最萌トーナメント支援用SSスレッド#2

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16琉一
 英二が手を振ると同時に、伴奏が流れ始めた。
 その瞬間、理奈は呼吸を沈め、背筋を伸ばし、スタート位置でポーズを決めていた。
 音楽に合わせ、伸びやかな姿態が躍動し、空に舞い、地を滑る。
 顔はあくまでもさわやかな笑顔。
 ただ飛び散る汗だけが、疲労の証として残っていた。
 ――どうして私はこんなことをしているんだろう。
 肉体がダンスに熱中し、本能レベルで動き始めると、空白を得た知性が、不意にそんな問いを投げてくる。
 ――疲れ切って、ふらふらで、なのに顔だけは笑顔を作って、兄さんの言うままに体を動かしている。
 アップテンポになってくるリズムに応じ、肉体が俊敏に、空を切り裂くように鋭く舞う。
 ――体が熱い。息が苦しい。肉体が全部、バラバラになりそう。
 それでも理奈の体は、何万回と繰り返してきたステップを正確に刻む。
 ――誰もが頑張ってると言ってくれる。たまに兄さんも誉めてくれる。でも、それだけ?
 音楽が盛り上がる。速く、激しく、優雅なダンスがホールに刻まれる。
 そのダンスを何度となく見てきたスタッフ達でさえ、誰もがその動きに目を奪われる。
 ただ一人、ガラス越しにチェックする緒方英二をのぞいて。
 ――それだけのために、私はこんなに苦しい思いをしてるの?
 ラストターン。力強く床を蹴り、両手を振って、肉体を躍動させる。 
 美しい円を描き、その慣性をぴたりと打ち消し、右手を胸に、上体を前に倒し、左手を高く持ち上げ、最後のポーズを決めた。
 同時に音楽が消える。
 今までの動きが嘘のような静かな、それでいて柔らかさを失わない、緒方理奈という名の芸術。
 感嘆のため息さえ、洩らすことをはばかられる静寂。
「OKだ。休憩する」
 英二の声で呪縛が解かれ、ようやく感動の声と小さな拍手とが、理奈に降り注いだ。
17琉一:02/02/28 16:38 ID:VaG56HaJ
「ふぁ……」
 体操服姿でグラウンドの片隅に座り込み、小さなあくびをする理奈。
 いつもははつらつとした瞳だが、今日はどことなくぼーっとしている。
 涙目を眠そうに擦る理奈は、ネコのようで微笑ましい。
 その様子を見て、隣に座っていた早紀がくすくす笑う。
「どうしたの、眠そうだね?」
「うん……昨日、レッスンが遅くまであって。今日、球技大会で良かったわ……」
「出番が来るまで、休んでいてもいいもんね。試合が始まるとき起こしてあげるから、寝ていたら?」
 グラウンドでは、2年対3年のソフトボールの試合が行われていた。
 理奈の出番は次の試合だが、始まるまで20分はかかるだろう。
「うん……そうしようかな」
 立てていた膝を抱え直し、その上に頭を乗せる。
 瞳を閉じ、睡魔に身を任せようとしたその時、高い金属音が響いた。
「な、なに!?」
「あー……」
 早紀は惚けたように、上空を見上げている。
 その視線を追っていくと、青い空にぽつんと浮かぶ、白球が見えた。
 それはどんどん遠ざかっていき……学校の敷地の、はるか外にまで飛んでいった。
「うわ……場外ホームランだぁ……」
「すごいわね……」
 理奈がグラウンドを見ると、長い黒髪の二年生が得意げにベースを回っていた。
 ホームを踏み、次打者にハイタッチをして、ベンチのみんなから手荒い祝福を受ける。
「あぁ、来栖川先輩だぁ」
「来栖川?」
「うん。知らない? 来栖川綾香さん。ほら、あの来栖川財閥のお嬢様なんだって。
 でもね、お金持ちってだけじゃなくて、才色兼備、容姿端麗、それと……えーとなんだっけ。
 去年始まった、格闘技大会。いろんな人が集まるの。えーとぉ……」
 早紀が首を傾げている間に、理奈はその名前を思い出す。
18琉一:02/02/28 16:39 ID:VaG56HaJ
「エクストリーム?」
「それそれ! そのエクストリームで優勝したんだって!」
 さすがにそれには虚を突かれた。
 確かにしなやかな肉体を持っているし、今のホームランから見ても、運動神経はいいのだろう。
 だけど格闘大会の優勝者とは……しかし言われてみれば、彼女にふさわしいように思える。
「……へぇ。天は二物を与えずって言うのにね」
「なに言ってるのぉ! そんなこと言ったら理奈だってそうだよ。美人だし、歌もダンスもできるんでしょ? 
