◆絶望の淵で(1/6)◆
「……」
どうしたらいいのか分からない。
正直言って、何も考えたくない。思考能力なんてなければいい。頭が潰れてしまえば良かったのに。
でも、どうしてもいろんな思いが交錯する。
ひとりきりの時間というのは、ひとりきりの空間というのは。
なぜこうも、想像力をつまらぬ方向へ駆り立てるのだろう…。
「浩平…?」
ドアが開いた音の後。姿を見なくても…姿を見ることができなくても、この聞き慣れた声の持ち主の判別は容易だった。
「…なんだ、長森」
こいつに悪意はないのだが、自然と唸るような、低い声での応対になってしまう。
「あ、起きてたんだね? クラスのみんなから、花貰ったよ。どう、いい匂いでしょ?」
俺の顔の前に花をかざしているらしい。――甘い、俺の好きな匂いだった。
「……。ああ…」
こいつの気遣いに俺は言葉が詰まった。
『綺麗でしょ』ではなくて『いい匂いでしょ』。
オレに起きた変化を、オレでさえ理解できない事態を、こいつは事もなげに受け入れている…。喜ぶべきか、悲しむべきか。複雑な心境だ。
「…花瓶ないんだね。…ナースセンターに行けば大丈夫かな」
「ああ…いつも悪いな」
「…うーん。そんなすぐにお礼を言うなんて、浩平じゃないみたいだよ」
(そうだよ。もう、今までのオレじゃないんだよ…)
「あ、そうだ」
部屋を出ようとしていた長森が立ち止まる。
◆絶望の淵で(2/6)◆
「川名さん、っていう人が面会に来たがってたけど…どうする? 連れてこようか?」
「それは勘弁してくれ」
「でも、すごく来たがってたけど…」
「いいんだ」
「……。分かった」
オレは…オレにはもう、みさき先輩に会わせる顔がないんだから。
「…そうなんだ」
「ええ、だから…ごめんなさい」
「ううん、ありがとう。浩平君が元気だったら、いいよ」
「何か浩平に伝えたいこと、ありますか?」
「そのうちお願いするよ」
浩平君が私を避けている。
それが何を意味することなのか…。分かってるの、浩平君…?
…やっぱり会わないといけない。今だからこそ、会わないと…。
……。
もうオレの病室に見舞い客が来なくなってから何日経つだろう。
あのお節介の長森や根性の据わった七瀬でさえ来なくなったもんな。…二人とも、やっぱり痛々しい姿の怪我人は見ていられなくなったんだろう。
ひとりでいると頭の中で鳴り響くのは、将来への不安。…ようやくオレも現実が見えてきたということか。
(よく先輩はこんな状態で生き続けようだなんて思ったな…)
枕元に立ち込める甘い花の香り。
だが今のオレには、それを引き寄せることすらできない。
そして、食事や排泄でさえ。
――このナースコールなしには、満足にこなすことができないのだ。
◆絶望の淵で(3/6)◆
「折原さん…ですか?」
「はい。下の名前は浩平、です」
「その病棟は…面会時間、過ぎちゃってますけど…」
「でも、今会いたいんです。ここまで来るのに少し、時間が掛かってしまって…」
多分、私のスカートは泥だらけだった。病院の空調に、濡れた部分が冷える。
「あなた、目が…?」
「え…」
「いえ、ごめんなさい。――分かりました、お待ちください。その前に…タオル持ってきますから。体、拭いてください」
「ありがとうございます」
…こんな時に目が見えないことで例外の許可を得られるなんて。ちょっと卑怯だ。
でもどんな形でもいい。
浩平君に会わなきゃ…。
病室の外で、複数の足音がする。…詳しい時間は分からないけど、面会にしては遅い。
こんな時間に面会に来てもらえる――そんな幸福な病人が近くにいるのだろうか、羨ましい話だ。
コンコン。
「……」
コンコン。
「折原さん? 面会です」
え?
「あ、はい?」
ガチャリ。
部屋の空気が入れ替わった。
「どうして…」
誰が来たのか、一瞬で分かった。だから、オレの口からは非難の言葉しか出なかった。
◆絶望の淵で(4/6)◆
「今日は雨なんだろ? 朝から雨音がうるさくてたまらなかったぜ…」
「雨でも来たかったんだよ」
「先輩には危なすぎるだろ…? 雨音で車の音もかき消されて。足元だって滑るし」
「それでも来たかったんだよ…」
「長森からも『来るな』って聞いてたはずだけど…」
「歓迎されなくても」
ふわっ…。
先輩の匂いがオレを包んだ。
「私が来たいと思ったから、来たんだよ…」
ぎゅっと頭を抱き締められる。
「…失礼します」
看護婦が慌ててドアを閉めて出て行った。
「…他人が見てたぞ、今のシーン」
「誰に見られても構わないよ…」
「ちなみに、オレの顔の前に先輩の胸があるみたいだぞ…」
「…ちょっと恥ずかしいけど、でも仕方ないよ…」
「……」
オレは決定的なことを言わなければならない。だが、まだ躊躇っている。
このひとは決定的なことを言おうとしている。
私はそれを否定しなければならない。
そのために、今日来たのだから。
◆絶望の淵で(5/6)◆
「オレは…もう目が見えないんだぞ?」
「それがどうしたの…」
「もう先輩の手足にはなれないんだぞ…?」
「分かってるよ…」
「目が見えない者同士が二人手を繋いで仲良くしてても。それこそ道に迷うだけじゃないか…」
「……」
オレには先輩の悲しげな表情が思い浮かぶ。
今浩平君が見ているものは、確かに現実だけど。でも、それは一瞬のものなんだよ。
そう教えてくれたのは――他ならぬ浩平君、あなたなんだよ。
それを今から教え返してあげるからね…。
「目が見えなくても。希望があれば、生きていけるんだよ。自分の心に絶望が満ちてしまっても。他人が、希望を灯してくれることがあるんだよ」
「私が浩平君を選んだのは、便利な手足にしたかったからじゃないよ…」
「私が浩平君を『光』と呼んだのは、私にとって暗く、闇でしかなかった『世界』を明るくしてくれたからじゃなくて」
「心の暗闇を、取り払ってくれたからだよ…」
オレは先輩の言葉を静かに聞く。オレの心を暖かくする。
◆絶望の淵で(6/6)◆
「今度は私が浩平君の『光』になる」
「私が、浩平君の心の闇を照らしたい」
「…そんな存在に、私はなれないのかな…?」
オレは言葉の代わりに、先輩の胸に顔を擦り付けた。
「わ、なんか直球すぎる答えだよ…」
「盲目初心者だからな」
「全然答えになってないよ…」
「一つだけ約束できることがある」
オレは先輩の顔があるであろう方向に目を向ける。
「オレはいつまでも先輩のことが好きだ」
浩平君の、しっかりと未来を見据えた視線を感じるよ。
そんな浩平君に、私からの答え。
チュッ…。
(完)