きっかけはとある朝の出来事。
珍しく早めに登校して、『朝の教室で一人頬杖をつく乙女』を演出しようと目論んでいた
のだが、あいにく瑞佳が先に来ていた。
あまつさえ白と黄の小さな花が集まった束を、窓際の花瓶に差しているところだったのだ。
「瑞佳、それ…」
「あ、おはよう七瀬さん。これ? 前の花がしおれちゃったから、新しくしたんだよ」
「そ、そうなの、気が利くわね。あたしも実は気になってたのよ」
なんてのはもちろん嘘で、毎日花瓶が目に入っていたはずなのにちっとも気づかなかった。
こういうところで乙女としての差がつくのか…と、憂鬱になって席に座る。
「でもずいぶん綺麗な花じゃない。どこに生えてたの? あ、もしかして買ったとか」
「まさかぁ、そんなお金ないよ。家で植えてるのがよく咲いたから、少し持ってきたんだよ」
(自分で育てたのかこのアマーー! こいつ完璧超人かーー!?)
差どころか断崖に近い壁……それを目の当たりにして、絶望の淵へと叩き落とされる留美。
「そう、そうなのね瑞佳…。いつもあんたはそうやって軽々とあたしの上をいくのね…」
「は? えーと、七瀬さん?」
「くっ…あたしだって背景に花が飛び交うような女の子になってみたいわよーーっ!」
「な、七瀬さんーー!」
背後に瑞佳の声を聞きつつ、涙をまき散らしながら留美は走る。
気がつくと中庭の、園芸部が管理している花壇の前に立っていた。
(あ、ここにも咲いてる…)
地を覆う葉の敷布の上を、赤い花がデコレーションのように飾り立てる。それぞれの花弁
の中心には黄色い粒が顔を見せ、留美はしばらくの間、ぼんやりとそれに見とれていた。
「どうした七瀬、花壇荒らしか?」
「荒らすかっ! …って折原じゃない、何でこんな所にいるのよっ」
背後からの声に振り返る。そこにいたのは乙女の敵、王子様の対極にいる人物こと折原
浩平だ。
「お前が走っていくのが見えたからな。荒らしじゃなかったら何してるんだ?」
「見れば分かるでしょ。ひとり中庭で花を見つめる……乙女にしか為せない技よ」
「似合わないことするなよ。お前が興味ある花といったら貴之花くらいだろ」
「なんで相撲やねん! ああもう、ほっといてよっ。あんたみたいな男には分からないだ
ろうけど、あたしの心は例えるならこの…」
と、目の前の花たちを指さして、そのまま語尾が消えていく。
「この……えっとぉ……」
「花の名前も分からんとは…。乙女が聞いて呆れるぜ」
「し、失礼ねっ! 何よ、そういうあんたは分かるっていうの?」
「そりゃあれだろ。ほら……なんだ、パンジーだろ」
「そ、そうよ。あたしもそう言おうと思ってたの」
「いや、なかなか見事なパンジーだな」
「やっぱり花はパンジーに限るわね」
「七瀬さーん」
花壇の前でうんうん頷いていると、戻ってこない留美を心配したのか、瑞佳が小走りに
やってきた。
「あ、浩平も。こんな所でどうしたの?」
「ご、ごめんね瑞佳。ちょっと花を見ながら物思いに浸ってたのよ」
言われて瑞佳も花壇へと視線を落とす。
「わ。綺麗に咲いてるねぇ、そのベゴニア」
「‥‥‥」
互いに目を逸らしてえへんえへんと咳払いする二人に、不思議そうな顔をする瑞佳だが、
とりあえず笑顔を作って言葉を続けた。
「それより、そろそろ先生来ちゃうよ。教室に戻らないと」
「まあ待ちなさいよ瑞佳。実はあたしも花を育ててみようと思うの」
「あ、そうなんだ。七瀬さんにぴったりだと思うよ」
「やっぱりそう?」
「頭にチューリップも咲いてるしな」
とりあえず浩平は無視して、花に囲まれた未来の自分を想像してみる。そう、いつまでも
瑞佳に負けてはいられないのだ。ここはひとつ花の似合う女の子として、『なんて美しい花
なんだ。まるで君の心のようだね』『えっ、そんな…』というような王子様との出会いを
目指すべきだろう。
「それで、何の花を育てたいの?」
「え? えーっと、ほら」
ここですぐに花の名前が出てこない時点で既に駄目だが…。
「バ…バラとか」
「花といえばバラかよ。おめでてーな」
「うるさいわねっ! いいじゃないバラ、気高く咲いて美しく散るのよ」
「いいけど、バラはけっこう大変だよ? ちゃんと剪定もしなくちゃいけないよ」
「う…。そ、そうよね。植木鉢で育てるってイメージじゃないわね…」