 それで将来はアイドルの道に……。二物三物与えられまくりだよ!」
「そんなことないわよ」
 理奈は苦笑しつつ、綾香に視線を戻す。
 しげしげと眺めると、確かに美人だ。それに、なんというのだろう。独得のオーラのようなものを発している。
 ただ立っているだけで、誰もが振り向くような存在感……。そう。まるでアイドルのように。
 ふと、綾香が視線を上げた。
 それは真っ直ぐに理奈のそれとぶつかり、驚いた理奈に、にこと微笑む。
「あ……」
 理奈への笑顔は一瞬で終わり、綾香はチームメイト達の輪に溶け込む。
「どうしたの?」
「え……ううん。なんでもない」
 だけど彼女の強い瞳と笑顔が気になって、結局理奈は眠ることができなかった。
 綾香はその後、ホームランを2本、ヒットを4本打ち、チームを優勝に導いた。
19琉一:02/02/28 16:39 ID:VaG56HaJ
 それから数日後の昼休み。
 理奈はお気に入りの中庭のベンチに座って、短い休憩を楽しんでいた。
 正直体はきつい。だが、学校を休むことの多い理奈は、授業は極力真面目に受けたい。
 昼休みはごく短い、理奈がのんびりできる時間だった。
「ん……」
 理奈は大きく伸びをした。
 今日はいい天気だ。青い空から抜けてくる光が、木々を透かして、木漏れ日を理奈の上に落とす。
 まだらに染められた理奈は、程良く押さえられた眩しさで、目を楽しませる。
 と、木の上で何かが動いた。
「え?」
「あら?」
 ふと、目があった。何日か前にもこんな場面があった。
「こんにちわ」
 木の上の女性――綾香が手を振った。あの時と同じ、いたずらっぽい瞳で理奈を見ながら。
「あ……どうも」
 つられて理奈も手を振ると、綾香はひょいと木の上から飛び降りる。
 3メートルほどの高さに怯えることもなく、軽々とした身のこなしで。
 膝で上手く体重を殺し、スカートだけはきっちり押さえて着地。
「また会ったわね」
「え……覚えているんですか?」
「そうね。あなた、なんだか印象的だったし。ここ、いいわよね?」
 綾香は理奈の返事を待たず、隣に座る。
「私は来栖川綾香。あなたは?」
「緒方理奈です」
「理奈ちゃん、か。ん……緒方理奈? 緒方……って、あの、緒方英二の妹だっていう、あの子?」
「は、はい」
20琉一:02/02/28 16:39 ID:VaG56HaJ
「ふぅん……意外と身近に有名人っているもんね。まぁ、私も人のことは言えないけど。
 よろしくね、理奈ちゃん」
 綾香がウインクする。
「あ、はい。よろしくお願いします」
 何故だか照れて、慌てる理奈を、おかしそうに綾香は眺める。
 なんだか妙な感じだった。
 基本的に理奈は自分のペースで動く人間だが、綾香は強い存在感で、理奈を自分のペースに引きずり込んでゆく。
 そんなことをできるのは、兄くらいかと思っていたのに。
 落ち着かないまま、理奈は初めて綾香のことを聞いたときから、漠然と感じていた疑問を、考えもなく口にした。
「あの……エクストリームって、楽しいですか?」
 唐突な質問に、綾香は面食らったようだった。
 だが、真剣な理奈の瞳を見て、姉が妹を見るような、淡い微笑みを返す。
 そして静かに語り始めた。
「そうね……。一言で言うなら、もちろん楽しいわ。
