「……あれ?」
薄っすらと視界は閉じられていった。澄んだ空気は、今も頬を撫でている。
寒空で、今日はいつより冷え込んでいた。着用していたコートを胸元で押さえて、息を吐く。
白い。
はあーっと、夕闇の中に溶け込んでいく。
耳に付いた雑踏は、多少うるさくもあったが今は気にならない。
もう一度、首を傾げた。
「……あれ?」
何かを忘れているのか、気分が乗らない。
心の中に空白ができたように、ぽっかりと穴が開いていた。
がちゃ。
玄関のドアを開けて、靴を脱いで、バックを適当に置いて、リビングにもたれ込んでしまう。
「……疲れたわね、今日も」
このところ、毎日のように帰りは遅かったが、今日はわりと早く帰ってこれた。
もうすぐ、春が訪れる……。
「お茶でも淹れようかしら?」
ひとりでいると何かと声に出してしまう。これは、悪癖なのかもしれない。
寂しさを誤魔化している気はなかったが、自重はしよう。
久しぶりのハーブティ。葉が痛んでいないことを願って、ふたを開ける。
お湯も沸いてきたようだった。まずは、ティーカップを暖める。
部屋の中に、ミントの匂いが漂いはじめた。
………。
……。
…。
「もう、余計なお世話よね……」
夕刊に混じっていた結婚相談所のダイレクトメールを見て、わずかに溜息をこぼす。
とんとん、と机を指先で叩いてからハーブティを口に含む。
結婚したくないわけじゃない。
私だっていつかはウエディングドレスを着てみたいと思っている。
(女性としての憧れだもの……)
私は鏡を覗き込んでみた。
鏡は私を映していた。
現実のままに、私は鏡の中の世界に存在していた。
少し肌が荒れている。
「…………な、なんですと!?」
ちょっとショックだった。
でも、このところの生活を顧みたら当然なのかもしれない。
もうすぐ三十路。いつまでも若いままではいられない。
「……永遠なんてないって思い知らされるわ」
姉さんのことを思い出す。
私は姉さんのことを誇りに思っていたし、年も離れていたせいか姉さんも優しくしてくれた。
胸を張って言える。自慢の姉だった。
しかし……。
ちょっとしたボタンの掛け違えで何もかもが水泡に帰してしまう。
「姉さん……」
今は、どこかの宗教団体に属している姉を思い出して、私は哀しくなった。
結婚式では、あんなにも幸せそうだったのに、羨ましいくらいに綺麗だったのに……。
子供だってふたりも授かって、嬉しそうに私に自慢してきたのに……。
「……由起子も早く結婚しなさいよ」
「大きなお世話よ。姉さんったらいくら自分が幸せだからって人に押し付けないでくれる?」
「誰も、相手にしてくれないの?」
「そりゃあ……何人かに、言い寄られてはいるけど……私より仕事のできない人なんてナンセンスじゃない」
「そんなことじゃあ、いつまで経っても結婚どころか恋人だってできないわよ」
「だから余計なお世話だって! 今は、仕事が私の素敵な恋人なのよ!」
「あらあら、由起子ったらあまり大きな声を出さないで、みさおが起きちゃうわ」
ゆっくりとした抱擁は、私に理想の母親像を連想させた。
まだ小さい赤子は姉の手の中で、気持ちよさそうに眠り込んでいる。
私だったら、こうはいかないだろう。
そして、気づく。
姉さんは、いつの間にか私の姉さんから……子供たちの母親になっていたのだ。
ちょっとぴり妬けてしまう。
「お姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃん……」
みさおちゃんの耳元で私が呟くと、姉さんはびっくりしたように遠ざけた。
「……何してるのよ?」
「いやいや、浩平みたいにならないように、いまからしつけておかないと……」
「おーい、叔母さん」
どこからか私を呼ぶ声が聞こえて、ふふふっと含み笑いを漏らしてしまう。
いくら言っても私を『叔母さん』と呼んでくれる子には、多少のお仕置きが必要かと思われた。
「ちょっと浩平と、アイアンクローごっこしてくるわ」
………。
……。
…。
壊れてしまった。
何もかもが硝子のようにぱりーんと割れてしまったのだ。
……なんて脆いのだろう?
