SS投稿スレ#9

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178不定期連載
http://wow.bbspink.com/leaf/kako/1009/10097/1009774787.html
祐一・美汐夫妻シリーズ
第一話「月曜の朝」
>138-140
第二話「Baby Face」
>508-510

第三話「ベクトル」

その翌日──つまり一昨日のことだが──美汐は一人ものみの丘に来ていた。
まだどこかに残るもやもやを解消するには自分の目で確かめればいい。
そんな気持ちになれたのも、
「祐一さんのおかげね」
と、雲の切れ間からわずかに陽光が差す雨上がりの空を見上げて美汐がつぶやいた。

丘の緑は雨に洗われ本来の色を取り戻し、瑞々しい輝きがそこら中に溢れている。
そして、そんな景色に不釣合いな暗い表情をして、男が立っていた。
美汐は思わず身を隠した。
青ざめた男の顔には生気というものがまるで感じられない。

(本当に幽霊だったらどうしましょう……)
木の陰で震えながら美汐は思った。
(こんなことならもっと前に怖がっていれば良かった)
混乱しているのか、考えがやや意味不明である。
とりあえず、美汐は男に足があることを確認した。
が、今度は幽霊には足がないという俗説の信憑性を思案し始めるのだった……
179不定期連載:02/02/19 21:47 ID:0lGBKvyz
男は何をするでもなく、ただじっと立っていた。
時折、風が草木を揺らし、枝葉に残った水滴がパラパラと美汐の上に落ちてくる。
(噂は全然本気にしていなかったけれど、確かに遠目では目鼻立ちも整っているような……)
なにやら思案の方向が大幅にずれてきた美汐。
ここに来た目的はすっかり忘れているようだ。

また風が吹いた。

男はやはりそこに立ち続ている。

風が止む。

突然、男は崩れるように地面に両手をつき、震える声で女性の名前を叫んだ。
美汐は電撃に打たれたような衝撃とともに、直感した。

この人は待っているんだ。
この丘に消え、もう二度と戻っては来ない大切な人を。
あのときの私と同じように。
あのときの祐一さんと同じように。

男は声をあげて泣いていた。
命を振り絞るようなせつない響きが美汐の胸を締めつけた。
痛む胸を抑える手は知らず、強く、固く握られていた。
唇を噛み、二歩、三歩、後ずさる。
美汐は、これ以上男の苦しむ姿を見ていることはできなかった。
振り返ると、そこから逃げるように走り出した。
180不定期連載:02/02/19 21:49 ID:0lGBKvyz
まだ買ったばかりの靴はぬかるみにはねた泥でみるみる真っ黒に染まった。

……どれくらい走っただろう。
息が苦しくて、いや、それ以上に胸が苦しくて、美汐は道端にうずくまってしまった。
「祐一…さん……」
両手で顔を覆い、かすれた声で夫の名を呼ぶ。
薬指の小さな指輪が何か言いたそうに鈍く光った。

『泣きたくなったら俺に言えよ?』

美汐はいつか聞いた祐一の言葉を思い出していた。

『たとえ慰めることができなくても、一緒に泣くことなら俺にだってできるからな』

「祐一さん…私……」
美汐は何の飾り気もないその指輪を包み込むように胸に抱くと、今度ははっきりと言った。
「私は、大丈夫ですから」
私には祐一さんがいるから、だから……
そこで美汐はハッと気づいた。
あの男の人にはそういう存在がいるのだろうか。
そばにいて、一緒に泣いてくれる人はいないのだろうか。
美汐はものみの丘を振り返った。
今でも慟哭が聞こえてきそうな、悲しい色をしていた。

次の日は祐一と出かける予定で、それは雨でつぶれたので、二人は一日中家で過ごした。
「せっかくの休みなのに……」とボヤく祐一をなだめるのは美汐にとっても楽しいことだ。
昨日のお礼にとばかりに、めいいっぱい甘えさせてあげた。
だが、自分が幸せを感じるたびに、あの男のことが気になって仕方がなかった。
きっと今もあの丘で待っているのだろう。
雨の中、たった一人で。
181不定期連載:02/02/19 21:51 ID:0lGBKvyz
──そして今日、美汐はもう一度ものみの丘に行こうと思っていた。

髪をとかし、薄く口紅をひく。
「別に祐一さんに隠すつもりではないわけですし、ただ、事情がはっきりわかってからでないと、
 祐一さんに話したって意味ありませんものね?」
美汐は三面鏡に映る自分にそう言い聞かせた。
鏡の中の自分も深くうなづいてみせる。
よそ行きの服も用意したのだが、それは着なかった。
支度を整えると、美汐はもう一度空模様を確認し、お気に入りの栗色の傘を手に取った。
そして、しばらくためらった後、予備に置いてある折りたたみ傘もバッグにしまい込み、外に出た。

空はとうとう堪えきれなくなったように、冷たい雨を降らせ始めた……