 自分が強くなること、強くなった自分で勝ち抜くこと。それは快感であるとさえ言えるわ。
 勝負前の、胸を高鳴らせる高揚感。リングに立ったときの、震えるような緊張感。
 あのステージでこそ、本当の私が出せる。
 ……来栖川家のお嬢様としてではなく。一人の格闘家、来栖川綾香として」
「来栖川綾香として……」
「そうよ。私は私として立つために、あの場所で戦っている」
 それは来栖川という看板をもって生まれた綾香の、ささやかな解放願望だったのかも知れない。
 その立場には、天才と言われる兄の看板を背負う理奈も共感できる。
 この人になら、今まで誰にも聞けなかったこと、話せなかったことを言える気がした。
 理奈は質問を続ける。
「……勝つための、練習とか、修行とか、辛くないですか?」
21琉一:02/02/28 16:39 ID:VaG56HaJ
『修行』という言葉に、綾香は軽く苦笑いするが、
「辛くないわ」
 答えはきっぱりとしている。
「それはもちろん、肉体を酷使するものだから、苦しいときもあるわ。痛い思いもする。
 自分は何やっているんだろうって思ったこともあったわ。でもね……やめられないのよ」
「どうしてですか?」
「どうしてだと思う?」
 理奈の質問に質問を返す。
 理奈は少しだけ悩んで……素直に心に昇った答えを言った。
「好きだから……ですか?」
「ええ」
 綾香は笑った。
 なんの迷いもなく、本当に楽しいと心から思っている、澄んだ笑み。
 その笑顔は理奈にはとてもまぶしく、素敵に映った。
 だから、逃げるように目を逸らした。なのに後を追うように、綾香が顔を覗き込んでくる。
「あなたはどうなの?」
「え?」
「私はあなたを知らないけれど……そういう質問をしてくるってことは、何か迷っているってことじゃないの?
 お姉さんに話してみなさい」
 綾香はお姉さんぶって胸を叩く。そのしぐさに、思わず笑みが漏れた。
 そして、心の内を話し始める。
「私……その、今アイドルになるレッスンをしているんですけど……」
 うんうんと綾香は頷く。
「分からないんですよね、自分が本当にやりたいことって。学校も楽しいし、友達と遊ぶのも楽しい。
 だけど歌を歌うことも、ううん、レッスンだって、きついけれどやっぱり楽しいんです。
 自分が少しずつ上手くなっていくのが分かる。今までできなかったことができていく。それが楽しいんです」
「なら、あなたの心はそれを求めているんじゃないかしら?」
22琉一:02/02/28 16:40 ID:VaG56HaJ
「……やっぱり、そうでしょうか?」
「私は知らないわ」
 不意に綾香は突き放すように言う。
「あなたが何を感じ、何を求めているのか、決めるのはあなた自身よ。
 ただね、一つだけ言えることは……」
 綾香は理奈から視線を外し、遠くを見つめる。
「他人に決められたことで後悔するのは、ひどくいやなものよ」
 その横顔は空ではなく、どこか遠い、そしてずっと昔の何かを見つめているようだった。
 ――他人に決められたこと。
 ――兄さんの敷いたレール。今のままそこを歩いていけば、私は高い確率で、アイドルになれる。
 ――でもそれは、私が望んだこと? 兄さんが望んだこと?
 ――私は一体、何になりたいのだろう?