「……浩平?」
みさおの葬儀の時に会った浩平は、もぬけの殻だった。
随分と会ってなかったような気もするが、こうも人は変わってしまうのだろうか?
「……本当に、浩平なの?」
「…………」
答えは、いつまでも返ることはなかった。
そして、私は……いつの間にやら浩平を預かることになっていた。
押し付けられたのだ。
どこの親戚も自分たちの生活があるし、文句も言えなかったが。
それに宗教団体に吸い尽くされた折原家の財産では、引き取ることのメリットもないのだろう。
「お前は、あの姉の妹だろう!」
誰かがそう私に言った。
……私は、泣きたくなった。
……永遠なんてなかった。
―― 人は、ずっと幸せのままではいられない ――
そのことを、私は知ってしまった。
だから、泣いてしまった。
何度も、姉さんに会おうとしたが……頑なに断られて、門前払いの毎日だった。
浩平は姉さんの大切な子供。
……子供より大切なものがあるのだろうか?
祈りは、届かない。
それでも、祈り続けているのだろう、姉さんは。
この空に向かって……無意味に。無慈悲に。
そして、私は姉さんとの思い出が詰まったこの家で暮らしていく。
今も、これからも……。
……辛かった。
……とてもとても辛かった。
いつまでたっても浩平は泣きわめいていた。
私は、それを見ているだけだった。
だって永遠はないのだから……。
いつか幸せは壊れるものなのだから……。
それを知ってしまったら、誰に優しく出来るものか……。
「……あれ?」
気が付くとソファーでうたた寝をしていた。
ひどく疲れていたのだろう。頭がぼんやりとしている。
すでに窓の外は真っ暗で、ひとり残されたような感覚だけがあった。
このところ調子が悪い。
頭痛がひどい。
何だか記憶喪失でもなったみたいに物事を忘れていくような……。
そんな、不思議な感覚。
どたどたどた、と階段を下りる音。
「…………!」
私は有り得ない事態に遭遇したと認識して、頭の中が真っ白になった。
人がいる……。
この家に人がいる……。
(私はずっとこの家にひとりきりで……)
体の震えは最高潮まで達して、この状況に笑い出してしまいそうにさえなっていた。
「……由起子さん?」
高校生くらいの年齢の男の子が私の名前を知っている。
どういうことだろう?
高校生。男性。不法侵入。名前を知っている。こちらに向かって微笑んでいる。
「ひぃ!」
私はがたがたと震えて、これまでの人生の中でもっとも恐怖した。
体を抱き締めて男性の顔だけを見つめる。
(悲鳴をあげないと……)
理性はそう訴えかけてきたが、喉までもが震えてうまく声が出せない。
何かをしないと……。
思っているうちに、男性の手がこちらに伸びてきた。
私は気を失いそうになる中で、少しでも体を男性から離そうとする。
じりじりと、動くだけの体は何とも頼りない。
――終わった。
私は……そう思った。
「どうして……」
「……?」
男性が私を見ていた。
私の体よりも男の子の瞳が揺れていて、ひどく傷付いているように……。
(この瞳、見たことある……)
「……浩平?」
次は、浩平が私を見て、信じられないように……。
「オレのこと、分かるの?」
何を浩平は言ってるんだろう?
当たり前のことじゃない。
それなのに、忘れてしまうなんて……。
「……馬鹿ね」
そういって、浩平を抱きしめる。
馬鹿、とは自分のことだ。
どうして、忘れていたのだろう?