やはり最初はアサガオあたりにすべきだろうか? しかし小学生の自由研究じゃあるまい
し、どうせ育てるなら乙女らしい花でないと…。と、そこで浩平が助け船を出した。
「七瀬ならあれだろ、ラフレシアって感じだ」
「折原、ちょっと顔を出しなさい。殴ってやるから」
「おいおい、ラフレシアの花言葉は『可憐な乙女』だぞ? お前にぴったりだと思ったんだ
が…」
「え? う、うん。やあねっもちろん知ってたわよ」
「そうなんだ、浩平って物知りだねぇ」
「いや、口から出任せだけどな」
「‥‥‥」
とりあえず浩平にオラオラ千発を叩き込むと、留美は物憂げに空を見上げた。
「わーっ! 浩平が血の海に沈んでるよぉっ」
「ふぅ…何かいい花はないのかしら。花言葉が乙女とかそういう系統で」
「ん…コスモスがそんな花言葉だったと思うけど…。後で調べておくよ」
「そ、そう? 悪いわね」
ちょうどチャイムが鳴ったので、二人で浩平を引きずりながら大急ぎで教室へ戻った。
昼休み、瑞佳が留美の机の上に広げたのは、カラー写真つきの花言葉の本だった。
「図書室で借りてきたよ」
「ご、ごめんね。そこまでさせちゃって」
「つーか、乙女ならそれくらい自分で調べろよ」
「ううっ、自分でもそう思った…」
「ま、まあまあ。ちょうど図書室に用事があったんだよ」
優しい瑞佳はそう言って、背の高いピンクの花の写真を見せる。
「やっぱりコスモスだったよ。花言葉は『乙女の真心』」
「そ、それだーーっ!」
意を得たりと人差し指を突き上げる留美。
「やっぱりね、前からコスモスは好きだったのよ。あたしの心の乙女コスモが反応していた
のかしら」
「そ、そう。でも咲くのは秋だよ?」
「え゛」
「秋桜って書くくらいだしね」
しまった、今は春。これでは乙女になるのが半年先になってしまう。
秋にはコスモスを植えるとして、それまでの繋ぎをどうするか…留美は悩みながらページを
めくった。
「うう…すぐ咲きそうな花でいいのないかなぁ」
「贅沢なやっちゃな」
「あんたは黙ってなさいよっ」
「あ、これがいい。これにしろ」
そう言って浩平が指さした写真は、紫色をした小さな花。
トリカブト――花言葉『騎士道』
「何が悲しくてトリカブト育てなきゃならないのよ…」
「色々使えて良さげじゃないか」
「何に使えってのよっ! トリカブトを!」
「そりゃ七瀬のことだから、殺りたい奴の一人や二人いるだろ」
「そうね、とりあえず目の前に一人いるわ…」
言うが早いか浩平を窓枠へ放り投げると、そのままマッスルミレニアムを炸裂させた。
「わーっ! 浩平の魂が昇天していくよぉっ!」
「はぁ…。あたしに似合う花は何なのかしら。ねえ瑞佳、あたしって花で言うとどんなイメ
ージだと思う?」
「え…うーん、そうだね」
「ウツボカズラ」
「生き返ってくるなっ!」
人差し指を顎に当てて考え込む瑞佳。その姿は可愛らしく美しく、立てばシャクヤクとは
まさにこんな…。
(そういえばシャクヤクって何だろ?)
「ひまわりとか、ハイビスカスかな」
「え? ああ、うん、夏の花ね。まあ8月生まれだし」
「ひまわりは豪快だからな。ビール片手に種をぼりぼり食ってるイメージだな」
「やっぱり違うのにする…」
「はぁっ、浩平はすぐ余計なことを言うんだから…」
念のためハイビスカスの花言葉を調べたら『勇ましさ』だったりしたので、さらに落ち
込んだ留美はすがるような目を瑞佳に向けた。
「ね、ねえ、何かあるでしょ? 可憐で繊細なあたしのイメージに合うようなのが!」
「え……可憐で繊細……?」
「‥‥‥。やっぱり瑞佳もあたしをそういう目で見てるんだーーっ!」
「ち、違うよ違うよっ。え、ええとねっ」
瑞佳は悩んだ。どうしよう、ここはお世辞でも『カスミソウが似合うんじゃないかな』など
と言っておくべきだろうか? しかしこんな純真な友人に嘘など言えはしない。ああ言えは
しないんだよもん。
「ラ…ラナンキュラスとか似合うんじゃないかな」
「何それ、怪獣?」
「‥‥‥」
「ああっ、見捨てないで瑞佳ー!」
そろそろ疲れてきた瑞佳は、それでもめげずに提案する。
「ねえ、最初だしとりあえずヒヤシンスの水栽培にしたら? 水に浸すだけで花が咲くよ」
「えーっ、幼稚園児じゃあるまいし。そんな貧相なのヤダ」
「ヒヤシンスは別に貧相じゃないよ…」
