SS統合スレ♯8

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296夏の幻想 1
 初めてあの人を見たのは夏を直前に控えた、6月の終わりの
夕暮れだった。
 高校の部活を終え、ちょっと疲れた身体を引きずるようにし
て海岸線の道路を歩いていると、自動販売機が目に付いた。
 喉も乾いていたし、ちょうどいいや、と一休みしようとポケ
ットから財布を取り出しながら自動販売機に近づくと、すでに
先客がいたのに気付いた。
 そこにいたのは長い髪を後ろでまとめ、スーツに身を包んだ
女性だった。見た目の年齢は―――20代後半だろうか。
 切れ長の鋭い、しかし優しそうな目。
 やや赤い、というよりも紫色に近い長い髪。
 そして着こなしたスーツ。
 綺麗なお姉さん、それが第一印象だった。
 流れるような手つきで缶コーヒーを自動販売機から取り出し、
一息にそれを飲み干すとそのお姉さんは空き缶となったそれを
自動販売機の横にあるくずかごに投げ入れた。
 その一連の動作がとても美しく、僕には眩しいものに見えた。
 ぼー、と見とれていると、お姉さんが小脇に抱えていたヘル
メットをおもむろに被り、自動販売機の側に停めてあったバイ
クにまたがった。。
 ヴォン!とエンジン音が夕暮れの風景に響く。
 そのバイクの真っ赤なボディは、夕暮れの光に照らされ、更
に紅く、映えて見えた。
 時間を確認するように腕時計に視線を落とし、再び顔を上げ
るとお姉さんは爆音を響かせ、走り出した。
 あっと言う間にお姉さんは見えなくなってしまった。
 遠くから、時折バイクの排気音だけが響いてきた。
 夕暮れが夜の闇の変わった頃、ようやく僕は我に帰り、自動
販売機からジュースを買い、それを飲みながら歩き出した。
 胸が何故か、高鳴っていた。
297夏の幻想 2:02/01/20 16:16 ID:kV32s2Za
 あっという間に夏休み前の最後の試練―――一学期の期末テ
ストが終わり、僕は夏休みを迎えていた。
 テストの結果は・・・・・・まあ、補修授業に出る事無く、こうし
てグラウンドで部活が出来る。それだけ言っておこう。
 真夏の日差しに照らされながら、僕はセンタリングされたボ
ールを胸で受けた。
 バチンッ!と音がなるほど激しいパスだったが、なんとか胸
でトラップする。
 Tシャツは既にもう、脱ぎ捨ててあった。
 汗を吸い込み、もはやそれはTシャツとして意味をなしてい
なかったからだ。
 他の部員も、全員上半身裸だった。
 休憩を促す笛の音が鳴り響き、僕はグラウンドに設置されて
いる水飲み場まで走った。
 蛇口を限界までひねり、吹き出した水の中に頭を突っ込む。
 冷たい水が心地よかった。
 ぱさぱさに乾いた髪を冷水で潤し、頭を降る。
 水しぶきが夏の光を受け、輝いた。
 後輩から受け取ったタオルで頭を拭いていると、遠くからバ
イクの排気音が聴こえて来た。
 まさか、とは思ったがやはりそれはあのお姉さんのバイクだ
った。
 校門からその真っ赤なバイクが突っ込んできて、生徒用玄関
の目の前に横付けされた、と同時にお姉さんがヘルメットを脱
ぎ捨て、校舎へ走り込んだ。
 暫くすると、一人の髪の長い女の子を背に担ぎ、お姉さんが
校舎から出てきて、そしてそのままバイクにまたがると爆音を響かせ走り去ってしまった。
 僕はそれを呆然と見ていることしか出来なかった。
298夏の幻想 3:02/01/20 16:17 ID:kV32s2Za
 部活の無い休日、僕は部活の仲間とともに、町の商店街にあ
る玩具屋にいた。
 というのも、この町はゲーム屋が無く、ゲームを買うとなる
とこの玩具屋しかなかったのだ。
 部活の仲間とあのゲームは面白かった。あれは糞ゲーだ、な
どとゲーム談義に夢中になっていると、店員の声が響いた。
「いらっしゃいませー」
 その声に反射的に振り向くと、そこにはあのお姉さんがいた。
「ぬいぐるみ・・・・・・でええやろか」
 と呟きながら、ぬいぐるみコーナーに足を向け、お姉さんは
歩き出した。
「恐竜・・・・・・あった。あ、でももうこれと同じ物持っとるみた
いやし・・・・・・ああ、どれ持ってへんのかわからへん」
 恐竜のぬいぐるみをあれこれと選びながらも、それでもお姉
さんは嬉しそうだった。