「本当に、馬鹿ね……」
………。
……。
…。
私は有り合わせの材料で夕食を作っていた。
コロッケだった。もちろん味噌汁にだって自信はある。
「料理なんて久しぶりね……」
私は手に取ったお玉で味見をして、少し辛いかもと思いつつ、別にいいかとも思う。
テーブルには、浩平がお皿を並べてくれている。
ご飯は炊けているだろうか。
「由起子さん、オレもう腹減って動けない……」
「もうすぐよ」
何気ない会話。
どこまでも続いていく日常。
「ほら、美味しそうでしょう?」
私の作った料理を、浩平が頬張って……。
美味しい、と返してくれて……。
私は、その答えに満足して……。
でも、食べてみたら、それほどでもないことに気づいて……。
それなのに、浩平が食べてる姿を見ていると、ああ、やっぱり美味しいかも、と思う……。
(そうか、これが家族ってことなんだ……)
どこかで無くしていた記憶。
子供のころに描いていた確かな幸せがここにあった。
――永遠はない。
だから、この瞬間をいつもいつも人は持とうとしている。
そう、信じられた。
浩平はいつか私のもとから去っていく。
優しくしたら……しただけ、私は傷付くことになるのだ。
幸せなんて要らないから、不幸にはしないでほしい。
私は、ずっとそうやって生きていた。
「浩平」
「なに、由起子さん?」
「ううん、ただ呼んでみただけよ」
「なにそれ?」
「いえ、なんとなく……」
なんとなく、こういう瞬間を求めるために、私はこれから生きてみたい。
そういうのも、きっと悪くない。
ぼんやりしながら、私は思った。
浩平と出会った日。
悲しみにくれていた浩平を見て見ぬ振りしていた毎日。
優しくしないことは自分への優しさ。
もう傷付くことは嫌だった。
放任主義とは聞こえはいいが親権放棄に他ならない。
壊れる幸せ。
不意に襲ってくる不幸。
どこにもない永遠。
「あのさ、浩平」
「うん?」
「私、明日会社休むから浩平も休みなさい」
「……えーと」
「あら、浩平? 家主の言うことが聞けないっていうの?」
「もうしょうがないな……分かったよ」
浩平の眼を見てなんとなく悟ってしまう。
(もう学校には行ってないのね……)
私は、悔しくて唇が歪みそうになったけど、笑ってみせた。
「じゃあ、決まりね」
明日を、楽しみに……。
カーテンを開けて、窓も開けると、春の風が吹いていた。
気持ちいいほどに、部屋中を満たしてくれる。
今日は、きっといい日になる。
予感は期待になって私の心を豊かにしてくれた。
「ほら、浩平、起きなさい」
時計はゆうに通学時間を回っていた。
そして、思うこと。
(瑞佳ちゃんは、もう……)
浩平が過ごしてきた時間の長さを思って私の胸は押し潰されそうになった。
信じられないことを、私は甘受している。
浩平の部屋。
ここも浩平のことを私が忘れていたら、どうなっていたことか。
多分、私は発狂して、この部屋のものをぶち壊していた。
知らない人。
記憶から消えしまうのは、まさしくそういうことだった。
(……私は、忘れたりしないから……)
そう、私は絶対にこの思い出を忘れたりはしない。
ゆっくりと、ゆっくりと、すべては流れていく。
「ほら、出掛けるわよ」
ひとつひとつが、思い出の欠片だ。
「ふわぁー」
大きく欠伸をする浩平をぽかりと叩く。
「なんで叩くんだよっ」
「こんなことだから瑞佳ちゃんが呆れて来なくなるのよ」
わざと日常を装って……。
「ぐ、痛いところを……」
いつまでも、こんな瞬間が続くことを祈って……。
「……出掛けるって、どこに?」
浩平が言う。
「あら、何を言ってるのかしら?」
私は笑う。
「どこだっていいじゃない」
春の商店街。
春の通学路。
春の並木道。
すべては光り輝く彩りに塗り替えられていく。
輝く季節へ。
