875 :
琉一:
バシィッ! バシィッ!
サンドバックを蹴る音が、木々の中に吸い込まれ、消えてゆく。
物言わぬ砂の袋を前に、葵は一人で戦いを続けていた。
もう何分の間、葵はサンドバックを相手にしているか、分からない。
ただ、滝のような汗と、掠れた音を立てる乱れた息だけが、その時間の長さを物語っていた。
何かに取り付かれたかのように、葵は蹴りを繰り出し、拳を打ち込む。
だがいつものキレも、威力もとうに消え失せ、返ってくる音も、弱々しいものになる。
ぎしぎしと揺れながらも、サンドバックはその力を容易く吸収する。
「はぁ……はぁ……」
それでも葵は、一心不乱に攻撃を続ける。
憎しみや怒り、苛立ちをぶつけるためではないではない。
一寸の時を惜しんででも強くならねばならないという状況でもない。
ただ、いつもならここで……。
『葵ちゃんは、頑張るのはいいけど、その分ムチャするからなー』
『たまには息抜きをしないと、体が持たないぞ!』
そういって、止めてくれる人がいた。
「先輩……」
繰り出した拳が、汗で滑った。
崩れそうになる体を、サンドバックにすがりついて耐える。
サンドバックの冷たい感触が、頬に心地良く、そして悲しい。
固く、物言わぬ、ただの対象としてしかそこに存在できない物体。
そこには葵が求めている温もりはない。
「先輩……」
876 :
琉一:02/01/20 03:06 ID:hesDW98Q
たった、一週間のはずだった。
浩之が修学旅行に行って、僅か5日。
あと2日待てば会えるのに。
「どうして……」
最初の日は、それでも普段通りの練習ができた。
2日目は水曜日だったから、ここには来なかった。
そして3日、4日と、あまりにも静かで、寂しい神社で、
葵は練習に身を打ち込めず、ほとんどの時間をぼーっとして過ごした。
だから今日は、無理にサンドバックに打ち込んでみたのに……。
「あい、たい……」
一度打ち込みを始めた。
止まりかける体を、強引に動かして拳を繰り出した。
だんだん、だんだん、体が動き始めた。
いつしか、やめるのが恐くなった。
3分して、タイマーが鳴っても、振り向いたら、手を止めてしまったら、
先輩がいないという現実を認識してしまう……。
自分がひとりぼっちだということに気づいてしまう。
それが恐くて、悲しくて、ただ、なにも考えなくてすむように、サンドバックを叩き続けた。
「会いたいよ……」
拳が、喉が、なによりも胸が、じんじんと痛んだ。
寂しさを紛らわすためにやったはずなのに、終わったら、いっそう寂しくなった。
自分はこんなにも孤独な場所で、孤独な時間を過ごしていたんだと気づいて。