヒーをお出しするようアドバイスしておきましたが……変更しますか?」
「……いや、いいんじゃない?」
 弥生の様子を見て、白髪のプロデューサーは脱力したように笑った。
「では、失礼いたします」
 今度こそ、弥生は振り返ることなく部屋を退出した。
 素っ気ない残り香のなかに、白髪の男が毒気を抜かれたような顔でとり残される。
(ぜんぜん笑わないでやんの)
 まばらに無精ひげの生えたあごを撫でて、英二は軽く苦笑を漏らした。

 完全防音を施された扉は、閉じる時も音を立てなかった。
 弥生自身の足音を除いて、廊下には物音ひとつない。
(さすがの緒方さんも、今日は平静ではいられないようですね)
 エレベーターの前まで来ると、篠塚弥生は言葉には出さずにひとりごちた。
 ――彼も自分も、心に狂おしいほど柔らかい部分を隠している。
 そして、それを他人にさらけ出すには心の壁が高すぎた。
<続く 3/10>
190【決別】4/10:02/03/05 02:18 ID:EWhZqeFr
 ――14:02。
 その部屋には二つのドアがあった。
 一つはさっき理奈が入ってきた廊下に通じる扉。
 もう一つは、ガラスで仕切られた音響設備のコントロールルームへの扉だ。
 来客を想定した部屋ではないらしく、部屋の隅にソファーとテーブルが申しわけ程度に置かれている。
 目の前で、運ばれたコーヒーがゆっくりと冷めつつあった。

「しかし、理奈も元気そうで何よりだな。会ってみるとやっぱり久しぶりだ」
「兄さんもね。ポストカードは三回に一回しか返事が来ないけど……」
 口が動くほどには、心はしゃべっていなかった。
 ミルクも入れないままどんどん不味くなっていくコーヒーを横目に、理奈は次の言葉を探していた。
 外の音がまるで入ってこない部屋で、間を持たせるだけの雑談がしばらく流れていく。
「――だから、兄さんの食生活なんて破綻寸前じゃないか、なんて……」
「理奈、お前は茶飲み話をしにきたわけじゃないだろう?」
 どう切り出そうか迷っている間に、理奈の世間話はすっぱりと断ち切られた。
 ――やっぱり、駆け引きでは兄さんには敵わない。
「……そうね。でも、少し話をしたかったのはホントよ」
「本題が終わってからでも話はできるぜ?」
 ことさらに冷たくはないが、一片の甘さも存在しない。
 英二の話し方は的確で遊びがなかった。
 もう、真剣に話を聞く準備ができているということだ。
「わかったわ」
 理奈は静かに背筋を伸ばした。
「来る前にも伝えた通りよ。私は――もう一度この世界で歌いたいと思ってる」
 決意を込めた言葉が、防音壁に吸い込まれて消えていった。
<続く 4/10>
191【決別】5/10:02/03/05 02:19 ID:EWhZqeFr
 英二はすぐには答えなかった。
 値踏みするように妹を観察しながら、片眉をわずかに上げて考えに耽っている。
「私は、音楽が好き」
 最初の言葉の余韻が消える頃を見計らって、理奈は言葉を続けた。
「兄さんと二人三脚でやってたころ……本当に楽しかったわ。
私と兄さんは、簡単に同じイメージを共有することができたわよね。
それに、呼吸するみたいに自然に、私は兄さんのイメージを歌に乗せることができた」
 目を細めて、理奈は過ぎ去った時を爪弾いた。
 押し黙っていた英二がようやく口を開く。
「あの日々よ、もう一度ってわけか? ハハ、話題性は充分だな」
 英二の乾いた笑い声が室内に響いた。

