疲れた身体を引きずってようやく家にたどり着いた。
「ただいま」
そういいながら玄関の扉を開けると、パタパタと足音を鳴らし
ながら浩平が出迎えに来てくれた。
「叔母さん、お帰りなさい」
と別段変わる風でもなく、いつものようにそう言ってくれる。
ただ、一つだけいつもと違ったのは後ろ手にして隠すように、
B5サイズほどの紙を持っていることだ。
学校のプリントだろうか。
「あら、浩平。何それ?」
一応保護者となっているので、学校のプリントならば目を通さ
なければならない。
そう思い、浩平にそう尋ねる。
「な、なんでもないよ」
浩平は慌てたようにそう言って、走り出した。
「あっ、こら、待ちなさいっ」
ハイヒールを脱ぎ捨て、慌ててスリッパを履き浩平を追いかけ
る。
階段を駆け上がるように登ろうとしていた浩平の首根っこを引
っつかみ、居間へと引きずっていくとようやく浩平が白状した。
「・・・・・・明日、授業参観日なんだ」
居間のソファーの上で、浩平がうなだれるようにそう呟いた。
「明日って・・・・・・、なんでもっと早く言わないの?」
言いながら、プリントに記載された日付を確認する。
その日付から、もう一週間以上前に配布されたものである事が
見て取れた。
プリントから顔を上げ、少し睨むようにして浩平を見ると、浩
平はそっぽを向くように視線を私からそらして、また呟く。
先ほどの呟きよりもさらに小さな声で。
「だって・・・・・・叔母さん忙しいから」
「忙しいからって・・・・・・、一週間も前に言ってくれれば出れるよ
うに調整できたのよ?」
その言葉にまた浩平がうなだれる。
「・・・・・・明日はどうしてもはずせない仕事があるから出られない
けれど、今度からこういう物はすぐに見せなさい」
諭すようにそう言っても、浩平はうなだれたままだった。
「返事は?」
ともう一度きつく言うと、ようやく浩平が顔を上げた。
何かを堪えるように、目に涙を溜めて。
その表情を見て、私は呆然としてしまった。
「わかったよぅっ」
そう、叫ぶように声を上げ、浩平はそのまま走り出した。
「あっ浩平っ!?」
慌てて立ち上がり、浩平の後を追おうと走り出す。
「待ちなさいっ!」
階段を駆け上がると、浩平が自分の部屋に入り、扉を閉めるの
が見えた。続けて鍵を閉める音が廊下に響き渡った。
慌てて、浩平の部屋の前へと駆けつける。
「浩平、開けなさい」
言いながら、ドアノブを回す。
しかし、ガチャガチャと音がしただけで、一向に扉が開く様子
は無かった。
「・・・・・・ひ・・・・・・ぐすっ・・・・・・」
扉の向こうから、浩平の押し殺した鳴き声だけが、聞こえてき
た。
私はただ、それに耳を傾ける事しか出来なかった。
次の日の朝、私が仕事へ行く時間になっても浩平は部屋から出
てくる様子は無かった。
「浩平、学校には行くのよ?」
と一言だけ、浩平の部屋の扉の前から声をかけ、私は家を後に
した。
別に、浩平の授業参観に出たくないわけじゃない。
ただ、仕事が忙しいのだ。浩平もそれは理解してくれている。
そう思っていた。
しかし、昨晩、あの何かに耐えているような表情で泣いていた
浩平の泣き顔を見てから、どうもその自信が揺らいでいるように
思えた。
考えれば浩平はまだ小学校2年生だ。
まだ甘えたい盛りなのだ。
出来る事なら、もっと浩平に「親」とはいかなくとも、「親の
代わり」として何かをしてあげたい。
でも、有り余る程の量の仕事がそれを許してくれなかった。
