2月27日。
由綺の晴れ舞台になるであろう音楽祭の前夜。
この時計の針が後二回転すると由綺の孤独な戦いが始まる。
ピンポーン…
ん、だれだこんな夜遅く…
冬弥「は〜い」
ガチャ…
ドアを開けるとそこには
はるか「ん」
冬弥「はるか…どうした、なにかあったのか?」
はるか「冬弥、来て」
俺の返答も聞かず、はるかは短く用件を告げるとさっさと外に出ていってしまった。
その表情ははるかにしてはどこか切迫していた気がする。
俺はジャケットを手早く羽織ると鍵もかけずに雪の降る暗闇へと身を繰り出した。
ATBが雪の町を疾走してゆく。
俺は車軸に足をかけ、振り落とされないよう必死にはるかの肩を掴んでいた。
家に着てから終始無言のままのはるか。
いったい、なにがあったのだろうか。
しばらくしてATBにブレーキがかかった。その終着駅は俺がよく知っていている場所だった。
雪を無意味に生産し続ける黒い雲を目指すように聳え立つ建物。そう、由綺のマンションだ。
冬弥「ここ?」
由綺は今、英二さんのスタジオでレッスンを受けているはずだ。由綺がここにいるわけがない。
はるか「………………」
しかし、はるかの答えはなかった。その眼は吸い込まれるようにマンションの入り口に寄せてある一台の車に向けられている。
グリーンのミニクーパー…あれは英二さんの車…
はるか「冬弥…」
俺の瞳をまっすぐみつめるはるか。
冬弥「…………………」
俺は無言で頷き、雪の荒野を駆け出した。
嘘だろ…英二さん…由綺…
エレベータを待てず俺は階段を駆け上がっていた。
胸の動機が早く、四肢が鉛のように重い…体がばらばらになりそうだ…
あと、この階段を上がれば由綺の階だ。そうすればきっとこの黒い夢から覚めることができる。
『由綺…愛してる…』
どこかで聞いた声が頭の方から聞こえてきた…
…いや…この独特の音域はひとりしかいない…
頼む、たちの悪い冗談であってくれ…
冬弥「由綺!」
由綺の住む階のコンクリートを踏んだ瞬間、俺の叫びがマンションの壁に激しく響き渡った。
由綺「!」
英二「!」
俺の声に弾かれたように、顔を離す二人。
由綺の唇がしっとりと濡れていた。
俺を待っていたのはどっきりでもなんでもない、ただ辛いだけの現実だった。
由綺「冬弥君…」
英二「青年…」
冬弥「はぁ…はぁ…」
由綺「冬弥君、大丈夫!」
俺の姿を見るなり、心配そうな面立ちで駆け寄ってくる由綺。
冬弥「来るな!」
再度、冷たいコンクリートの壁を走る絶叫。
由綺「………!」
視界の端の方で反射的に両手を胸の辺りにあげ、身をこわばらせる由綺が見えた。
くそ…くそ………。
英二さんはおびえる由綺に微笑みかけ、
英二「さ、由綺ちゃん。明日は大事な音楽祭だ。ほら、今日はもう遅い、ゆっくり休んじゃってくれ」
英二「俺は今からこの青年と大事な話があるからさ、ね」
いつもと変わらない、飄々とした感じで由綺にやさしく話しかける。
由綺「冬弥君…」
冬弥「………………」
俺は…由綺の顔を見ることができなかった。
いったい、どういう顔をして由綺に話せばいいのかわからなかった。
だから…
冬弥「由綺…俺は大丈夫だからもう休んで、明日に備えてくれ…」
うつむいてこれを言うのが俺には精一杯だった。
英二「青年、いるかい?」
ハンドルを片手で操る英二さんが、タバコを指し出す。
冬弥「いえ、タバコはちょっと…」
英二「そうか、健康第一ってことだな、うん、いい心がけだ」
そう言って、窓の外へと灰を落とす。
灰は雪に溶けて、すぐに後ろへと流れていった。
それきり、俺と英二さんは会話らしい会話もせず、
俺は車内に流れるよくわからない個性的なインストルメンタルミュージックに耳を傾けていた。
しばらくすると、クーパが低いうなりをあげて停止した。この場所は…
英二「懐かしいな、青年」
バタンとドアを閉めつつ、モミの木を見上げる英二さん。
そう、クリスマスの日、俺はここで英二さんと由綺をかけて握手をした場所だった。
その時、聞かされた現日本最高のプロデューサの本心。
『俺、由綺のこと…好きだからさあ…』
そして、先程の由綺への愛の告白…
由綺はそれを受け入れた。
俺は…今でも由綺を愛せるのだろうか…
英二さんはタバコを携帯灰皿に押し付け、ゆっくりとこちらを向いた、
英二「青年、君に仕事がある、頼まれてくれるか?」
いつになく真剣な英二さん。
冬弥「なんでしょうか、内容によりますが…」
英二「その前に簡単な試験がある」
胸から再びタバコを取り出し火をつける。
冬弥「試験というと?」
英二「なに、簡単な面接さ」
冬弥「……………」
英二さんはフィルターを深く吸い込むと、俺の顔を正面に捉え声を紡いだ。
英二「君は由綺のことまだ愛してるかい?」
その瞬間風が吹き、二人の間の雪がつむじを巻いた。
冬弥「はい・・・」
英二「・・・・・・・・・」
冬弥「・・・・・・・・・」
英二「青年、それはマジかい?」
冬弥「・・・はい」
英二「・・・・・・・・・」
静かに、でもはっきりと俺は答えた。
それは、考えた末の返答だった。
冬弥「俺は…由綺のことまだ好きです」
さっきより語調を強め、英二さんの瞳をしっかりと見つめ俺は二度目の返事を出した。
英二さんは二本目のタバコを潰すとゆっくりと瞼を閉じ、
英二「オーケー、合格だ」
英二「さ、早く車に乗ってくれ、ほら」
わざわざ助手席のドアを開けて、俺を車に促した。
冬弥「ここは…」
そして、着いた場所は由綺のマンションだった。
いつのまにか降りた英二さんが入り口で手招きをしている。
冬弥「英二さん…」
英二さんはにこりと笑って。
英二「青年、歯を食いしばれよ」
冬弥「え?」
ばきっ!