 今や名実ともに頂点に立ったトップアイドル“森川由綺”に理奈をぶつける。
 英二はディテールまで鮮明に、そのシナリオの青写真を描くことができた。
 おそらく一年以内に、日本の音楽市場には二つの頂点が生まれるだろう。
 二つの頂点は互いに競い合い、単音では決して望めない協奏曲を生み出すことになる。
 だが――。
<続く 5/10>
192【決別】6/10:02/03/05 02:19 ID:EWhZqeFr
「理奈……ここは子供の遊び場じゃないんだぜ?」
 コーヒーカップを下ろしかけていた理奈の手が、一瞬だけ空中で停まった。
 “兄”の目でも、“私のプロデューサー”の目でもない。
 薄氷を踏む音楽業界で成功をもぎ取ってきた“天才”が、射るような視線を向けてくる。
「ええ、解ってるつもりよ」
 わずかな金属音を立てて、ソーサーの上にカップが置かれた。
「俺がどういう意味で言ってるか、本当に解ってるのか?
お前は一度すべてを捨てて……普通の生活を選んだはずだ。そのことが悪いとは言わない。
だが、二年のブランクがある。もう一度使い物になるって保証はどこにもない。
由綺だって、他の人間だって、覚悟を決めてこの世界に居るんだ。
途中下車したお前が、その連中に混ざって使い物になるのか?」
 英二の言葉には容赦がなかった。
 しかし、妥協しないからこそ、その作品は多くの人間に影響力を持ち続けている。
 理奈は兄の苛烈な眼光を正面から受け止めた。
「――違うわ。私はあの頃に戻りたいわけじゃない。
ミュージシャンとしての緒方英二をパートナーにしたいの。私の音楽のために」
「ほう……」
 虚を突かれたように、英二は椅子に座りなおした。
 軽くあごを上げて、先を促すように妹の顔を見つめる。
「私――緒方理奈が力不足だと思ったら遠慮することないわ。プロとして切り捨てればいい」
 挑戦的なまなざしが、まっすぐに英二を捉えた。
 アイドルとして絶頂と言われた二年前よりも、その瞳の光はなお力強く映る。
「私は、私の音楽を創るつもり。そのためにパートナーが欲しいの。
兄さんの音楽を歌うんじゃなくて、私の歌を歌いたいから」
 兄妹が同じ夢を見て、寸分違わない音楽を追っていたころにはもう戻れない。
 音楽が好きで、お互いのことが好きでも、二人の道はずっと前に分かれてしまっている。
 だから、この申し出は理奈からの別れの言葉だった。
 理奈にとって緒方英二の才能は魅力的だが、逆に言えば“そうでなければならない”理由もなくなっている。
<続く 6/10>
193【決別】7/10:02/03/05 02:20 ID:EWhZqeFr
 長い、長い沈黙があった。
 二年の歳月はあまりに長すぎて、埋める言葉が見つからない。
「わかった。俺は緒方理奈の才能に投資しよう。試験的に……だけどな」
 重かった肩の荷を下ろしたような、何か大切な物を手放すような、そんな口調だった。
 何気なくまた煙草をくわえて――英二は部屋に灰皿がないことをもう一度思い出した。
 自嘲気味に口から引き抜いて、くしゃくしゃになった紙箱ごとダストボックスに放り込む。
「だが、こっちも由綺の方で忙しいんだ。しばらく待ってもらうぞ」
「それは構わないわ。具体的な話は先でいいから」
 理奈は、一歩離れた位置で、二人の距離が噛み合ったのを感じていた。
 きっと、この立ち位置が新しい関係の始まりになる。
「歌手としてのお前はともかく、そこから踏み込んだときにどうなるかはやってみないとわからん。
良いモノが作れないと思ったら、冗談じゃなく関係解消もありうるからな」
「それはこっちもそうよ」
 理奈は少しだけ笑った。
「じゃあ、握手しましょ」
「……ん? なんで?」
「お互いにいい仕事ができるようによ。普通のシェイクハンズ。日本が長くて忘れちゃった?」
 同じ仕事をするための友好の印――。
 そして、お互いが違う音楽を創るための決別の証し――。
 顔では笑いながら、兄妹はしっかり組んだ手を二回振って、そして離した。
<続く 7/10>
194【決別】8/10:02/03/05 02:21 ID:EWhZqeFr
「青年は元気にしてるか?」
 別れ際の最後の瞬間に、何気ない口調で英二が尋ねた。
 行き場に困ったような視線が、壁掛け時計の秒針をいたずらに追っている。
 目に見えないほどわずかに、理奈の体が緊張した。
「ええ、とっても……元気よ」
「そうか」
 理奈自身にも、なぜだか解らない。
 ふと思いついて、気が付いたら口に出していた。
「今度、会ってみる?」
 言ってしまってから、自分でも驚いたようにうつむく。
 二人とも、見つからない言葉をもどかしく探していた。
「そうだな。彼は……面白いからな」
 言葉が見つからない。
 絶対に泣かないと決心して来ていたのに、理奈は最後の最後で涙腺に裏切られそうになっていた。
 何かを伝えようとすると、言葉はするすると頭から逃げ出してしまう。
<続く 8/10>
195【決別】9/10:02/03/05 02:22 ID:EWhZqeFr
 さまよった視線の先で、部屋の中心にある大きな物体が理奈の目に留まった。
 考えるより早く、体の方が動いている。