浩平はもうひとりじゃない。
私もひとりじゃない。
誰かのために、生きてみて……。
誰かのために、笑ってみる……。
「すっかり春になってたのか……気づかないものね」
「由起子さんは、いつも朝は早くて、夜は遅いから仕方ないよ」
他愛のない会話。
こうして、二人で散歩することもなかったのだ。
でも、これからは……。
「これからは、もう少し早く帰って来ようかしら?」
例えば、朝。
いつまで経っても浩平は起きてこない。
私はそれに苛立ってしまう。
「学校に遅刻する!」
慌てて、階段を下る浩平の襟元を正してあげながら、
「そんなことより、朝食はどうする気?」
学校のことより、今を大切に……。
例えば、昼。
仕事もひと段落。
私は自信作のお弁当を机に広げる。
「うん、上出来ね」
時計を見て、今頃、誰かさんも昼食の時間だと思いながら、
「残してきたら、許さないんだから」
ひとりよりも、ふたりのために、作ること……。
例えば、夕暮れ。
思い切り伸びをして、茜色の眩しさに眼を細める。
今夜の夕食は何にしようかと、思い巡らせる。
「あ、浩平じゃない」
偶然見つけて、そのまま一緒に買い物に連れて行って、
「今日、何食べたい?」
荷物を持たせて、私はそう訊いてみる……。
例えば、夜。
夕食の後、浩平に晩酌させる。
今日一日のことを振り返って、語り合う。
「そう、そんなことを……瑞佳ちゃんの慌てっぷりが眼に浮かぶわ」
誰に似たんだかと苦笑して、今度は私の番で、
「でさ、そこの上司ったらね……」
何気なく、私という人間を知ってもらうため……。
そして、朝。
また、朝。
陽は巡り昨日という日は返らない。
でも、新しい一日の始まり。
終わらない日常。
いつか変わっていく日常。
その月日を、今、この時を……。
誰かと一緒に過ごせることの幸せを……。
分かち合う。
それは、幸せ。
ずっと、ずっと、心に残るもの。
忘れない。
だって、それは……。
「私、ずっと怖かったんだ」
公園の桜のつぼみを見て、
「だって、浩平は私の子供じゃないんだもん」
変化していく風の中、
「それに、私に母親なんて無理だしさ」
暖かな陽射しを浴びて、
「姉さんみたいになれないから」
しっかりと足を地面につけて、
「浩平のこと遠ざけて、見ない振りしてたけど……」
輝く季節の中を、
「やっぱり、家族だもんね……」
「……由起子さん」
「うん、家族なのよ。私たちは家族なのよ」
誰かと一緒に過ごせる喜びを、
「少し、気づくの遅かったけど……お待たせ、浩平」
抱き締めて、いつまでも護り続けたい……。
春の木漏れ日。
二つの影がひとつになって大きく重なって……。
誰かに必要とされること。
想いに応えること。
「家族の絆って、決して千切れたりはしないから」
いつかは姉さんに、
浩平の母親に、
出会う勇気も必要で、
「私は、浩平のこと離したりしないからね」
別れを告げる勇気も必要で、
いつか許しあえる時の中で、
「浩平の居てもいい場所は私の家なんだから、もう遠慮とかはしないで頂戴よ?」
甘えて欲しい。
あの泣いていた……いつまでも、泣いていた子供のころの浩平のままだったから……。
「もう、私は怖くないから……」
別れの時まで、家族として一緒に過ごしたい。
そして、いつか思い出に。
「由起子さん……!」
子供だと、ずっと思っていた……けど、今は。
「オレ大丈夫だから……」
「そうか、こんなにも大きくなっていたのね……」
胸の中にいる浩平は、育ち盛りの男の子で……。
抱きしめているつもりが、抱きしめられているようで……。
(……姉さんみたいにはなれないのは分かっていたのに、ね……)
他の人からは、どう見えるのかな?
仲のいい親子?
私としては姉弟が希望なのだけど……。
(……もしかして、恋人とか?)