 誰かへのプレゼントだろうか。
 いや、多分そうなんだろう。
 というのも、この前、お姉さんが女の子をバイクで連れて帰
った後、後輩から聞いていたのだ。
『俺のクラスの神尾っていう女、なんか病気らしくてよく癇癪
起こすんですよ。んでよく母親が迎えにくるんです』
 とその後輩は言っていた。
 恐らく、その子へのプレゼントなのだろう。
「お、これはたしか持ってあらへん・・・・・・う、ごっつ高いわ。
でもあの子喜ぶやろうし・・・・・・」
 暫く、お姉さんが首が長い恐竜のぬいぐるみとにらみ合って
いると不意に立ち上がった。
「決めた。これにするわ」
 そう呟きつつ、お姉さんは嬉しそうにそれを買っていった。
 それを見て、僕もなんだか嬉しい気持ちになってしまった。
299夏の幻想 4:02/01/20 16:17 ID:kV32s2Za
 玩具屋であのお姉さんを見かけてから数日後、部活の休憩時
間に僕は後輩にあのお姉さんと女の子についてさらに詳しい話
を聞いた。
『いや、俺も親から聞いただけなんですけど、結構この町じゃ
有名ですよ。あの家』
 後輩はそこで意味ありげに言葉を切り、また続けた。
『ほら、よく癇癪を起こすって前に言ったでしょう・・・・・・?
あれ、保育園の頃かららしいんです。少なくとも今年の春に俺
と神尾が同じクラスになってから、一ヶ月に一回は癇癪起こし
ていて・・・・・・もうクラス中も慣れっこというか、無視している
感じで・・・・・・一部の奴らに変な噂なんか立てられてて』
 もっと詳しく、とせっつくと、後輩がため息をついてまた話
だした。
『それに、あの親子、本当の親子じゃないんですよ。確かあの
母親のお姉さんの娘らしいんです。どんな事情があるかは知り
ませんけどね』
 そこまで言うと、後輩は喋りすぎたか、というような表情を
して、練習に戻っていった。
 僕はというと考え込んでしまっていた。
 あのお姉さんは、僕ぐらいの年齢にあの子を引き取ったのだ
ろう。
 どれだけ苦労したのか、容易に想像が出来る。
 なんでだろうか。
 なんで、これほどまでにあのお姉さんの事が気に掛かるんだ
ろうか。
 同情?
 好奇心?
 いや、違う。
 そんなものじゃない。
 今の僕の気持ちは。
300夏の幻想 5:02/01/20 16:18 ID:kV32s2Za
 八月に入り、夏がさらに深まった。
 蝉の鳴き声に耳を傾け、商店街に向う道を歩いていると、女
性の叫び声が聴こえた。
「観鈴を連れていかんといてやっ!」
 弾かれるようにその声のするように走った。
 門を曲がると、驚くべき光景が繰り広げられていて、慌てて
身を隠した。
 伺うようにそっと壁から覗くと、あのお姉さんと若い男が何
やら言い争っているようだった。
 観鈴、という名前は聞き覚えがあった。
 たしか、あのお姉さんが学校に迎えに来た女の子の事だ。
 そしてその子は・・・・・・車椅子に座り、大人二人の言い争いを
見上げていた。
 あの印象的な長い髪は肩口で切りそろえられていた。
 病気なのだろうか。
 ただ気になったのはそんな事ではなく、どこか幼い表情をし
ている事だった。
 まるで全てを忘れてしまったかのような。
 気がつくと、言い争っていた男が踵を返しこちらに歩いてこ
ようとしていた。
 慌てて身を隠す。
 男は僕に気付く事無く、立ち去っていった。
 また様子をうかがうと、お姉さんが車椅子を押して歩いてい
く所だった。
 その後姿があまりにも儚く途方にくれていて、思わず手を伸
ばして声を掛けそうになってしまった。
 でも、掛けるべき言葉なんて見つからなかった。
 何を言えばいいんだ。
 向こうは、僕の事なんて知らないのに。
 夏の日差しとは対照的に、僕の気持ちは暗く沈んでいた。
301夏の幻想 6:02/01/20 16:18 ID:kV32s2Za
 その晩、僕は布団の中で、身悶えていた。
 いきなり現実を突きつけられてしまったような・・・・・・そんな
感じだった。
 あの人は僕よりずっと年上で、それでいて義理とは言え一児
の母で、そして・・・・・・。
 胸で燻っているのは拙い慕情。年上の女(ひと)への憧れ。
 頭の中に渦巻いているものは・・・・・・悩み、葛藤。
 そして・・・・・・嫉妬。
 いったいあの男は何者なんだろう?
