萌えなるものを性急かつ乱暴に定義してしまうなら、それは自己愛と性欲の未
分化な欲求感情の一種と言えるでしょう。萌え要素とは性欲対象を純粋にしてし
まった記号であって、フェティシズムに近いものですが、そこには言語化された
性を見いだすことができます。
ですが、この話を続ける前に少し回り道してみましょう。
……現代は社会的イメージによって支えられています。例えば通貨は信頼され
てこそはじめて価値を持ちます。"通貨には価値がある"、これが社会的イメージ
です。このイメージは人間にも適用されます。市民とはこれこれであると、社会
的イメージは述べてきます。ですが、この社会的イメージがその個人本来の資質
とかけ離れていたら、その個人は社会の一員としての自分と、本質的な部分での
性格とのギャップに悩み苦しむでしょう。現代においてはこれを解決する技術を
人間は生みだしました。相対化です。どんなものでも他と比較することがなけれ
ば存在も成立もしないということです。しかしこれは価値観を曖昧にしてしまい
ます。ある立場では素晴らしいものが、また別の立場になるとまったくゴミ同然
とされてしまいます。たとえば、オタクであればある程度の地位の保証があるK
ANONも、一般人にとってはゴミでしかありません。こうやって世の中のあら
ゆるものが無価値とされてしまいました。私たちはこの相対化された社会で生ま
れ育ってきました。相対化された価値、すなわち無価値こそが価値であって、あ
らゆるものの意味を取り去ってしまいました。ここが出発点です。
自分を見つめている自分、という二重性なるもの。ここから生まれるのはどこ
までも続く連鎖のような客観性です。こうして相対化された自分は、自我を持っ
たひとりではなく、他人として認識されます。現代日本においてひとつの宗教と
も言うべき愛なる単語の意味も歪まずにはいられません。それは無償の奉仕、無
償の好意を意味するのではなく、他人を愛する自分を愛するという二重性の状況
を生みだします。自分を客観視してしまうのなら、その行動の解釈も必然的に他
人からの視点を持ってしまいます。愛しているという行為は他人から感謝される
でしょう。この感謝を彼は求めていると言い切ってしまえます。なぜって、自分
のことを他人のように認識しているなら当たり前のことです。人ごとですから。
社会は人間同士の蜘蛛の巣状に広がった関係性を基本としています。この関係
性を造り上げるのがコミュニケーション、情報の交換です。伝達しようとするも
のが持っている情報をコードに変換し、これを受け取る側が辞書を参照してコー
ドを情報に組み直します。情報をコードにする段階、コードを手渡す段階、コー
ドを受け取る段階、コードを情報にする段階、このすべてで情報は劣化していき
ます。たとえば、あなたが「真琴萌へ〜」と言うとき、そこに「真琴」と「萌へ
〜」という情報があり、その言葉が彼の辞書にないのであれば、理解することは
できませんし、辞書は交換不可能です。これをディスコミュニケーションといい
ます。現代はこのディスコミュニケーションが常に発生していると考えられてお
り、お互いの理解の限界を提示してきました。人間は世界の中でひとりぼっちな
のです。これも相対化された価値観が広がっていった結果として、無価値を推進
するイデオロギーが働いたからなのです。しかも、メディアの普及はコミュニケ
ーション能力を阻害します。『<子>のつく名前の女の子は頭がいい』において金
原克範は、TVの視聴時間の長い世代の次世代、メディア二世は情報交換を無価
値であると考えるようになると指摘しています。しかもメディアによって言語化
された情報しか与えられていない者は、言語化された情報しか認識できなくなり
ます。ディスコミュニケーションの概念が信じられるようになった背景には実際
に障害が発生している事実があったのです。
相対化された価値、そこに現れるディスコミュニケーション。この認識を元に
生きていこうとするなら、これまでの自我モデルでは苦悩が深すぎるます。私た
ちはもはや世界との一体感を得ることはできません。大きな物語は失われてしま
ったのです。では、自我の根拠をどこに求めればいいのでしょう。アイデンティ
ティを確立しなければこの恐ろしい世界で生きていけません。
動物は苦痛を受けるとそこから逃れようとします。人間も全く同じ反応をしま
す。ただし、それは人間の方法論、すなわち社会的精神的に行われます。新しい
社会をもうひとつ作ってしまうとか、自分の精神世界にのめり込むとかです。あ