……苦笑。
浩平に失礼よ、それじゃあ……。
「そろそろ帰りましょうか?」
意識してしまったら、人目が急に気になってきた。
帰るところのある幸せを……。
お帰りなさい、と言ってくれる人が家で待っていてくれる幸せを……。
冷たい空気ではなく、暖炉で暖められた空間を……。
望んで……。
「あ、そうだ」
家路を辿り行く中、ちょっとした提案をする。
「私は先に帰るから、浩平はもう少しぶらぶらしときなさい」
「え? 一緒に帰ったらいいじゃない?」
そうだけど……。
「いいからそうしなさい。浩平が帰ってきたら……」
言ってあげたい言葉がある。
いつも遅くて、顔もめったに合わせることなかったあの家で……。
……夕食を作って待つことの幸せと、浩平を出迎えることの嬉しさと……。
『お帰りなさい、浩平』
冷たい外の世界から「ただいま」という浩平に私はそう言ってあげたい。
「今日は、何がいい?」
「えーと、何でもいいの……?」
「まあ、レシピがあれば、大抵のものは作れるわよ」
「じゃあ……」
少し迷ってから浩平が言う。
「由起子さんを食べたい――――ぐわっ!」
「殴るわよ」
「もう殴ってるわっ!」
他愛のない冗談を言い合って、
何気ない会話に興じて、
今までこんなこともしてなかったのかと、過去の自分を笑ってやる。
「冗談じょうだん。コロッケでいいよ」
「……ん? 昨日も食べたじゃない」
「それでもコロッケがいい」
「そう? 浩平がそう言うのなら私は構わないけど……」
昨日は牛肉コロッケだったし、今日はクリームとかにしてみよう。
「じゃあ、2時間くらい暇つぶしして来なさい」
「はいはい、分かりましたよ」
約束して、私たちは一端、分かれることにした。
………。
……。
…。
悪戦苦闘の夕食の準備だった。
ここまで腕が落ちているとはショックだった。
勘が鈍っている。
指先にはいくつもバンソーコーが貼ってある。
「まったく、これじゃあそこいらの女子高生と変わらないじゃない」
自分に有利な点のひとつの崩壊。
由々しき事態だった。
しかし、今日は何とか合格点に入る出来栄えになった。
それだけでいい……。
時間が過ぎていく。
かちかちと時計の針は時を刻んでいる。
(……まだかしら?)
胸をときめかせて、今か今かと待ち続けている。
まるで、恋人との待ち合わせをしている女の子みたいだったので、私はまた笑ってしまった。
もう若くはないのだから……。
………。
……。
…。
一時間。二時間。気が付けば8時を回っていた。
料理はとっくに冷めている。
なかなか帰ってこないぐうたら亭主でも気取っているのか。
「暖め直さないと……」
溜息を吐き出して、机に肘を乗せてみる。
もう少し待ってみよう……。
………。
……。
…。
そして、待つこと6時間。
もうすぐ日付けが変わろうとしている。
私はようやくことの重大さを思い打ち震えてしまった。
事故。病気。事件。失踪。喪失。存在を……。
「まさか……」
その時、家の中に電話のベルが響いた。
(浩平?)
私は、慌てて受話器を手に取った。
「あ、もしもし、小坂さんですか?」
会社の知り合いの声だった。
明日は、出社できるのかという内容……。
「小坂さんがいないと仕事がはかどらなくて」
私は、曖昧に返事をしていた。
そして、時計の針が空を指すように、二つに重なった。
今日という日に終わりを告げる。
浩平は、まだ帰ってこない。
外は、あんなにも天気だった外の世界は、今は暗く、雨がざわめいていた。
浩平を探しに行こうと、私は傘を持って、玄関の扉を開ける。
そこには、夕焼け。
「え?」
あかい。大きくて、沈まない。いつだって、そこにある。
「……え?」
外は暗いままのはずだったのに……。
ここは、一体どこなのだろう?