『観鈴を連れていかんといてや!』
 あの人はそう叫んでいた。
 まるで自分の一番大切なものを奪われるかのような必死の表
情で、涙を流して。
 恐らく、あの男は観鈴というあの女の子の本当の父親なのだ
ろう。
 だからといって・・・・・・十年も放置しておいて、急に連れ去ろ
うというのは許せないだろう。
 あの人にしてみれば。
 何か、してあげたかった。
 でも、何も出来ないのは自分でもわかっていた。
 何か、声を掛けてあげたかった。
 でも、何て声を掛ければいいのかわからなかった。
 僕にはどうする事も出来ない。
 僕は他人だから。
 それが、とても悔しかった。
 もう、あの人の事は忘れよう。
 そう、思った。
 そう、思う事にした。
302夏の幻想 7:02/01/20 16:19 ID:kV32s2Za
 それから僕は極力、あのお姉さん―――あの人の事を考えな
いようにしていた。
 考えれば考えるほど、自分の無力さに心が沈んでしまう。
 だから、考えない。
 幸い、最近はあのバイクを見かけることも無かったし、排気
音が聴こえてくる事も無かった。
 それが良くも悪くも、今の僕には嬉しかった。
 でも、夏も終わりに近づいていたあの日、僕はまたあの人に
会ってしまったんだ。
 よりにもよって、あんな時に。

 その日は前日の嵐のせいか、町じゅうに篭っていた熱気が吹
き飛ばされたかのように清清しかった。
 日差しはいつものまま、照り付けていたけれど、それでも優
しかった。
 部活帰り、棒アイスを口に咥えながら自宅への家路をたどっ
ていると見慣れた人が道路にうずくまっていた。
 慌てて踵を返そうとした。
 忘れようとしている人が、そこにいた。
 二、三歩走り出し、また僕は足を止めた。
 よくよく考えると、様子が尋常ではなかったからだ。
 あの人の背中は震えていて、あの人がいる場所から少し離れ
た場所に車椅子だけがぽつん、と置かれていて・・・・・・。
 蝉の鳴き声にかき消され、先ほどは聴こえなかったけど、あ
の人の嗚咽が響いていて。
 僕は慌ててあの人の所へ駆け寄った。
「ど、どうしたんですか?」
 その声に振り返ったあの人の顔は涙に濡れて、ぐしゃぐしゃ
になっていて、そして・・・・・・その胸にはあの子が眠るように抱
かれていた。
303夏の幻想 8:02/01/20 16:20 ID:kV32s2Za
「き、救急車・・・・・・呼んでくれへんか?」
 あの人は悲痛な声で、それだけ僕に伝えると押し黙ってしま
った。
「きゅ、救急車って」
 僕は動揺してしまった。素人目にも分かった。
 その人の胸に抱かれている女の子にはもう、生命が宿ってい
ない事が。
「あ、ああ・・・・・・この子な、うちの娘やねん。大事な・・・・・・大
事な一人娘やねん。何や、今はちょっと疲れて眠っとるだけや。
心配あらへんねん。でも・・・・・・一応救急車を呼んだ方がええや
ろ?」
 その人は、そう言って笑った。
「だから・・・・・・早く、早く救急車呼んでやっ!」
 そう絶叫し、だらり、と力が抜けきっている自分の娘の身体
を抱きしめ、また泣き出してしまった。
 僕はその声に促され、少し先にあった商店の外に備え付けら
れた公衆電話から、救急車を呼んだ。
「まだ、生きとるんや。そうに決まっとる!」
 そう絶叫しながらさらに激しく、きつくその子を抱きしめる。
「やっと、やっと親子になれたんや。血の繋がりなんて関係あ
らへん、気持ちで繋がっとる本当の親子やっ!」
 その人はそう叫んで、力なくまた、泣き出した。
「本当の・・・・・・親子なんや・・・・・・」
 そう呟いた言葉は蝉の鳴き声にかき消された。
 夏の日差しに照らされ、僕はその人の側に立ち尽くす事しか
出来なかった。
 その人が漏らす嗚咽と、蝉の鳴き声だけが辺りに響いていた。
 見上げた空には夏の太陽と、流れる入道雲だけがあった。
 遠くから救急車のサイレンの音が響いて来るのにはもう少し
だけ、時間が掛かりそうだった。
304夏の幻想 9:02/01/20 16:21 ID:kV32s2Za
 気がついたら、家にいた。
