[耕一]
走っている。
夜の闇のなかを、ただひたすらに疾駆していた。
自分のなかの獣が、心臓を食い破らんばかりに急き立てる。
まだだ。まだ止まるわけにはいかない。
家に戻るのは、警戒の手薄な今しかない。
何喰わぬ顔で玄関から入って、何喰わぬ顔で部屋に戻ってしまえばいい。
たかだか直線距離で十メートル程度。
それさえやり過ごしてしまえば俺の勝ちだ。
頭まで布団をかぶって朝までタヌキ寝入りをしてしまおう。
朝だ。朝になれば、梓が合宿から帰ってくる。初音ちゃんも友達の家から戻ってくる。
明日の朝になってしまえばこっちのものだ。
それまでは、廊下で百鬼夜行が行進したって部屋から出てたまるか。
出かけるときに油を注しておいた玄関の戸は、するすると音もなく開いてくれた。
あとは部屋までの距離を踏破して立てこもるだけだ。俺は半ば成功を確信する。
その刹那――。
玄関の照明がパッと点けられて、俺のこそ泥じみた間抜けな姿を照らし出していた。
柳のようにすらりとした容姿の女性が、優しく微笑んでいる。
「おかえりなさい耕一さん。遅かったんですね」
「ち…千鶴さん。この時間はTVを観てるはずじゃ…」
「ビデオに録ったんです。今日はお料理に専念したかったから…」
この人は本気だ。
俺は自分の運命を呪うしかなかった。
千鶴さんは鼻歌まじりに手料理を温め直してくれている。
俺のために作ったと言って出されてしまっては、もう覚悟を決めるしかない。
俺にできるのは、念仏を唱えながら十字を切って神に祈ることぐらいだった。
スプーンを口に運ぶ直前、どこかで見たようなキノコが食材として使われているのに気が付いた。
<続く 1/6>
[四姉妹]
山盛りのまま残された皿を、梓がうさんくさげにスプーンで突いていた。
不揃いにぶつ切りにされた野菜の間からは、気味の悪いキノコがほとんど原型のまま飛び出している。
「で…。これを喰った耕一は錯乱状態になって外に飛び出していったわけだな」
そのキノコの恐ろしさを、姉妹の誰もが骨身に染みて理解している。
知らせを聞いた姉妹は、外出先から数時間のうちに家に集まっていた。
「だって、隠し味になると思ったのよ…」
「アンタは進歩ってモンがないのか!?」
千鶴は言われるままにひとりで小さくなっている。
さらに詰め寄ろうとする梓を制して、初音が間に入った。
「それより、大事になる前にお兄ちゃんを見つける方が先じゃないかな?」
ひとり建設的な末妹の意見にうなずいて、楓は手にしていた図鑑をぱたりと閉じた。
「耕一さんが反転したのは初めてだから、どうなるか予想がつかない」
八つの瞳が、従兄の青年が消えた夜の闇を見つめる。
長い夜になりそうだった。
[鬼]
わき起こる衝動のままに夜を跳ぶ。
今の俺を止められるモノなどこの地上には存在しないだろう。
実に気分が良かった。
せっかくの機会だ。この夜を味わい尽くさない手はない。
――人間の多い場所に向かうとしよう。
内なる声に従って、俺は市街地のひときわ目立つ建物に向かって移動を始めた。
<続く 2/6>
[四姉妹]
「はい……、はい、分かりました。対処はお任せしますが、何かあったらすぐに連絡をお願いします」
千鶴はいつになく強ばった面持ちで電話を切った。
「仕事関係で何かあったわけ?」
梓が素っ気なく訊ねる。
すぐにでも行動に移りたいのにどうしていいか判らない。そんな苛立ちが仕草の端々に仄見えていた。
「旅館の露天風呂にのぞきが出たらしいんだけど…」
「のぞき? こっちも面倒が起こってるっていうのにな。ヒマ人てのはどこにでも居るもんだね」
「それなんだけどね。十数メートルの岩場を一気に駆け上ったとか、
助走なしで十メートル以上の距離を跳んで逃げたって証言があるらしいの」
「………」
「やっぱり…お兄ちゃんかな?」
「そう考えるのが自然でしょうね」
「どどどうしよう…、お兄ちゃんこのままじゃ警察に捕まっちゃうよ」
「あたしゃあんまそっちの心配はしてないけどね」
もし話が通じないようなら実力で取り押さえるしかない。
しかし、あの柏木耕一を取り押さえるのがどれほど困難なことか――。
少なくとも、地元の警察では荷が重いのは間違いないだろう。
テーブルを囲んだ姉妹たちからため息が漏れた。
「あいつ、何がどう反転してるんだろうな…」
[鬼]
市街地の旅館はいまひとつだった。
何かが決定的に物足りない。
しばらくして、普段から質の高いエモノを見過ぎているせいだと気が付いた。
――そうだ、最高のエモノはすぐ近くに居るじゃないか。
灯台もと暗しというヤツだ。
そう考えた俺は、もと来た方角に引き返すことにした。
<続く 3/6>
[四姉妹]
「ふええん、びっくりしたよう」
初音はほとんど泣きべそをかいている。
数分前に、耕一らしき人影がこの柏木家の浴室に現れたのだ。
そのとき浴室に居た楓と初音が、疾風のように逃げていく人影を見ている。
人影の背格好は、柏木耕一のそれと一致していた。
「しかし、耕一もやることがせこいな…。のぞきばっかり」
