「ぐぁ……なんちゅう人の数だ」
立錐の余地もないほどに密集した人ごみに巻き込まれながら、麻枝准は呻き声をあげた。
ここ有明の地は一年に二度だけ、日本で最も多くの人が集まる祭りの場と化す。
コミック・マーケットと呼ばれるその祭典の会場に、麻枝は生まれて初めて足を運んで
いた。会場は人々の雑然とした熱気に満ちて、季節が冬であることを忘れさせた。
人ごみに当てられ、乗り物酔いのような不快感が胃の奥からこみ上げてくるのを感じ
ながら、麻枝は自分にこの場に足を運ぶことを勧めた男を少しだけ恨めしく思った。
「まだこの業界でやっていく気があるんだったら、コミケにでも行ってみろ。会社の中
からだけでは見えないものが見えてくるぞ。今の麻枝に必要な人がいるかもしれない」
吉沢の言葉だった。あれだけのことをしてしまった以上、今更keyに戻る訳にはいかない。
だがあの日、自分でも驚くほどの涙を流した後、一つの真実が残ったのだ。
「まだ、何かを創りたい」
灰燼と化した未来の残骸の中に、崩落した過去の廃墟の底に見出した、たった一つの夢
の絵姿。心の奥の炎は今なお消えずに、麻枝の背を押している。その火が消えるまでは、
まだ終われない。
(だからと言ってこれではたまらんぞ。そもそもコミケなんか……)
立ち止まることを許さない人々の濁流に飲み込まれつつ、麻枝は内心愚痴った。
大学を卒業してすぐにプロとしてキャリアを積んできた麻枝は、同人活動というものを
今までに一切行なった事がない。18禁ゲームの業界では同人活動をステップにプロとして
活躍する者も少なくないし、プロとして活動する傍ら同人活動を行なう者も多い。
だが麻枝のプロ意識はそうした余暇としての創作を許さなかった。同人創作を商業創作
の下に置く意識が麻枝にはある。ここに自分の必要とするものがあるとはとても思えなかった。
人ごみに押し出され、弾き出され、ふらふらになりながら麻枝はようやく人気の少ない
ところで一息をついた。深呼吸をして、新鮮な空気を肺に送り込む。あくびをして大きく
背伸びをした麻枝のコートの裾を何かがくいくい、と引っ張った。
「んが?」
口を大きく開いたまま、麻枝は疑問の意を発する。引っ張られたコートの裾に目をやる
と、少女が涙目でこちらを見上げていた。
小さな少女だった。幼女と言ったほうがいいかもしれない。麻枝の腰のあたりの高さ
から麻枝の顔を見上げている。黄みがかったブラウンのダッフル・コートに身を包み、
ミトンをはめた小さな手で麻枝のコートの裾を離さない。肩にかかる程度に切り揃え
られた髪につけた赤いカチューシャが一層幼い印象を与えた。
「どうした? ガキの頃からこんな所に出入りしてたら、ロクな大人になれないぞ」
少女はぷるぷるとかぶりを振る。
「……おかあ……さん」
大きな瞳から涙がこぼれる。麻枝は体を屈め、少女の目線と同じ位置で話し掛けた。
「もしかして迷子になったのか?」
カチューシャが縦に揺れる。麻枝は呆れ果てたように深々とため息をついた。
「……ったく、こんな所に子供を連れてくる親も親だな。何か間違いでも起こったら
どうするつもりなんだ」
しゃがんだ体勢のまま、少女に背中を向ける。
「ほら、乗れ」
麻枝の言葉に少女はどう応えていいか分からず、立ちすくむ。麻枝は業を煮やしたよう
に続ける。
「お母さんを探すんだろ。俺が肩車してやるから自分で探せ」
長蛇の列をなしていた客のピークも一段落を迎え、久弥直樹はようやく人心地をついた。
今回初めて出展した自作の小説の売上は上々だった。key時代に得た支持層が主な客層
だったとはいえ、第二の人生の門出としては悪くない。この調子で地道に活動を続けて
いくことができれば、それに過ぎるものはないように思えた。
二年前keyを離れて以来、久弥は潜伏を余儀なくされていた。モチベーションの低下
もさることながら、離れてなお巻き込まれるkey絡みのトラブルに振り回され続けた。
だが波乱と動揺を繰り返したkeyも今ではすっかり安定を取り戻したようで、新作の発表