 あの後の事は正直覚えていない。
 救急車が来て、あの人と娘さんを乗せて走り去った所までは
覚えていた。
『な、頼むわ、うちの娘を助けてやっ!』
 もう冷たくなりかけたその身体にすがりつき、そう救急隊員
に向って泣き叫んだあの人の顔だけが、瞳の奥に焼きついてい
た。
 その後はどういう道順で、どのように家に帰ってきたのか、
さっぱり覚えていなかった。
 あの人は・・・・・・あれからどうなったんだろう。
 何を思っているんだろう。
 娘の死を受け入れる事が出来たのだろうか。

 それから数日、僕は何も考える事が出来ず、部活にも出ない
で家に閉じこもった。
 部活の顧問には体調がわるいので、とだけ断った。
 心配した後輩から電話が掛かってきて、ようやく僕は家を出
る事にした。
『明日、神尾の通夜があるんです。クラス全員一応出る事にな
って・・・・・・それで先輩も無関係じゃないんで、一応伝えておこ
うと思って・・・・・・』
 僕が救急車を呼んだ、というのは知れ渡っているんだろう。
 その後輩の言葉でそう察する事が出来た。
 なら、出ないわけにはいかない。
『わかった。伝えてくれてありがとうな』
 とだけ返事をして、僕はまた考え込んでしまった。
 なんて、言葉を掛ければいいのだろう。
 伝えるべき言葉が、見つからなかった。
 見つける事が出来なかった。
305夏の幻想 10:02/01/20 16:21 ID:kV32s2Za
 通夜があるその日は雨が降っていた。
 まるで天が悲しみ、涙を流しているかのように、しとしとと
雨が降りしきっていた。
「あ、先輩」
 記帳の列に並んでいた後輩から声が掛けられた。
「・・・・・・おう」
 とだけ返事を返し、僕は記帳の列の最後列に並んだ。
 後輩もそれ以上、声を掛けてくる事は無かった。
 僕もそれ以上、何も言わない。
 誰の言葉も聴こえてくる事は無かった。
 雨が地面に降り注ぐ音だけが、響いていた。
 最後尾から辺りを見回すと、学校の制服に身を包んだ数十人
の生徒がいた。
 恐らく同じクラスの生徒だろうか。
 誰も泣いていなかった。
 暗い表情はしていたものの・・・・・・誰一人、涙を流す者はいな
いようだ。
 それがあの子の高校生活の全てを物語っていた。
『もうクラス中も慣れっこというか、無視している感じで』
 という後輩の言葉が思い出される。
 あの子はいつも孤独で、悲しんでいたのだろう。
 胸に込み上げてくるものがあった。
 表現しきれない、不思議な感情だった。

 やがて記帳も済み、僕は本堂へと足を踏み入れた。
 焼香はもう始まっていて、僕はその列に並んだ。
 親族席に、ぼー、とひざを抱えて座り込んでいる、あの人が
見えた。
 その表情は遠すぎて見えないが、それでも雰囲気で尋常では
ない事が伺えた。
306夏の幻想 11:02/01/20 16:22 ID:kV32s2Za
 何を言えばいいんだろう。
 何て声を掛ければいいのだろう。
 心の奥でそれだけがぐるぐると回っていた。
 気がつくともう、僕の番だった。
 作法通りに焼香を済ませ、あの人に向かい、一礼する。
 顔を上げると、あの人の表情が目に映った。
 力が抜けていて、さらに生気さえ抜けきったような表情だっ
た。
 まるでこの世の全てを諦めたような。
 そんな、悲しい顔だった。
「・・・・・・っ」
 何か言おうとした。
 でも、言葉が見つからなかった。
 辺りに視線を彷徨わせると、あの子の遺影が見えた。
 遺影の中のあの子は、ピースサインをして笑っていた。
 そうだ。
 あの子は、最後には笑っていたんだ。
「あの子は・・・・・・僕が見た時、笑っていました。あなたの胸の
中で、本当に幸せそうに・・・・・・笑っていました」
 それ以上、言葉が出なかった。
 それだけしか、伝える事が出来なかった。
 例え僕が掛けた言葉がその人の心の傷口を掻き毟るだけだと
気付いていても。
「あ・・・・・・うぁ・・・・・・ひぃ・・・・・・ん」
 その人は僕を見上げ、悲痛な泣き声を上げた。
 僕はその声から逃げるように、踵を返した。
 本堂から出ると、涙が零れた。