 理奈の迷いをよそに、綾香は強く語り続ける。
「私は自分の足で歩けるようになった。だから自分の道を歩く。
 たとえそれで傷つこうが、死ぬほど苦労しようが、後悔はしない。
 ただね、これはあくまで私の意見。あなたの道は、自分の心の一番奥に、聞いてみなさい」
 綾香は立ち上がり、理奈の肩に手を置いた。
 軽く置かれただけなのに、なぜかひどく重く、力強く感じる。
「そして、その覚悟があなたにあるなら……歩き出しなさい」
 綾香は手を離し、歩き出した。同時にチャイムが鳴る。
 理奈はしばらくそのチャイムを、別の世界の出来事のように聞き流し……慌てて駆けだしていった。
23琉一:02/02/28 16:40 ID:VaG56HaJ
 その日の練習は一時間で終わった。
 集中できず、小さなミスを何度も繰り返した。体もスムーズに動かず、ステップも決まらない。
 英二は「もういい。今日は終わりだ。お疲れ」とだけ言って、さっさと立ち上がった。
「に、兄さん!」
 英二は珍しく、理奈に笑顔を見せて、
「理奈も疲れているんだろ。たまにはいいさ。休め」
 そう言ってくれたが、理奈は逆に、兄に見捨てられたような気がした。
 立ちつくす理奈に、スタッフの一人が慰めるように声をかける。
「英二さんもああいっているしさ。今日は休みにしよう」
「でも……」
「理奈ちゃんだって、疲れもたまるし、調子が悪いときもある。休むことも大事だよ」
「……はい」
 納得できないが、プロデューサーであり、振り付けも担当している英二がいなくては、レッスンも何もない。
 他のスタッフの薦めもあって、休むことにしたはいいが、正直、時間を持て余す。
 目的もなく、ぶらぶらと街を歩いた。
 ――もしも、これでやめてしまったら。
 そんな考えが浮かぶ。時間の上手な潰し方さえ知らない自分が、
 もう好きにしていいと解放されたら、自分はこの長い時間を、どう過ごすのだろう。
 ショーウインドゥをのぞいたりしてみるが、どうにも気は晴れない。すると、
「あれ、理奈?」
「あ……早紀」
「どうしたの? 今日はレッスンじゃなかったっけ?」
「うん……」
「ちょ、ちょっと理奈。目がうつろだよぉ……」
 ぴらぴらと目の前で手を振ってみる。
「もう……平気だって」
 弱々しく微笑む理奈を、これは重症と感じた早紀は、いつもらしからぬ強引さで、ファミレスに連れ込んだ。
24琉一:02/02/28 16:40 ID:VaG56HaJ
「ほら、これ! 新作の謎じゃむサンデー! 
 おいしいんだかよくわからないんだけど、なんだかハイになって、すごいクセになるから!
 理奈もこれでいいよね? お姉さーん! 謎じゃむサンデー二つ!」
「ちょ、ちょっと、私それでいいなんて……」
 謎じゃむ……その名前だけでも十分得体が知れないのに、おいしいかどうかよく分からないが、
クセになるしハイになる、というのはとてつもなくやばい香りがする。
 だが理奈にかまわず、食べる前からハイになっている早紀は、さっさと注文をすませてしまった。
「いいのいいの。今日は私がおごったげるから。理奈と一緒に遊べるなんて、めったにないもんねっ」
 そういう問題でもないのだが……だけど早紀の屈託のない笑顔に、ずいぶん救われた。
「もう……かなわないな。でも、ありがとう」
「きにしない、きにしない。友達ってこういうもんだよ」
「友達、かぁ……」
 一緒のクラスだけど、理奈は学校を休みがちなので、めったに遊んだこともない。
 そんな理奈を友達といってくれる早紀の優しさが嬉しかった。
「それで、どうしたの? 何か辛いことでもあった?」
 やってきた謎じゃむサンデーをパク付きながら、早紀が問う。
「辛い、ってわけじゃないんだけど……」
「嫌味な先輩に、トゥシューズに画鋲を入れられたりとか……」
「今時そんなことする人いないわよ。それに、私まだデビュー前よ」
「わからないよー。ほら、芸能界はシビアな世界だから。今のうちに理奈を潰しておこうという陰謀かも……」
「どっちにしろ、そんなんじゃないって。ただね……」
 理奈はぽつぽつと、自分の迷いを語り始めた。
 内容はほとんど綾香に話したことと同じだったけど、その時より心は揺れていた。
 早紀は何も言わず、時折頷くだけで、黙って話を聞いてくれた。
25琉一:02/02/28 16:40 ID:VaG56HaJ
「で、今日は集中できず、兄さんは呆れて帰っちゃった。……やっぱり私、むいてないのかな?」