も行なわれている。麻枝達の前途は洋々に見え、久弥は安堵した。
次は自分の番だ。key時代の過去を捨て、これからの人生を自分の力で切り拓いて行く
んだ。そんな決意に心を引き締めた。
販売スペースには客の姿はもうない。知り合いのサークルに顔を見せに行こうと、
売り子用の椅子から立ち上がった久弥に、見知らぬ女性が声を掛けてきた。
「あ、あの。すいません」
女は頬を赤らめ、上気した様子で久弥に話し掛けてくる。どもった話しぶりから、
彼女が相当に動転していることが伝わってきた。
「ここに女の子が来なかったですか? 私の娘なんです。背はこのくらいで」
そう言いながら自分の胸の少し下の高さに手の平をかざす。
「いえ……そんな娘さんは来てはいませんけど」
「そうですか……こんな人の多い所で迷子になって、一体どうしたら……」
女は半ばパニックに陥っていた。
「落ち着いてください。ちゃんと探せばすぐ見つかりますよ、僕も手伝います」
久弥の言葉に、女は辛うじて平静を取り戻す。言い聞かせるように久弥は続けた。
「それで、その娘さんはどんな格好をしておられるんですか? 目立つ特徴とかが
あれば教えてください」
女は顔を上げ、少しだけ嬉しそうに口を開く。
「あゆちゃんの格好をしています」
「あゆちゃん?」
おうむ返しに返事する久弥に、女は説明する。
「はい、『Kanon』のあゆちゃんです。とても可愛いんで、久弥さんにも見てもらおうか
と思ってたんですけど……」
寂寥感が小さな棘のように、久弥の心を刺す。二年以上も昔に自分の創った物語の
キャラは未だに愛されている。その事を嬉しく思う反面、もうあの時は帰ってこない
のだ、ということを思い出させられた。
遠目には人の海の上を少女がサーフィンしているように見えるかもしれない。
麻枝の肩車に乗った少女は人ごみから体一つ分だけ浮いていた。
「おーい、見つかったかー」
頭上の少女のバランスを崩さないように慎重に歩きながら、麻枝は問う。
「ううん……いない……」
頭の上から声がする。麻枝はため息をついて子供連れの女性のいそうな所を歩き回った。
くいくい、と髪の毛が引っ張られた。
「お、見つかったか?」
ようやくこの苦役から解放されると思い、声を弾ませる。だが、頭の上からは期待
した言葉は降ってこなかった。
「トイレ……」
消え入りそうな声が頭の上から聞こえる。その言葉の意味を考えた麻枝は、自分が今、
絶体絶命の死地にいることをすぐに悟った。
「トイレって、しょんべんか? 大きい方か? いやどっちでもいい。っていうかよくないっ」
肩車に乗った少女の体が震えている。
「ぐぁっ、首を締めるなっ」
足を閉じ、下半身に力を入れて懸命にこらえようとしているようだった。足を閉じよう
とすれば必然的に麻枝の首を締めることになる。便意をこらえるには不向きな姿勢だ。
「もうちょっと我慢しろ。すぐトイレに連れて行ってやるから、な?」
だがコミケ会場を初めて訪れた麻枝が会場の地理に詳しい訳がない。しかもこの人ごみ
では周りの状況もよく見渡せない。
「うぐっ……」
頭の上で呻き声が聞こえる。少女の震えは大きくなり、麻枝の髪の毛にぽたりと涙が
一滴落ちた。涙ならまだしも、あんなものを頭にぶっかけられてはたまったものではない。
「おわーっ! トイレはどこじゃーっ。トイレトイレトイレーっ!」
麻枝の悲痛な叫びが、会場に響き渡った。
「おわーっ! トイレはどこじゃーっ。トイレトイレトイレーっ!」
男の叫び声が久弥の鼓膜を震わせる。目の前の女もその叫びに反応し、声の聞こえた
方角を向いた。久弥と女が顔を向けたその先には、何故か人々の頭の上の高さに少女が
いた。
「あ、あそこです。あそこにいるのが私の娘です!」
女が叫び、走り出す。久弥もそれを追い、販売スペースを飛び出した。
人ごみをかき分け、少女のいた場所へ駆け寄る。
偶然か、それとも必然か。
久弥はそこで、もう出会うはずのなかった男と再開した。
そしてそれは激動の新時代の、ほんの序幕にすぎなかったことを後に久弥は知る。