それに応えてくれるかのように、ひとりの女の子が私の前に立っていた。
「……永遠はあるよ」
カメレオンの玩具をもって私に言う。
「……ここにあるよ」
「……みさおちゃん?」
いや、どこか違う。
面影は似ていたけど決定的なところでみさおちゃんではないように思えた。
でも、見たことある……。
どこでだったか、とても身近にいたような……。
栗色の髪……赤いリボン……。
「…………みずかちゃん?」
うわ言のように呟くと、少女はくすっと笑い消えていった。
私が見ていたのは薄暗い雲と、その陰に見え隠れしている月とになった。
それは、大きな月。
もう、夕焼けはない。
「……あれ?」
私は、目を閉じた。
「うそ、でしょう……?」
………。
……。
…。
気が付いたら定刻の時間を回っていた。
また仕事に集中していたようだ。
急いで荷物をまとめる。
「お先に失礼します」
私は同僚にそう挨拶して退出した。
もう狙っていたポジションは、回って来ないだろう。
課長に、と薦められたのも私は断ったのだから。
「小坂さん、飲みに行きましょうよ」
「また、今度ね」
私はそう応えるのが日常になっていた。
「ごめんなさい、付き合い悪くて」
時計を見る。
もうすぐ6時になろうとしていた。
「早く買い物に行かないと……」
お帰りなさいって言うために、私は家であの子の帰りを待っている。
ずっと、ずっと、いつまでも……。
……夏。
暑い夏の日。
私はひとりでお墓参りに来ていた。
『折原家代々ノ墓』
セミの声がうるさいくらいに山間の木々につかまって鳴いている。
「……久しぶりね、みさおちゃん」
水をかけて、花を添える。
……と思い見たところで、すでに花が添えられているのに気づく。
ここに来る人は、限られていた。
「そうか……」
今すぐ探せば会えるかも知れない。
でも今の私には、その勇気がなかった。
「また、会えるかしら……?」
この夏の日に……。
……秋。
木の葉が紅く染まり散っていく。
短い季節。
不意に悲しくなって涙が零れてしまう。
……優しくするんじゃなかった。
それ見たことか。
こうなるのは初めから分かっていたのだ。
大切な人が、突然……居なくなる。
それは、時に耐え切れないほど……悲しい。
姉さんの気持ちが、今ならよく分かる。
だから、こそ……。
前向きでいたいという姿勢は守りたかった。
前を見よう。
あごを引いて真っ直ぐに……。
……冬。
冷たい雨の音。のちに雪。
白い結晶が舞い降りる。
この町では珍しいもの。
でも、明日になれば陽射しに負けて、すぐにも解けて消えてしまう。
雪解けの水。
ほのかに光る日差しを浴びて、私の心も溶かしてしてくれるなら……。
草木の先端に、零れるシズクの糧になれるのなら……。
落ちていく玉のように、涙を零すことがなくなるのなら……。
……春。
穏やかな季節の到来は、風の中……。
そして、陽射し。
出会いと別れ。
交錯していく人の想い。
たくさんの人と出会って……別れて……。
これも日常で……。
それらを、甘受していく季節……。
でも……。
それでも、私は待っているのだ。
今でも、ずっと……あの子のことを……。
「うー、さすがに欠伸も出来なかったわね……」
この日は、卒業式……。
当然のように、折原浩平という名前は呼ばれることがなかった。
「……留年かもね」
有り得ないことじゃないので失笑してしまう。
「あれ? 由起子さんじゃないですか?」
「あ、瑞佳ちゃん? 久しぶりね」
この子と会うのも一年振りだ。
世間話に興じる。
もう瑞佳ちゃんにとっては、近所の知り合い程度の認識しかないのだろう。
あの子の名前は出てこない。
「瑞佳さん、そちらの方は?」
「えーと、由起子さん。里村さんも知ってるよね?」
「……はい。え? あれ? ……どうして? ずっと御礼を言おうと思っていたのに……」
里村さんのことは、私も覚えていた。
雨の日に倒れてしまい、浩平の頼みで面倒を診たことがある。