「でも、それだけで済んでよかったじゃない」
「まあそれはね。良いかどうかは知らないけどさ」
「でも、どうして私と梓じゃなくて楓と初音のときに来たのかしら?」
「……姉さん、それは深く考えない方がいいと思う」
一瞬しらけそうになった雰囲気のなかで、梓の声が響いた。
「しかし、これで耕一が近くにいることは判ったわけだ。
亀姉も荒事だけは得意だろ? 責任持って後始末してもらうからな」
「そういう言い方はないでしょう。もう…」
具体的な行動が見えてくると、梓は俄然元気になる。
[鬼]
うかつだった。
最年長の女は充分に警戒していたものの、その下の戦闘力を侮りすぎていた。
最初から長女はおとりだったのだろう。
侮れない同族を迂回して離脱しようとしたら、待ちかまえていた次女の攻撃を死角から受けることなった。
息の合った連携が立て続けに襲ってきて、俺は逃げるタイミングを逃すことになる。
そして後頭部にフライパン(シルバーストーン加工)の一撃を受けて、俺の意識は闇に沈んでいった。
<続く 4/6>
[耕一]
「まあ、今回は耕一も被害者みたいなもんだろ? 誰かさんが性懲りもなくキノコなんか使うから…」
目を覚ますと、千鶴さんにお説教する梓の声が耳に入ってきた。
どうやら、俺は客間に敷いた布団に寝かされているようだった。
後頭部がズキズキと痛い。
「でも、味は良くなるんだし…」
「副作用がシャレになんないだろ!」
小さくなりながらも弁解を試みる千鶴さんに、さらに追い打ちでツッコミが入る。
これを聞いてると、どっちが年上だか判らない。
「あ、お兄ちゃんが気が付いたみたいだよ」
真っ先に俺に気付いてくれたのは初音ちゃんだった。
続いて楓ちゃんが新しい氷嚢を持って来てくれる。
「耕一さん、大丈夫ですか?」
後頭部をさするとちょっとしたタンコブができていたが、別にどうということはない。
「みんなに迷惑かけちゃったな」
「ごめんなさいね。耕一さん。次こそはちゃんと作りますから」
「いいよ。千鶴さんだって悪気はなかったんだし」
言葉の後半部分が少し気になったが、俺は鷹揚に笑ってみせた。
長い不安の夜が終わって、ようやく柏木家にも平和な日常が戻りつつある。
――ふと、テーブルの上に残っていたキノコと図鑑を見比べていた初音ちゃんが声を上げた。
「でも、このキノコ、この前のとはちょっと違うみたいだよ」
「セイカクなんとかっていうけったいなキノコだろ? アレは忘れようったって忘れられないって」
梓が気味悪げにキノコをつまみ上げて、初音ちゃんの後ろから図鑑をのぞき込む。
「たしかに見た目はそっくりだけど、ほら、こっちは傘の下に白い斑点があるよ」
初音ちゃんは指をずらして、セイカクハンテン茸と書かれた項目の一つ下を指した。
「こっちは『軽度のめまい、腹痛』ぐらいしか症状はないみたい」
「へえ、セイカクハンテン茸モドキねえ。って、ちょっと待てよ。そうすると…」
「一カ所に固まって生えてたのを採りましたから、料理に使ったのはぜんぶ同じキノコですよ」
その場の全員の視線が、俺ひとりに向けられた。
<続く 5/6>
「つまり耕一さんは、最初からセイカクハンテン茸を口にしていなかったことになりますね」
楓ちゃんの冷静な分析を境に、時間が停まった。――ような気がした。
「………はは、そういう考え方もあるかな」
凍り付いた刻のなかで、八本の視線が矢のように俺に降り注いでいた。
まずい、実にまずい。
「残念だよ、耕一。あんたとはよくどつき合ったけど、本気でやったことはなかったのにな」
どつき合いというが、片方が一方的に殴るのをそう呼んでいいものだろうか。
それはそうと、梓の体重は明らかに増加していた。
「ちょっと待て梓、拳はやめろって……。いや、脚はもっとダメだ」
全身凶器に変貌しつつある梓から逃れようとして後ろを振り向くと、冷たい水のような眼差しに出会う。
長い転生の果てに、哀しみも怒りも呑み込んで透徹した静かな瞳。
楓ちゃんの“可哀相だけど明日の朝にはお肉屋さんに並んでしまうのね”という視線が俺を射抜いていた。
「……耕一さん。来世でも私を見つけてくださいね……」
「あ……あう」
最後の希望として、俺はこの世で最も無垢な魂に救いを求めて目で訴えかけた。
この娘ならあるいは――。
「いくらお兄ちゃんでも、今回はひどいと思うよ……」
――だめだった。
初音ちゃんは天使のような顔を曇らせて、これから起こるであろう惨劇から目を背けている。
狩猟者の本能、というより生物としての生存本能が真っ赤な警戒信号を発していた。
チガウ……、コイツラジャナイ……、本当ニ危険ナノハ……。
そうだ。本物の脅威はまだ姿を見せていない……。
それに比べたら、梓の放つ冷気に似た気配なんて可愛いものだ。
俺を取り囲んだ三人の背後で、恐怖はすでに実体化を始めていた。
周囲の温度をすべて奪い去って、凍てついた闇が人の形を取りつつある。
『耕一さん、あなたを……殺します』
――夜は終わらない。
<FIN 6/6>