「本当に、どうもありがとうございました」
母親が深々と頭を下げる。肩車の上で尿意を催し、麻枝を狼狽させた少女も
再会した母親に連れられてトイレに行き、どうにか最悪の事態は免れていた。
「その手を離すんじゃないぞ、二度とな」
母親の着ているコートの裾を握り締めている少女に、麻枝はそう言う。
「うんっ」
安堵に満ちた笑顔で、少女は応えた。その笑顔につられて、麻枝も表情を緩める。
「何とお礼を言ったらいいのか、本当に……」
母親は感謝に絶えない様子で麻枝にぺこぺこと頭を下げる。年端も行かない子供を
こんな場所に連れて来る親の非常識には腹が立ったが、心底反省している様子の母親
を詰問する気も失せていた。それよりもこの場はどうにも面映ゆすぎる。
「そんなことより、娘さんからもう二度と目を離すなよ。じゃあな」
親子に背を向け、早足で立ち去ろうとする麻枝の腕を、誰かが強く掴んだ。
「麻枝……何故君がここにいる?」
久弥直樹は疑念を隠せない。keyは今新作の開発の最中にあり、余暇が許される状況
にはないはずだ。例え余暇があったとしても、人ごみに酔う麻枝がわざわざ日本で最も
人口密度の高い空間の一つであるコミケ会場に足を運ぶとは考えにくい。樋上いたる
の手伝いに徴用された、というケースが頭に浮かんだが、いたる本人が今回は参加していない。
「い、いや何だ。食わず嫌いはよくないと思ってな。吉沢さんの勧めもあったし」
「吉沢さん?」
聞くはずのない名前が麻枝の口から発され、腕を握る手に力が入る。麻枝は自分の
失言に気づき、自分の口を手で押さえた。
突如場に生じた緊迫した雰囲気に、母親と娘は呆然と二人を眺めている。
「keyを飛び出した!?」
久弥の叫びがコーヒー・カップの水面を揺らした。
「そんな大声出すな。周りに聞こえるだろ」
対面に座った麻枝は周囲の視線に晒されまいと体を縮め、久弥を抑える。コミケの
会場から少し離れた所にある喫茶店は主に学校帰りの学生と仕事を終えた会社員で席が
埋められ、コミケの混沌とした雰囲気とは想像もつかない静かな空気が漂っていた。
「一体それってどういうことだよ? ちゃんと説明してくれよっ」
掴み掛からんばかりの勢いで問い詰める久弥に麻枝は半ば辟易する。
「だからさっき言った通りだよ。俺と馬場社長の意見が食い違って、keyの皆が馬場社長
の意見に従ったんだよ。俺は製作の意思一致を損ない、社長に反抗した廉で自宅謹慎。
謹慎で済むとは思えないけどな」
「皆が従ったって……」
「俺も散々皆に迷惑を掛けていたからな。涼元さんの方がずっと作業を円滑に進めること
ができるだろうし、もう俺がいなくてもいいと思ったのかもな」
「そんな訳ないだろうがっ!」
冷静に自分の境遇を眺める麻枝とは対照的に、久弥は激昂して机を叩く。テーブルが
揺れて、コップから水が飛び散った。
「麻枝がいなくなったkeyなんて何の意味もないのに、皆どうかしてるよ……」
頭を抱える久弥に、麻枝はうんざりする。一体こいつはどうしてそんなに他人の事に
本気になれるんだ?
「それで麻枝は一体どうするつもりなんだ? まさかこのままkeyを辞めたりはしない
だろうな?」
その問いに、麻枝は答えを返せなかった。
「……辞める気なのか?」
沈黙したままの麻枝に、久弥は恐る恐るそう尋ねる。満席に近かった店内も今では
閑散としており、二人の話し声はよく響いた。
「今更戻れないのは本当の事だ」
麻枝はそう言うと、左の頬に手をあてる。痛むはずもないのに、ひりひりと痛みを覚えた。
「麻枝がいなくなったら、keyはすぐに潰れるぞ。それでいいのか?」
「そんなにkeyのことが心配なら、お前が戻ればいいだろうが」
「それができればとっくにやってるよ!」
ひときわ大きな声に、数えるほどしかいない客が一斉に振り向く。久弥は立ち上がる
とコートを羽織り、伝票を掴んだ。
「お、おい。もう出るのか」
一口も口をつけていないコーヒーはまだ湯気を立てている。麻枝の言葉に久弥は苛立た
しげに答える。
「麻枝じゃ話にならない。直接いたるに話をつけてくる。いたるが本気で麻枝と離れよう
と思うわけがないんだ」
早足でカウンターに向かい、財布から出した千円札を叩き付ける。
「ちょっと待てよ、久弥!」
追いかけようと立ち上がる麻枝に目もくれず、久弥はドアを開けて外に飛び出した。
腹立たしかった。これほどに腹の立つ思いをしたことは、ここ二年の間にはない。
有明と新橋を結ぶゆりかもめ号の車内で、久弥はまだ怒りに心をかき乱されていた。
(何を考えているんだ? 麻枝も、いたるも!)
一体何のためにkeyを作ったのだ。一体何のためにTacticsを離反したのだ。
それはメンバーの結束を維持するためではなかったのか。麻枝といたるを分かとうと
する力に屈服しないためではなかったのか。
理想を目指し、どんな過酷な障害も乗り越えていく鋼の力強さ。疲れ果て、傷付いた心
を穏やかに満たしてくれる春の日だまりの暖かさ。
強さに憧れ、優しさに救われ、久弥はkeyを愛した。もう二度とkeyの中に生きることは
できなくとも、思いは変わりはしない。そしてkeyはこれまでも、そしてこれからも
まっすぐに上を目指していくはずだった。それは久弥の願いだったのだ。
レインボーブリッジを列車は疾走する。臨海副都心に立ち並ぶ巨大なビルディング
は後ろに流れ、目の前に夜を徹して輝き続ける都心の光が広がった。人の知恵と力は
互いを隔てる海にも屈せず、ついに陸と陸とを結びつけた。繋がるはずのない二点を
結び、重力に逆らい風雨を耐える橋梁は自然を乗り越えようとする人の意志の象徴
だ。
僕は橋にはなれないのか? 隔てられ、切り離されようとしている二人の居場所を
もう一度繋ぐことはできないのか?
久弥の不安を乗せ、列車はひたすらにレールの上を突き進む。