私が一日休むだけで、その間止まってしまう案件が何件もある
のだ。
仕方が無い。
そう納得しようとしても、何故か妙に心に引っかかるものがあ
った。
「小坂せんぱ〜い。どうしたんですか?浮かない顔をして」
次から次へと流れてくる仕事を捌いていると、心配したように
隣の席から後輩の安田美香が声を掛けてきた。
「別に・・・・・・何でもないわよ」
捨て置くようにそう呟くと、安田が少しだけ怒ったような表情
をした。
「別に・・・・・・なんて言われても、顔をみれば分かりますよぅ〜」
言いながら、問い詰めるように私の方へ身を乗り出した。
安田はこうなってしまっては自分が納得するまで引こうとはし
ない。
それをもう何回も見てきたので、私はため息をつきながら、昨
晩の事を説明した。
「あ、あたし、浩平くんの気持ちわかるな〜」
全てを話し終えると、安田が頷きながら、そう漏らした。
「安田が?」
思わぬ言葉にそう、尋ねる。
「あたしの家、両親が共働きだったから、あんまり授業参観なん
て来てくれなかったんですよ〜」
少しだけ、悲しいような顔で安田が言葉を続ける。
「その頃は無理だと知ってても、やっぱり『来て欲しい』って思
ってましたよ〜」
言い終えて、急に安田が真面目な表情になった。
「せんぱい、浩平くんの所に行ってあげるべきです」
そう言って、安田はまたとろん、としたどこか足りないような
表情に戻った。
「行ってあげるべき・・・・・・か」
反芻するように安田の言葉を繰り返し、呟いてみた。
そして目を閉じる。
目を閉じると、脳裏に父や母の顔が浮かんだ。
私が小学校の時は必ず、父か母が授業参観に出てくれた。
授業参観日に親が来られない子供の気持ちなんて、一度も味わ
った事が無かった。
他の子供達は親が見に来てくれているのに、自分だけ親が来て
くれないなんて、どれほどの疎外感、孤独感だろうか。
ただでさえ、浩平は父親とは死別し、母親は行方不明となり、
さらには妹まで病気で亡くしている。
どれほど、孤独なのだろう。
どれほど、悲しいのだろう。
目を開けると、私は勢いよく立ち上がった。
安田がびっくりして私を見上げるほど、勢いがついていたのだ
ろう。
フロアにいた全員が、私を見ているのが分かった。
その視線をことさら無視しながら、唖然と私を見ている上司の
元へと歩を進める。
「な、どうした?小坂くん」
口をぽかんと開け、私を見上げている上司に向かい、私は口を
開いた。
「息子の授業参観があるので、早退させていただきます」
そう告げると、上司は表情もそのままに私に言葉を返した。
「息子って・・・・・・君は独身じゃ・・・・・・?」
「未婚の息子です」
「いや、そうか」
動転しているのか、上司は意味不明な事を言っていた。
「ではそういうわけでして、早退してもよろしいでしょうか?」
「あ・・・・・・う・・・・・・」
返答につまっている上司をにさらに詰め寄ると、フロアの入り
口から声が響いてきた。
「I allow. Go.(私が許す。行きなさい)」
その言葉にフロアに居た全員が声のした方を振り向く。
「あ、これは上級副社長」
課長が慌てて立ち上がり、会釈をする。全員がそれに習った。
副社長がそれに手を振って返し、私の側へと歩み寄る。
課長を一瞥し、笑顔で、口を開いた。
「Those who cannot make a home important cannot prize work.