『ちょうどいいわ、兄さん。私にブランクがあるかどうか見せて上げる』

 理奈の白い指が示した先には、数枚の五線紙が乱雑に載せられた黒いグランドピアノがある。
 いぶかるような兄の袖を引いて、理奈はピアノの前に立った。
 英二をピアノの前に座らせてから、自分はその脇で呼吸を整える。
 物心が付いてから、兄妹二人で何千回と繰り返してきた動作だった。
「ん……今から歌うのか? 曲はどうするんだ?」
「兄さんに任せるわ。私に対するテストだと思ってくれて構わないから」
 決して弱みを見せたくない理奈には、これしか思いつかなかった。
 曲が流れている間は、視線だけで会話が成り立つ。
 そうしている間に、心と言葉の整理をつけるつもりだった。

 ――この『テスト』が終わる頃には、またこの人と対等に話せるようになるだろう。
 ――もう兄さんに頼らなくても歩いていける。
 ――それを見せなきゃいけない。

「私ね、休業中も歌はやめてなかったの。でなきゃ、あんな偉そうなこと言えないし」
 わざと快活な声を出して、理奈は曲の出だしに意識を集中させる。
 そして、曲が始まった。
 兄の指が鍵盤の上を動いて、子供のころから飽きるほど聴いた旋律が流れ出す。

 ――理奈の涙腺は、最初の四小節の間も持たなかった。
<続く 9/10>
196【決別】10/10:02/03/05 02:23 ID:EWhZqeFr
 ――15:54。
 白っぽく冷えた冬の陽射しでも、ないよりはずっとマシだった。
 コートの襟をかき合わせて、藤井冬弥は白い息を吐く。
 理奈が『ひとりで大丈夫』と言ったから、冬弥は何時間でもここで待つつもりでいた。
 彼の恋人の言葉は、額面通りに取っていいときと、そうでないときがある。
 そしてたぶん、今日は後者の典型のはずだった。
 今日みたいなときに側にいられないようなら、理奈の恋人なんてシロモノには何の存在価値もなくなってしまう。

 建物から出てきた恋人の笑顔を見て、冬弥は自分の選択が正しかったことを知った。
 笑顔のまま冬弥の胸にコツンと頭を当てて、理奈はしばらく動こうとしなかった。
 しばらくして、胸につかえていた言葉が、ぽつりぽつりと唇からこぼれ出す。

「いま、私ね……私、兄さんとお別れしてきた」
 吹っ切ったはずの想いが、後から後から、湧き出すように頬を伝う。
「ちゃんと言えたし、これからも仕事は一緒にって……でも、私、兄さんに……」
 声を殺して嗚咽を漏らしている。
 この兄妹が積み重ねてきたものについても、これから築こうとしているものについても、冬弥は半分しか関わることができない。
 だとすれば、震えている小さな背中に回した手こそが、そのまま藤井冬弥の存在価値だった。
「冬弥君の手……冷たくなってる」
 冷え切った冬弥の手の上から、理奈の手が柔らかく包み込んだ。
「……待たせちゃってごめんね。でも、ひとりで大丈夫って、言ったのにな」
 冬弥の手を取って、愛おしげに頬に当てる。
 しばらくの間、二人は何も話そうとしなかった。
「帰ろう、冬弥君。帰ったら、あったかいもの淹れて上げる」
 うつむいたまま涙の跡を拭うと、理奈はもう泣いていなかった。
 胸に着けられた頭がそっと持ち上がって――。
 ふたつの唇がゆっくりと重なった。

『私、歌いたい。冬弥君と自分のために歌いたいの』
<FIN 10/10>