でも今は、浩平という接点がなくなって、私と会う必要はなくなっているのだ。
「いえ、いいのよ。大したこと出来なくて」
「……そんなことありません。ありがとうございました」
ぺこり、と丁寧に頭を下げられる。
「本当にいいのよ。それより……」
少し喉が震えた。
「瑞佳ちゃんのクラスって、人が少ないの? あまり居なかったみたいだけど……」
何を言ってるのか。何を言いたいのか。
「あ、それは転校していった子が居たからで……あれ? 名前……なんて言ったかな?」
「……相沢君のことですか?」
「うん、その子だよ。里村さん、よく覚えてるね、すごいよー」
「クラスメートの名前くらいは……覚えてとけ、と誰かに言われたような気がしますから」
「わー、わたしって駄目な子だもん」
「でも、ヘンですね。相沢君の代わりに留美さんが……」
「おーい、瑞佳、茜、こっちでみんなで写真撮ろって住井君が呼びかけてるよ」
「噂をすれば、なんとやら、ですね……」
「あはは、じゃあ、由起子さん」
手を振って、二人が去っていく。
……私も家路に付いた。
……いちねん。
長い。とてつもなく長い。
これからも、こうして私は生きていくのだろうか。
来ない人を待つ……。
それでも、自然に体は動いて、夕食の準備に取り掛かっていた。
ずっと、憧れていた。
こうやって、誰かと家族でいられること。
誰かを待つ喜びと、待ってくれている人のいる嬉しさと……。
「今日は、肉じゃが。昨日は、カキフライ……備え付けは、ゴボウサラダでいってみよう」
随分、料理は上手くなっていた。
でも、意味がない。
誰かが、食べてくれないと意味がない……。
食卓に並んだ料理、すべてが空しい。
過ぎ去って行く時間は惨酷……。
私の側に、あの子が居ないから……。
……もう、やめよう。
明日からは、また仕事に生きよう。
仕事をして、何もかも忘れてしまおう……。
今までのように、これからを……。
姉さんと同じ……。
ずっと同じだった。
ただ、逃げ込んだ場所が違っていただけなのだ。
こっちの方が、楽だから……。
それとも普通に生きて、見合いでもしようか。
……いえ、無理に決まってる。
もう、いやだ。
誰かを失うことはしたくない。
ひとりで生きよう。
幸せなんていらないから、不幸にはしないで欲しい……。
ピンポーン。
呼び鈴が鳴いていた。
出る気にはなれなかった。
でも、もうこれからは、ひとりで生きていくことになるから……。
強く在りたい……。
これは、その第一歩だった。
「はい」
『郵便です。荷物が届いています』
こんな遅くに?
「分かりました。すぐに出ます」
事務的に返して、判子をもって、玄関に向かう。
がちゃ。
玄関の扉が開かれる。
そこに、いた。
「はい、これは由起子さんにオレからの贈り物です」
両手でも持ちきれないくらいの花束を、あの子が私にプレゼントしてくれる。
「……馬鹿、こんなので騙されないからっ!」
「いや、ちょっと卒業式の打ち上げで遅くなっちゃって……」
「ご馳走作って……待ってるっていったでしょう?」
「だから、本当にごめん、由起子さん」
手の平を合わせてこちらに向かって笑いかける。
そう、こんなことで許してあげない。
もっともっと、いじめなくちゃ気がすまない。
「明日からは、夕食は浩平が作ること……いいわね?」
「ぐわー、味の保証はできないって!」
「それでも……作るの……!」
一年は長い……。
でも、こうやって瞬間、瞬間の喜びを分かち合えるなら……。
人に優しくするのは、優しくした分だけ、自分が優しい気持ちになれるから……。
「ただいま、由起子さん」
照れたようにあいつが言うから、私は……そう、嬉しいことで出てきた涙を拭って、前を見る。
そして、言うのだ。
「お帰りなさい、浩平」
この輝く季節への始まりに……。
「さようなら、浩平」
そして、少女の声が響いていた……。
嬉しそうに……。
悲しく……。
FIN.