(家庭を大事に出来ない者は仕事を大事にする事が出来ない)」
副社長がそう言い終え、私に向ってウインクした瞬間、私は頷
き、自分の席にあるカバンを引っつかんで走り出した。
「Thank you! boss!」
フロアの出口を出る前に、副社長に向かい、感謝の意を込めて
大きな声でそう叫んだ。
後ろから、課長が何か言いかけている声と、それを制止する副
社長の声が聞こえた。
会社のビルを出て、辺りを見回す。
運が良かったのか、すぐにタクシーを捕まる事が出来た。
私はそれに飛び乗り、運転手に浩平の学校の住所を告げた。
学校には独特の匂いがあった。
どんな匂いにも例える事が出来ない、独特の匂いだ。
いくつになっても、その匂いは忘れる事が出来ない。
今でも心の奥底に眠っている、大切な記憶だからだろう。
「え〜、ではここの問題が分かる人?」
「は〜い」
「はいっ、はいっ!」
浩平のクラスの教室を目指して廊下を歩いていると、そういっ
た声がどこの教室からも聞こえてきた。
郷愁、と言うのだろうか。
懐かしさがこみ上げる。
十年以上も前、私もこうやって机を並べていたのかと思うと、
妙な感慨があった。
階段を使い、3年生の教室がある階へと登る。
浩平の教室はすぐに分かった。
階段を上った目の前が浩平の教室だったからだ。
教室の後ろから音を立てずにそっと、教室の中に入った。
教室の中には既にもう、親御さんたちがずらりと並んでいた。
よく見ると、夫婦で来ている親御さんもいるようだった。
浩平は・・・・・・いた。
恐らく疎外感を感じているのだろうか。
鬱向き気味にして、時間が過ぎ去るのを待っているかのように
見えた。
あんな気持ちにさせるなんて、親代わり失格だ。
素直にそう思った。
「えー、それじゃ、次の問題を・・・・・・折原くん、君にやってもら
おう」
担任の中年の男性教師が浩平を指差す。
俯いていた浩平がびっくりして、黒板に書かれた問題と、教科
書を見比べているのが伺えた。
「あ、えっと・・・・・・」
浩平はうろたえながら、助けを求めるように視線を彷徨わせて
いた。
私が来てくれないのなら、自分にはこの時間はもう関係ない。
そう考えていたのだろう。そして、ただひたすら時間が過ぎる
のを待っていたのだ。
それだけに急に指名され、慌てたのだろう。
たまらず、声を掛ける。
「浩平、しっかり!」
その私の声で、クラス中が後ろを振り向いた。
もちろん、浩平も。
私の顔を見た瞬間、浩平の顔がほころび、急に生き生きとした
のが見て取れた。
それに向って、私はピースサインを送る。
次の瞬間、浩平は満面の笑顔を見せてくれた。
それだけで、今日ここに来た甲斐があった。
そう思った。
浩平が教科書と黒板に書かれた問題を見比べる。
そう。
落ち着いてさえいれば、浩平に解けない問題ではない。
あの子は馬鹿ではないのだ。やれば出来る。
私はそう、思っている。
そして、その私の期待は数秒後に一つの形として、現実の物と
なったのだ。
クラス中、そして父兄からの拍手という形で。
夕暮れの中、私は浩平と家へと帰る道を歩いていた。
私の影の隣に短い影が一つ。
その影と私の影は手が繋がれていた。
不意に浩平が口を開く。
「ね、なんで来てくれたの?」
不思議そうに、浩平が私を見上げ、そう尋ねた。
私はちょっと考えるふりをする。
「んー、浩平が寂しがってないかな、って思って」
そう言うと、少し拗ねたように、浩平が口を開いた。
「べ、別に寂しくなんかなかったよぅっ」
「ふーん」
少し可笑しくなって、流すように相槌を打つと浩平が膨れ面に
なった。
「な、なんだよっ」
見透かされた。そう思ったのだろう。
「何でもないよぅ」
茶化すようにそう言うと、浩平がさらに頬を膨らました。
「うー」
恨めしそうに私を睨む浩平に苦笑して、私は手に握られている
浩平の手をさらに強く、握った。
この子が寂しくないように。
悲しまないように。
今日最後の陽光が煌き、急に辺りが闇に包まれた。
薄闇の中、握った手の先から、
「ありがとう」
という呟きが聴こえた。暗かったので、その表情は見えなかった。
精一杯、浩平が私の手を握り返している事だけがわかった。
―――了