「あ、それも包んでください」
クリスマスも終わり、ようやく歳末の雰囲気も色濃さを増した街で、吉沢務はケーキ屋
の店員に注文を付けていた。クリスマスにケーキを食べるのは馬鹿馬鹿しいが、値段の
安くなった売れ残りのケーキを買うのは経済的だ、というのが吉沢の合理性だ。
紙製の箱に色とりどりのケーキを詰めてもらい、吉沢は店を出た。冬の空気は刺すよう
な冷たさを増しているが、歳末独特の慌しい熱気がそれを吹き飛ばしている。世間一般
のタイムスケジュールからはいささか逸脱した身ではあったが、年の瀬ともなればある種
の感慨に浸る自分がいることに、吉沢は気が付いた。
多くの人間と出会い、そして同じだけ多くの別れを体験してきた。悲嘆に暮れる時も
あったし、憤怒に打ち震える日もあった。だが悲しみも怒りも過ぎてしまえば思い出の
アルバムを飾る、貴重な写真だ。荒波のように起伏に満ちた日々が、吉沢に年不相応な
達観を与えていた。
木の葉を巻いて、風が舞う。冷たさに肩をすくめると、人々の間を縫って足早に帰路
を急いだ。男達の怒鳴り声が人ごみの中から響いてきた。気ぜわしい年末にありがちな
若者達の他愛も無い衝突だろう。野次馬根性で見物する気もなかったが、声のした方角
が丁度帰路と同じ方角だったため、吉沢は自然と近づくことになった。
想像を超えた大喧嘩だった。十人はいる。道端に転がり、悶絶している男達も既に
数人いた。とばっちりを食うことを怖れた群集が輪を作ってその有様を傍観している。
吉沢は輪の中に入り、観客の一員になると、驚いた。
喧嘩に参加している男達は優に十人を超えていたが、相手は一人だったからだ。男達
は十人がかりでたった一人を相手にしていることになる。地面に寝転んでいる若い男達
もその仲間だとすれば、押されているのは十人の側なのだろう。事実こうしている
今でも、また一人叩き飛ばされ、地面を這っている。
内心舌を巻きつつその光景を眺めていた吉沢だったが、たった一人で大立ち回りを
演じている人間の顔を見ると顔色を変えた。遠巻きに輪を作る人ごみをかき分け、騒動
の中心に駆け寄った。
義侠心などではなかった。正義感や公徳心などでも勿論ない。そうしたものから最も
かけ離れた人間が今の自分だ。鏡に映った自分を殴っているのと変わらない。
そう思いながら、麻枝准は懲りずに掴みかかってくる若者の鼻っ柱を力いっぱい殴り
つけた。潰れたような悲鳴をあげ、若者が地面に転がる。麻枝を取り囲んでいる男達
は予想外の展開に色を失った。
この日も、麻枝は当てもなく夜の街をさまよっていた。外出しても行く先などあり
はしなかったが、家の中でどうしょうもない自己嫌悪に苛まれるよりはましだった。
道に溢れる人に半ば辟易しながらも、ふらふらと歩き回る麻枝の目の前で若い男達
が一人の女に絡んでいた。よくある光景だ。怖い物知らずの若者達は、自分達に手に
入らない物などないと自信満々なものだ。かっての自分がそうだったように。
麻枝は関わり合いを持つまいとその場を離れようとしたが、絡まれた女の悲鳴が
聞こえると怒りがこみ上げてきた。力ずくで女を手込めにしようとする男は許しがたい
卑劣漢だ。自分にそれを怒る資格などないことは分かっていたが、それだけに尚更
怒りを抑えることができなかった。
遠巻きに眺める群集をすり抜け、麻枝は若者達に近づく。数人程度であればハッタリ
の一つでもかませばどうにでもなる。そう考えていたのだが、若者達の交友関係は
思ったより広かった。いつのまにか麻枝は十人を超す男達に取り囲まれていた。
群れをなさないと啖呵も満足に切れない街のチンピラと麻枝とでは勝負にならない。
仲間の半数を倒され、若者達は恐慌を呈し始めていた。正義漢ぶった勘違い野郎を
袋叩きにするはずだったのに、逆にこちらが叩きのめされそうになっている。若者
の一人がズボンの後ろポケットからナイフを取り出した。震える手で柄を握り、刃を
麻枝に向ける。安っぽい加工の施された刃の表面がネオンの光を反射してきらめいた。
刃を向けたまま麻枝に突進しようとした若者は、何者かに背中から蹴りを入れられた。
勢い良く吹き飛ばされ、麻枝の足元まで転がり失神する。
「こんな所で何遊んでいるんだ、麻枝!」
自分の名を呼ぶ声に反応し、振り向くと吉沢が片手にケーキ屋の紙箱を抱えながら
若者に蹴りを入れていた。思わず叫び返す。
「吉沢さんこそ何でこんな所にいるんですか!?」
「俺の家が近くにあるからだ。それより、このガキどもといつまで遊んでいるつもり
