『風の見える日』
「がたんっ」
大きな音を立てて重い扉は開く。
刹那、わたしに向かって強い風が吹きぬける。
3月の、山の方から下りてくる風はまだ冷たく、
急激に体温が奪われる感覚に襲われる。
扉を急いで閉めると、穏やかになる風。
それと共に小さな歌声が聞こえてくる。
あれはみさきの歌声、わたしは柵のそばに居るみさきに近づいてゆく。
「みさき、やっぱりここだったのね」
「あ、雪ちゃん」
ぱっと歌を止めてわたしに顔を向けるみさき。
顔はこっちを向いているけど、その瞳は少しだけわたしの瞳から外れている。
「雪ちゃんも景色を眺めに来たの?」
その、胸元に向けた視線のまま口を開く。
「誰かさんがサボってるから迎えに来ただけ」
「もしかして、私かな」
「もしかしなくてもそうよ」
わたしは溜息混じりに小さく呟いた。
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もうすでに母校となったこの学校。
もうしばらくは来ることもないと思っていたけど、
演劇部の子たちがどうしても手伝ってほしいことがある、ということで
せっかくなのでみさきも連れて母校に来ていた。
制服ではない、私服での登校、少し恥ずかしかったけど、
上月さんをはじめ、みんながわたしたちの私服姿を褒めてくれたのは嬉しかった。
みさきはそのまま再び山の方へと視線を向ける。
わたしもその横に並んで山を眺めている。
茜色に染まる木々、そして、雪。
みさきは再び、小さく歌を歌い始めた。
いつもと同じ歌、在校していた頃から変わらない歌。
いつも小さな声で歌うから、あまり内容はわからないけど、
なんとなく、みさきらしい歌だなって思っていた。
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「みさき、その歌いつも歌っているけど、なんていう歌なの?」
風の中に小さく言葉を溶け込ませる。
みさきはその歌を止めてちょっと恥ずかしそうな顔をわたしに顔を向ける。
「この歌は『風の見える日』っていう歌だよ」
嬉しそうに、笑顔で、答えを返してくれる。
なんとなくそんなところがみさきらしいな、と思った。
「私、歌は好きだよ」
「うん、わかるわ」
芸術の選択は音楽を3年間取り続けたみさき。
その毎時間、嬉しそうに授業に出ていたみさき。
歌を歌うときも嬉しそうに大きな声で歌っていた。
思い出してわたしは小さく微笑む。
3/3
「私、目が見えないでしょ?」
いつの間にか歌は止まり、視線がこちらに向いている。
穏やかな笑顔のまま、みさきは言葉を続ける。
「だから、感触とか、匂いとか、音とか、そういう情報が大切」
少し強めの風がみさきとわたしの髪を揺らす。
「風は色々な匂い、素敵な香りを運んでくれるから大好きだよ」
みさきは瞳を閉じて、深呼吸をする。
もう少しすれば桜も咲いて、みさきの楽しみがひとつ増えるのだろうか。
早く咲けばいいな、そんな風に思いながらみさきを見つめ続ける。
「音楽は色々な楽しいこと、悲しいこと、嬉しいこと、教えてくれるんだよ」
確かに音楽の持つ力は偉大。
演劇をしていたのでそれは嫌というほど知っていた。
「だから、歌を歌うと楽しくなったり、ちょっと悲しくなったり」
再びみさきは遠くの山へと視線を注ぐ。
「でも、その中でもなんだか元気になれるこの歌が、一番大好きなんだよ」
「そうだったんだ」
みさきの嬉しそうでいて元気な声、
わたしはみさきの歌を聞くために再び柵の際で横に並んだ。
「雪ちゃん、横に並ばれると私の下手な歌が聴こえちゃって恥ずかしいよ」
「いいじゃないの、減るもんでもないし」
「そういう問題じゃないよ」
「いいから、わたしは居ないものだと思って」
「うー、ほんと恥ずかしいんだけど…」
しぶしぶといった感じでみさきは再び口を開く。
みさきの優しい、それでいてやわらかい歌声は、
わたしの心まで元気に、そして優しくさせてくれるような、
そんな素敵な歌声だった。
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