「ええぇっ!? そんなことないよっ!」
 謎じゃむが回ってきたのか、早紀は素っ頓狂な大声を出し、店の注目を浴びる。
「あ……、コホン。えっとね。理奈、むいていないなんて嘘だよ」
「でも……」
「だって理奈、美人でしょ、歌上手いでしょ、声も綺麗。もう、こいつ絞め殺してやろうかってくらい」
 冗談めかして早紀が笑う。
「それにお兄さんがあの緒方英二でしょ。バックアップも完璧。私もあんなお兄さんが捕しぃ……」
 ――いや、あんな兄で良かったら、のしつけてあげるけど。
 とまで言うのはさすがに兄に悪いか。理奈は言葉を飲み込む。
「でもそれは、私の努力の結果じゃないもの。
 私、自分が本当に歌が好きなのか、アイドルになりたいのか、そういうのが、わからなくなっちゃって……」
「なんで? 理奈、歌好きだよ」
 目を丸くして、早紀があっさりと断言する。
「ほら、一学期の音楽でさ、理奈が歌ったときみんな唖然としたじゃない。
 コーラスなのに、一人だけ次元の違う声が、はっきり聞こえるの。
 それでみんな、歌うのやめちゃって聞き惚れていた。
 なのに理奈、そんなことには気づかないで、伴奏も止まっているのに最後まで歌って……
『あれ?』って顔して、その後すごい拍手が起こって」
「あ……あったわね、そんなことも」
 理奈は照れくさげに目を逸らすが、早紀は熱心に語り続ける。
26琉一:02/02/28 16:41 ID:VaG56HaJ
「まるでスポットライトが当たっているみたいだった。
 私たちは、木とか岩とかそんな役で、理奈だけ王子様。
 後でアイドルを目指しているって聞いて、みんな納得したもの。
 好きじゃなかったら、あんなに没頭して歌えない。
 それに、あの時の理奈、本当に楽しそうで、幸せそうで……。『この人、本当に歌が好きなんだ』って、思ったもの。
 理奈が歌が好きじゃないなんて、そんなのあるわけないよ」
 歌が好き。
 そう、自分の原点はそこにあったはずだ。
 小さい頃から、兄の弾くピアノに合わせて歌うのが好きだった。
 まるで宝石のつまった箱のように、キラキラと輝くメロディーが、兄のピアノから流れ出す。
 自分はそれを聴いて育ち、一緒に歌うことで、ここまで来た。
 ただ、それを仕事にする以上、『好き』だけでは許されない。
 その余剰部分から、迷いは生じていた。好き。楽しい。辛い。幸せ。苦しい。疲れた。
 色々なものが混じり合う。だけどその奥で、一番強く心に訴えるものは、
『歌が好き』という想いだった。
「そっか……私、歌が好きだったんだ……」
「そうだよ!」
 早紀が我が事のように断言する。
 好きだからと言う、一番シンプルな理由。
 いろいろなものが絡まり合ったせいで、一番大切なことを忘れていた。
 なぜ、自分は歌っているのか。考える必要もないことだった。
「うん……そうだね。私、好きなんだ……。歌うことが好きで、一生そうして生きていければいいと思っていた。だから……だから頑張れるんだ」
「うんうん。だから理奈、やめちゃダメ。もったいない。後で絶対後悔するよ」
『他人に決められたことで後悔するのはひどくいやなものよ』
 綾香はそう言っていた。
 彼女は決められたレールから逃れ、自分の道を歩きだした。
 今理奈が歩いている道は、他人に敷かれたレールかも知れない。
 だけどそこを歩いているのは理奈自身で、やめようと思えば、いつでもやめられたはずだ。
 ――私は、この道を歩きたいと思ったんだ……。
27琉一:02/02/28 16:41 ID:VaG56HaJ
「うん。私……頑張る。好きだもんね。やめられないもんね」
「そうそう。だいたい理奈から歌を取ったら、ちょっとかわいい子で終わっちゃう」
「うわ、ひっどい。まぁ……確かに、放課後を女の子と二人、パフェをつつくような貧しい青春だけど……」
「ああ、そうそう! 理奈、謎じゃむサンデー溶けちゃう! 早く食べなよ」
 頂点に立ったソフトクリームが崩れて、器からはみ出そうになっている。
 理奈は慌ててソフトクリームと、周りに飾られたオレンジ色のじゃむを救い、口に運んだ。
 やや甘めのじゃむと、冷たいソフトクリームが程良く調和し、さわやかな後味を舌に残す。
「結構いけるわね」
「でしょ? これがねぇ……なんだかやめられないんだぁ……。私三日連続でこれ食べているんだよね」
「それは……ちょっとやばくない?」
 依存性のある物体でも入っているのではなかろうか?
