732 :
琉一:
カラン、コロン♪
ドアベルの音に、油彩棚を整理していた長谷部彩は、小さな声で挨拶する。
「いらっしゃいませ……」
彩のその声は、どう考えてもお客には届いていない。
だが礼儀正しいし、商品知識は豊富だし、真面目だし、なにより美人だし、店としては、彼女を重宝していた。
その真面目な彼女の手が、途中で止まった。彩の視線は、入ってきた人物に真っ直ぐ注がれていた。
前回の即売会で、同じテーブルについていた、千堂和樹だ。和樹は彩に気づかず、真っ直ぐ店の奥に向かう。
彩はにわかに、急いで棚の整理を終えようとする。
常人の7割ぐらいの速度だが、それでも彩の限界を超えているらしく、何度か絵の具チューブを落としたりした。
ようやく油彩棚の整理を終え、こっそりと和樹を捜す。
……いた。
コピックの棚で、何本か選んでは、試し書きをしている。
聞いてくれれば、すぐに答えられるのに……。
だけど自分から話しかけることはできず、やや棚の影から身を乗り出して、さりげなく立つ。
少しドキドキしながら、前のように、質問をしてくるのを待つ。
だが、和樹はそんな彩の想いには気づかずに、数本のコピックを手に取ると、今度はペン先置き場に向かった。
距離を詰めようとした彩の前で、和樹はペン先1セットを手に取ると、くるりと向きを変え、レジに向かった。
千堂がレジにつくまで、後10メートル。
その時、店の人間は、「お茶くみ人形」に例えられていた彩が、初めて小走りする瞬間を目撃した。
たまたま商品説明のために、レジ担当はその場を離れていた。
和樹の歩く棚の裏側を回り、そこに彩は滑り込む。
走ったためか、別の理由か、彩の呼吸は微かに乱れていた。
そんな彩の様子に気づかず、和樹は無造作に、商品をレジにおいた。
「あの……いらっしゃいませ」
精一杯の声を振り絞り、顔を上げる。正面に立つ和樹と目があった。
「あれ……、キミ……?」
「あ、あの…………いらっしゃいませ」
また同じ事を繰り返してしまう、彩だった。
今夜はもう寝るよ……<<彩>>の足をマッサージする夢でも見ながら……。