る種の部分についてタブーとしてしまい、その部分についてだけ相対化しないこ
とにしてしまうのです。コミックマーケットを代表とする同人誌即売会、SF大
会、文壇、コギャル現象、暴走族、ある種の市民団体などは社会的逃走のひとつ
ですし、自閉症や分裂症は精神的逃走と言えるでしょう。しかし、これらは非難
されるべき事柄と主張することなど考えられませんし、現代にあってはごく普通
のこととして認識すべきです。私たちにとって自閉症は馴染み深い精神状態であ
って、他人のものなどではありません。それは現代においてアイデンティティを
確立させる方法なのです。過剰適応と言ってもいいかもしれません。これは戦後
教育によって助長されました。外部にモラルの規範を置く日本では、個人主義を
押し進めてきた教育は自我をあやふやなものにしてしまいます。
ここまでくればもう開き直るしか残っていません。システムを転換させること
など一人の人間には不可能です。この過酷な環境に適応しなければなりません。
世界は不可知だし、他人とは理解しあえません。社会の中で孤独になっても誰も
助けてはくれませんし、助けようとも思いません。こうしたことを前提に生きて
いかなくてなりません。この前提の中では愛し愛されるという構造が破壊されて、
自己愛だけが残ります。もはや自分しか愛する対象は残っていません。自分だけ
がかわいいし、自分だけが幸せで充足されているならそれでよいのです。他人の
幸せは、それを見ることで充足するための道具に過ぎません。こうした考え方は
従来否定されがちでしたが、もうこれを止めるモラルも価値体系も日本には残っ
ていません。そして、オタクはこれに適応してしまった人種なのです。
他方、現代は性の格差をなくそうとしてきました。フェミニズム運動やウーマ
ンリブなどはその最たるものです。男性優位の社会であったがために、運動は常
に抑圧される側の性である女性の側から生まれてきました。しかし、男性もまた
社会的役割という重圧で抑圧されているのです。そして抑圧されているのなら、
そこから逃走しようとします。男女同権という言葉は重圧から逃れようとする男
性にとって喜ばしいことであったでしょう。しかし、性欲だけはなくすことがで
きません。性欲は本能的なものであって、社会的身体的精神的に抹殺することが
できません。誰もが性欲を持っています。女性のオタクたちはこのジレンマをや
おいに託すことで逃避しようとしました。やおいで描かれる男性同士の恋愛は、
女性に期待されるような妊娠、出産、育児、子育て等の義務や、女性的であれと
いう社会から受ける無言のメッセージからの解放を意味しているのです。彼女た
ちは純粋な愛を求めました。
一方、男性も女性に遅れること20年、萌えを生み出すことで自らの性的役割を
解放しようとしました。男性たちもまた女性とは別の意味で性の搾取を受けてい
たからです。今までは搾取されることを当然としてきました。中高年における自
殺率の高さはそれを明確に表しているように思います。しかし、現代性から持つ
に至った自己愛が逃避を認めたのです。萌えは参加している社会に責任を持たな
いでいようとする逃避であって、そういった社会的役割から切り離された性欲な
のです。一部の鍵っ子がKANONの性的要素を嫌ったのには、性にまつわる社
会的圧力から解放されようとする理由があったのです。
萌えは純粋です。男は女の服装の下に理想を見る、とどこかの本にありました。
オタクは萌え要素という服装の下に理想の性対象を夢見ます。それは普通の妄想
ではありません、言語化されているのです。萌え要素とはキャラクターを記述す
るためのプログラム言語なのです。これは、メディアによって破壊された情報認
識能力でも感情移入し、発情し、お手軽に消費するための新しいツールです。も
はやこうして記号化したものにしか感情移入できないほどオタクは情報認識能力
を衰えさせています。
30 :
日本酒:02/02/19 04:33 ID:ETMJL1PE
萌えと似ている従来のものにフェティシズムがあります。しかし、これは従来
の性欲に属していますし、もっと原始的なものであって、しかも個人に属する感
情です。萌えはもっと共有化されていますし、フェティシズムほど固定もされて
いません。自在に構成を変化させることですぐに新しい対象を作り出すことがで
きます。
萌えとは、自己愛と性欲の未分化な欲求感情の一種であって、萌え要素は性欲
対象を言語化した記号の一種です。