【Lost in the Whiteout】(由綺×理奈で)
午前0時過ぎ。
控え室に特有の壁一面を使った鏡には、私――緒方理奈の姿しか映っていない。
ついさっき、私は目まぐるしい一日のスケジュールから解放されたばかりだった。
気だるさと解放感が少しずつブレンドされて、心地良い疲れが体を包んでいる。
後はシャワーを浴びて帰るだけ。
でも、紙コップ一杯分の休憩ぐらいしていってもいいだろう。
がんばった自分へのご褒美だ。ちょっとぐらい兄さんを待たせてやろう。
派手な広告ロゴの入った紙コップをぎゅっと握ると、手に心地良い温もりが伝わってくる。
固いウレタン椅子に浅く腰掛けて、背もたれに寄りかかって伸びをした。
がらんとした控え室では、仕事で火照った体もすぐに冷えてしまう。
もう少し休んだら、手早くシャワーを浴びてさっさと帰ろう。
そう思ったとき、出入り口のドアを控えめに叩く音がした。
誰だろう。こんな時間に…。
「開いてるわよ。どうぞ」
半開きのドアからよく知った顔がのぞいたのを見て、私は肩の力を抜いた。
「なんだ、由綺だったの」
「こんばんは…理奈ちゃん。ちょっとお邪魔してもいいかな?」
由綺は中途半端に顔だけ出したまま、はにかむようにこちらをうかがっている。
「気をつかう仲でもないじゃない。入ったら?」
「うん、ありがとう」
由綺は嬉しそうに微笑むと、後ろ手にドアを閉めて部屋に入ってくる。
カチャリ、と鍵の回る音がした。
<続く1/8>
“あなたも座ったら?”という言葉に笑顔で首を振って、由綺は私の椅子の後ろに立った。
鏡越しに視線を合わせた由綺は、なんだか楽しそうに見える。
この娘も、ハードな一日が終わってホッとしてるんだろう。
解放感を共有する相手が居るのがなんだか嬉しくて、私は鏡の中の由綺に笑いかけた。
「お疲れさま。由綺も、今日はもう上がりなんでしょ?」
「…うん」
「一緒に帰る? それとも何か用事だった?」
しかし、由綺はそれには答えずに、突然後ろから肩越しに顔を寄せてきた。
鏡の中から、私の目を見つめたまま――。
「ちょっと…どうしたの? 私の顔に何か付いてる?」
耳もとで小さな吐息が聞こえた。
由綺のなめらかな髪が、私の肩に落ち掛かっている。
「……由綺?」
頬が触れあうほどの距離に由綺の顔があった。
「付いてるよ…可愛い目がふたつ……」
「なによ、それ」
私は思わず声を上げて笑ってしまった。
由綺も楽しげにくすくす笑っている。
柄にもなくドキドキしてしまった自分が馬鹿みたいだ。
「もう、由綺…。そんなこと言いに来たの?」
それにしても、何ごとも控えめな由綺が、自分からこの手のジョークを言うなんて――。
「お仕事は、けっこう前に終わったんだよ。でも、理奈ちゃんに会いたくなっちゃって…」
「え?」
<続く2/8>
そこで、由綺は急に声のトーンを落とした。
「ごめんね…理奈ちゃんも疲れてるのに…。押し掛けて来ちゃって」
吐息のように静かに、由綺の口から言葉が洩れる。
うつむいて、伏し目がちに、つぶやくような声で。
「私ね、寂しかった…」
その様子を見て、私は急に由綺が愛おしくなった。
きっと、少し疲れが出たんだろう。
考えてみれば、ここ数日の兄さんの入れ込みようは凄かった。
いつもは私たちの健康管理にも抜け目がない人だけど、ときどきどうしても妥協できなくなるらしい。
仕事の合間に、寝る間も惜しんでレッスン、レッスン、レッスン…。
昔から兄さんの無茶には慣れてるはずの自分だって、もう疲れ果てているくらいだ。
それに、冬弥君に会う時間だって作れなかっただろう。
ひょっとしたら、ADアルバイト中の冬弥君と会った回数は私の方が多いぐらいかも知れない。
チクリと胸が痛む。
いくら芯が強くて弱さを人に見せない由綺でも、参ることぐらいある。
そういうことなんだろう。
妙にはしゃいでいるように見えたのだって、そういう感情の裏返しかも知れない。
もともと由綺は多感な娘だから、少し情緒が不安定になってるんだ。
「あやまることなんてないでしょ? 私たちは友達なんだから、気をつかうことなんてない」
「理奈ちゃん…」
由綺の目が少し潤んでいた。頬も赤くなっている。
やっぱり、冬弥君は地獄行きに決定だと思う。
この娘にこんな顔をさせて…。
私にこんな思いをさせて…。
私はそっと、由綺を抱きしめてやった。
<続く3/8>
突然、首すじで湿った感触が動いた。
「きゃ…」
驚いて抱擁を解くと、由綺が顔を上げてにこにこと笑っている。
どうやら、唇でいたずらされたみたいだ。
「あなたねえ…」
見ると、由綺の白い頬が微かに上気していた。
少しとろんとした瞳が、ものすごくコケティッシュに見える。
「由綺?」
「寂しいから、理奈ちゃんに仲良くして欲しいな…って」
やっぱり、なんだかいつもの由綺と違う。
疲れてセンシティブになってるとか、そういうのとは少し違った…。
寂しいと言う由綺の気持ちは分かるけど、こういうのはちょっと抵抗がある。
「私、そろそろ行くわ。由綺も帰った方がいいと思う。明日も休みじゃないんだし」
鍵を開けようとドアに近づくと、先にドアノブをつかまれてしまった。
「ダメだよ、理奈ちゃん。もうちょっとだけ…ね?」
この娘が、こんなに積極的に意思を示すなんてめずらしい。
わずかな違和感…。
その一瞬の虚を突いて、由綺が横から顔を寄せてきた。
すっ…と。唇の上を、温かくて柔らかい感触が通り過ぎる。
――触れるだけの軽いキス。
由綺は素早く一歩さがって、唇に指をあててくすくすと笑った。
「理奈ちゃんとキス…しちゃった」
汗ばんだステージ衣装の下で、心臓が壊れたポンプみたいにでたらめに跳ね回っている。
内心の動揺を強引に押さえ込んで、私は注意深く笑顔を作った。
「ちょっと…由綺、そういう悪ふざけは似合ってないわよ」
「私…ふざけてなんかないよ」
<続く4/8>