 雨はまだ降っていた。
 まだまだ、降り止みそうに無かった。
 あの人も、まだ泣き続けるのだろう。
307夏の幻想 12:02/01/20 16:22 ID:kV32s2Za
「ま、これでもう授業中に癇癪起こされて迷惑掛けられる事も
なくなるな」
「ひひ、そうだな」
 というやり取りが聞こえてきたのは、寺の境内を出る瞬間だ
った。
 慌ててその声がした方へ視線を移す。
 あの子と同じクラスの奴だろう。
 そんな事を言いながら、笑っていた。
 身体が震えた。心が熱くなった。
 たまらず走り、片方の方を殴った。
「っ痛!」
「て、てめぇ、何すんだよっ!」
 僕は無言でさらに殴った。
 殴られて倒れ込んだ奴の腹部をさらに蹴上げる。
 サッカー部で鍛えているんだ。僕の蹴りはさぞや効くだろう。
 もう一人の方に向って、僕は感情に任せて怒鳴りつけた。
「『迷惑掛けられる事もなくなるな』だって!?」
 怒鳴りつけ、また殴った。
「よくそんな事が言えるな!不謹慎だろうがっ!」
 再度、また怒鳴りつけるとその二人組みは顔を見合わせた。
「お、おいっ!こいつ3年のサッカー部の・・・・・・!」
「うぁっやべぇっ!」
 そう叫び、逃げようとした先にはサッカー部の後輩がいた。
「逃がさないよ」
 と後輩が笑い、一人に殴りかかった。
「お前ら、神尾が生きていた時、根も葉もない噂立ててたろ!」
 その声にさらに僕の気持ちが昂ぶった。
 やがて警察が駆けつけるまで、僕と後輩と、その二人は殴り
合いを繰り広げた。
 胸の奥で、何かが燻っていた。
308夏の幻想 13:02/01/20 16:23 ID:kV32s2Za
 あれから2週間が過ぎた。
 部活は活動停止、僕と後輩は自宅謹慎となっていた。
 でも、部活の連中は僕と後輩をその事で責める事は無かった。
『俺がその場にいたら、間違いなく加わっていたよ』
 という主将の言葉が嬉しかった。
 あの二人組は停学になっていた。
 というのもクラス中が学校側に全てをぶちまけたのだ。
 根も葉もない噂を立て、あの子を苦しめていた事も、通夜の
席での目に余る行動も何もかも。
 別にあの子は嫌われていたわけではない。
 それがわかった。
 ただ、どう接していいのか判らなかっただけだ。

 自宅謹慎も解け、ようやく学校に通いだした僕はあの人の事
が気に掛かっていた。
 あれから、どうしたんだろう。
 どうやって、過ごしたんだろう。
 まだ、泣いていないだろうか。
 まだ、苦しんではいないだろうか。
 いや、それはしょうがないだろう。
 一人娘を亡くしたのだから。
 そんな事を思いながら道を歩いていると、幼稚園が目に入り、
思わず足を向ける。
 懐かしいな、などと感慨にふけっていると、園児達が笑って
楽しそうに遊んでいた。
 それこそ、心底楽しそうだった。
309夏の幻想 14:02/01/20 16:23 ID:kV32s2Za
 ぼー、とその風景を眺めていると、そこにいるはずのない人
の顔が見えた。
「晴子せんせー、あそぼっ」
 園児達があの人の手をひく。
「未来ちゃんっ、わかったわかった、そう引っ張らんでええ!」
 と言ったあの人は・・・・・・笑っていた。
 僕はそれを見て、身体が震えた。
 嬉しかった。
 あの人はまた、歩き始めたのだ。
 自分の意志で。
 それだけ確認すると、僕は家へと再び歩き出した。

 あの夕暮れに感じた感情は、あの人への慕情。
 夏の始まりが告げた、淡い恋。
 それは思春期の子供が年上の女性に感じる、憧れ。
 ようやく、それが終わりを告げた。
 夏の終わりとともに。
 あの優しそうな瞳が好きだった。
 娘の事を想い、悩んでいるあの人を見るのが好きだった。
 でも・・・・・・もうそれも終わった。
 それでいいと思った。
 それは誰しもが通り過ぎる、人生の通過点の一つだから。
 それは夏が作り出した、一つの幻想。
 あの人が自分で歩き出したように、僕も歩き出さなければ
ならない。
 ならば、歩き出そう。
 いや、歩き出さなければならないんだ。
 空の彼方に見えた飛行機雲を追いかけて、僕は走り出した。

―――了