「そういう問題じゃないのよ。あたしのイメージの問題なのよ」
それは瑞佳みたいな女の子なら、どんな花だろうがきっと似合うだろう。でも自分はそうは
いかない。強行軍でも乙女の階段を登らないと、きっといつまでも追いつけない…。
そんな風に思い込んでいた留美は、瑞佳の顔が曇り始めているのに気づかなかった。
「七瀬さん…。どうして花を育てたいの?」
「へ? 決まってるじゃない、乙女としてのレベルを上げるためよ」
「…それだけ?」
「うん。だって乙女といえば花だし。とりあえず花さえあれば可愛い感じしない?」
その瞬間…
留美は初めて、瑞佳が大声を上げるのを聞いた。
「花が好きなわけじゃないの? 花だって植物なんだよ、生きてるんだよっ! 自分のイメ
ージアップのためだけに利用するなんて……そんなの花がかわいそうだよっ!」
ガーーン
乙女として事実上の死刑宣告――心の醜さを指摘され、その場に膝をついて崩れ落ちる留美。
「そ、そうね…その通りよ…。ごめんなさい瑞佳、あたしって薄汚い人間だわ…」
「あ、いや、そこまで落ち込まなくても…」
「いつからあたしはこんな風になってしまったのよ! きっと永遠に乙女になんかなれない
んだぁぁ! うわぁぁん生まれてきてごめんなさいぃぃぃ」
「ど、どうしよ浩平〜」
「パンジーとベゴニアの区別もつかないしな」
「わーっ、追い打ちかけてどうするんだよっ」
「ええそうよ! どうせあたしはツバキとボタンの区別もつかないのよ――!」
鼻水をたらして泣きじゃくる留美に、瑞佳はしばらく困っていたが、そっとしゃがみこんで
留美の頬へと手を添えた。
「ごめんね七瀬さん。少し言い過ぎたよ」
「えぐっ…。ううん、瑞佳は間違ってない。あたしに乙女なんて無理だったのよっ…」
「そんなことないよ。理由はどうあれ、花を育ててみれば何か変わるはずだよ」
「こ…こんなあたしにも花を咲かせることができるって言うの?」
「もちろんだよっ、だって七瀬さんは女の子だもん…」
「み、瑞佳…。あんたって奴は…」
留美の目には確かに見えた。微笑む瑞佳の背景に咲く花と、乱れ飛ぶ点描トーンが。
そして留美の背後から、ぽんと肩に手が置かれる。
「そうだぞ七瀬。こんな所で諦めるなんてお前らしくないだろ」
「折原…」
「まあ、花=乙女という発想がそもそも安直だけどな」
「あっはっは。ほっとけこの野郎」
二人に励まされ、留美はゆらりと立ち上がる。そう、後ろなど向いてはいられないのだ。
見果てぬ先まで続く乙女のロード! それは今始まったばかりなのだから…。
「おかげで目が覚めたわ。もうイメージがどうなんて我が儘は言わない。どんな花でも綺麗に
咲かせてみせるわよ!」
「その意気だよっ」
「何でもいいんだったら、園芸部に知り合いがいるから種でも貰ってきてやろうか?」
「え、ほんと?」
いきなりそんなことを言う浩平に、少しばかり警戒気味に聞く。
「でもどうして急に協力的なのよ」
「フッ、見てみたくなったからさ。七瀬が一体どんな花を咲かせるのかをな…」
「折原…。あんたって奴は…」
昼なのに射し込む夕日。そんな中で笑い合う二人に、瑞佳はそっとハンカチで目を押さえ
るのだった。
「じゃあ後で行ってくる。何でもいいんだな?」
「あ、でも早く成果を見せたいから、なるべくならすぐに芽が出るのがいいかなっ」
「わかったわかった」
そして放課後に浩平から種を受け取ると、留美は意気揚々と家に帰っていった…。
数日後。
教室で住井とだべっていた浩平のところに、留美が息を切らせて怒鳴り込んできた。
「お〜〜り〜〜は〜〜ら〜〜!」
「どうした七瀬、いつものように鬼みたいな顔をして」
「やかましいっ! 何よあの種、やけに茎が細いと思ったら――カイワレ大根じゃない!」
「すぐに芽が出たろ?」
「そりゃ出たけどぉっ…。野菜じゃなくて花を育てたいんだってば、花ぁっ!」
半泣きで叫ぶ留美に、浩平は呆れたようにため息をつく。
「なんだ大根の花も知らないのか。まったく最近の若いモンは…」
「え? う、うん、それはもちろん知ってたわよ?」
「花言葉は『乙女の中の乙女、キングオブ乙女』だからな。まさにお前のためにあるような
花だな、うんうん」
「‥‥‥。さすがにもう騙されるかぁーー!」
そして鉄拳が繰り出され、流血の花を咲かせるのだった。
<END>