「いいの。おいしければなんでもオッケー」
 弾けるように二人は笑った。
 そうだね。好きだもの。辛いことや苦しいことがあっても、私は好きだから……楽しいから、だから、歌い続ける。ずっと……。

「ん……」
 理奈は微睡みから覚めた。
 高校時代の自分とアイドルの自分。どちらが現実でどちらが湯メダカ分からなくなり、理奈はきょろきょろと辺りを見回す。
 いつもの楽屋にいつもの衣装。時計の針だけは記憶にあったときより、一時間ほど進んでいた。
 肩にはどこかで見たような、濃紺の上着が掛かっている。
 ……忘れるはずがない。自分で選んで兄に渡したものだ。
 理奈はくすりと笑って上着を羽織り直すと、楽屋を埋めた花束の群を眺める。
 その一つが、偶然目に止まった。
28琉一:02/02/28 16:41 ID:VaG56HaJ
 白い花を、オレンジ色の花で囲んだ、シンプルな花束。それは夢の中で見たなにかを連想させる。
「まさか……ね」
 そう思いつつも、差出人の名前を確認する。そして納得した。
「……だから、あんな夢を見たのかしら」
 差出人は瀬川早紀。懐かしい友人からのプレゼントだ。
 あの後すぐ、理奈は学校を辞めてしまい、ファミレスに行く余裕もなくなってしまったが、
 あの謎じゃむサンデーの味は、今でも舌に残っている。
「早紀ったら……まだあれにはまっているのかしら」
 花束からは、甘く、クセになりそうな香りがした。
「早紀。私、頑張っているわよ。ここまでこれたのも、あなたのおかげかも知れない……。
 見ててね。今日、私は自分の選んだ道で、頂点に立ってみせるから」
 今日は音楽祭。
 最高のステージが、理奈を、由綺を、新しいアイドルの誕生を待っている。
 そう考えるだけで、胸が高鳴る。
 心地良い緊張感を楽しんでいると、控え目なノックがして、英二が入ってきた。
「お、理奈……起きていたか。リハ始まるぞ」
「ええ……ありがとうね、兄さん」
 理奈は上着を兄に返し、微笑んだ。
「なんだ、珍しいな。そんな素直に礼を言われると、裏があるんじゃないかって勘ぐってしまうぞ」
「バカね……たまにはいいじゃない」
 目の前にいる、自分の兄。
 彼がいなければ、理奈は今、この場所にいなかった。
 兄だけじゃない。今この場所に立つまでに、自分を支えてくれた、たくさんの人達に感謝したい。
 懐かしい友人達の顔を思い起こしつつ、理奈はステージに立つ。
 乱舞する光が理奈を照らし、悲鳴のような歓声がステージを襲う。
 ミュージックが流れ、自分の鼓動とシンクロする。
 今日は、自分の最高の一日になる。
 そんな予感がした。