一瞬なにが起きたのかわからなかった。
急に世界が暗転し、次の瞬間俺は雪の草原の上に倒れていた。
冬弥「英二さん…なにを…」
血の味がする…どうやら、口の中が切れたらしい。
英二「おいおい…君はそんなに甘ちゃんなのかい?」
ごっ
寝そべる俺の顎が跳ね上る。
冬弥「ぐ…」
英二「青年…そんなんで、本当に由綺を守れるのかい?」
英二さんは襟首を掴み、無理やり俺を立たせる。
英二「そんなんじゃ、君に由綺は任せらないなっ!」
そして、再度俺の頬に右ストレートが入る。
目に火花のようなものが弾け、頭がぐらりと揺れた。だが、今度はなんとか踏みとどまることができた。
完璧に足にきてる。俺は、倒れないよう下半身に力を込めつつ、英二さんを睨む。
英二「おっ、少しは頭に血が昇ったみたいだな、やっぱり男の子はそうじゃなきゃいかんよ、うん」
独特な英二節を回しつつ、無防備に近づき、
英二「殴ってみろよ、ほら」
挑発的に頬をちょいちょいつつく。
冬弥「く、くそ…」
俺は弱々しく、その頬めがけ拳を放つ。
がっ!
英二「ははは、カウンターだ。残念だったな青年」
情けないことに俺はその一撃で雪の上に大の字に倒れてしまった。
無傷の英二さんは懐からタバコを取り出すと、
英二「俺はプロデューサーとして音楽祭を成功させないといけなくてね、だから今回は特別サービスだ」
そう言って、眼を細めた。
そして、くるりと俺に背を向け、タバコに火をつけた。
英二「青年、ADなんかでくすぶってないで、はやいとこ上がってこいよ、俺は気が短いからな」
タバコのいい香りが雪と共に風に乗って運ばれてくる。
英二「じゃあな青年。由綺ちゃんを頼んだよ」
英二さんは背中を向けたまま、右手を何度か振るとクーパに乗り込み、瞬く間に雪の中へと融けていった。
はるか「冬弥…」
冬弥「はるかか…」
冬弥「悪いけど、手…貸してくれないか…ひとりじゃ立てそうにないみたいなんだ」
はるか「ん」
冬弥「さんきゅ」
まだ、頭がくらくらするがどうやら歩くことはできるらしい。
はるか「冬弥、これ」
はるか「まずうがいをした方がいいと思う」
あらかじめ注いでおいたのであろう、はるかの差し出した水筒のコップには水らしきものが張っていた。
俺は、それを半分ずつ、二回に分けて口を漱ぐ。
はじめはしみたが、二回目を吐き出すと幾分口の中がすっきりとした。
冬弥「はるか…」
はるか「ん?」
冬弥「ありがと」
はるか「うん」
すると、はるかは俺の背中をぽんっと押して、
はるか「冬弥、まだ大事な仕事が終わってないよ」
いつもの笑顔を浮かべた。
冬弥「うん、そうだな…」
冬弥「じゃあ…いってくる」
はるか「うん、冬弥は頑張って由綺を追い続けて、私は草葉の陰で応援してるから」
冬弥「はるか…それ、使い方が違ってると思うんだけど」
はるか「……………………」
はるか「ん〜めんどくさい」
冬弥「ホントにいいかげんだな、はるかは」
はるか「あはは」
そうだな…
俺は今から走り続けなきゃいけないんだ。
今は英二さんと比べると蟻みたいに無力な自分だけど…
由綺を守れる力をつけるまで俺は走り続けなければならない。
後ろを振り返れば、真っ白な雪に斑点を浮かべる俺の血。
それらはすでに黒く染まりはじめていた。
俺はあとどれくらい血反吐を吐けば英二さんに追いつく…いや、追い抜くことができるのであろうか…
そして、俺のアルバムはめくられはじめる。
何も書かれていない純白のページが無限に綴られたホワイトアルバム。
その最初のページには緒方英二の名が記されていた。
これからこの白紙には俺の汗と血でできた黒いインクでその歴史が記されてゆくであろう。
いつか、俺が由綺を本当に支えることのできるその日まで…
(おわる)