だ? そろそろ警察が来てもおかしくないぞ」
ケーキの箱を大事に抱えながら、吉沢は殴りかかる若者達を足であしらっている。
吉沢の言葉の通りに、パトカーのサイレン音が近づいてくるのが麻枝の耳にも聞こえた。
「逃げるぞっ、麻枝!」
吉沢に腕を掴まれ、麻枝は引きずられるようにして喧騒の中心から逃走した。
「……ったく、何あんなガキ相手に本気になっているんだ。大人気ない」
部屋の丁度中心に置かれたこたつの上にケーキの紙箱を置きながら、吉沢は呆れ
果てる。それには応えず、麻枝は所在なげに吉沢の部屋に立ち尽くしていた。
ほこり一つなく整理整頓された部屋は、無機質な冷たささえ感じさせたが、一角に
置かれたピアノが吉沢の人となりを主張しているように見えた。
「そんな所に突っ立ってないで、座れ。でかい図体が目障りだ」
麻枝は黙って腰を下ろす。吉沢は食器棚から二つ湯のみを取り出す。ポットから常時
沸かしてある熱湯を湯のみに注ぎ、茶を点てた。
「ケーキしか食うものはないんだが、まぁ食いたければ食え」
湯気を立てている湯のみをこたつの上に置きながら、吉沢も腰を下ろす。
麻枝は何も語らず、沈黙を貫いている。吉沢も自ら話し掛けようとはしなかった。
こたつの上で二つの湯のみが白い水蒸気の煙を吐き出している。言葉で埋めることの
できない空間が、麻枝と吉沢の間にかって存在した軋轢を物語っていた。
「……Tacticsは辞めたんですか、もう」
ぽつりと麻枝が口を開く。湯のみを片手にケーキを食べていた吉沢は、事も無げに答えた。
「あぁ、色々とやってはみたが、どうにもならなかったな。最後は依頼退職だ。クビだよ」
平然と答えてはいたが、数え切れない程の辛酸を舐めつくしたはずだった。麻枝達主要
メンバーを一度に失い、そこからなおTacticsを回復させようとあらゆる努力を試みながら、
結局は徒労に終わったのだ。そして石で追われるように追放された。
その原因を作ったのは他ならぬ麻枝である。吉沢の現在の苦境は麻枝の離反が発端で
あった。
「出入りの激しい世界だ。クビになったからといってどうということもない。商売になる
ネタさえあれば、またいくらでも出直せるさ」
吉沢はどこまでも気楽な調子で言う。
「吉沢さんなら……どこに行っても通用しますよ」
力無い麻枝の言葉に、吉沢はからからと笑ってやり返す。
「それならkeyに音楽屋としてでも拾ってもらうか。お前のコネで馬場社長にねじ込めないか?
こう、ぐいっと」
吉沢は拳を握り、ねじるようにして麻枝の胸元に突き出す。麻枝は何も答えない。
吉沢の軽口にも何の反応も示さず、俯いたままの麻枝を見て、頭を掻いた。
「お前なぁ、色々あるんだろうが、お前がそんな辛気臭いことでどうする。それでも
keyのチームリーダーか?」
「……もう、違いますよ」
そう、自嘲した。吉沢はその様子にただごとではない何かを感じ、麻枝の言葉を待つ。
お互いに違う道を歩んだ空白の時間を埋めるように、麻枝は訥々と言葉を繋いでいく。
樋上いたるを切ろうとした上層部に反発し、Tacticsを飛び出した日の決意。『Kanon』
で勝ち取った名声、失った同僚。新たな同士を得、身を削るようにして創り上げた『AIR』。
時には帷幕から指令を送る指揮官のように、時には前線で泥にまみれて銃弾の雨の中
を這いずり回る二等兵のようにkeyを守り、戦い、育ててきた一人の男の歴史が語られて
いく。
そして最後に、keyに居場所を失い、こうして独り彷徨っている今を伝えた。
「俺は一体今までなにをやってきたんですか」
最後の言葉は、殆んど泣かんばかりにして言った。
吉沢は何も言わない。何も言わず立ち上がり、部屋の片隅に置かれたピアノへ近づく。
鍵盤の前の椅子に座ると、静かにピアノを弾き始めた。吉沢の指が鍵盤に触れると、
手入れの行き届いたハンマーが弦を叩き、音色を発する。吉沢の指の動きに応えて、
弦は音を奏で、曲を紡いだ。
奏でられる音楽は、麻枝のよく知っているものだった。いや、よく知っているという
だけでは不十分だった。今、吉沢の弾いている曲はかって麻枝自身が生み出した曲だったからだ。
輝いたあの季節を懐かしみ、最後まで笑っていたあの子供達を慈しみ、届かないあの
飛行機雲を追いかけた、過ぎ去りし夏の面影を麻枝は伝えようと願ったのだ。五線譜
に書き写した三分足らずの音の世界に全てを託して。
「『夏影』か。いい曲だ」
ピアノを弾きながら、吉沢は短く呟く。指が静かに鍵盤に触れると、音色は部屋を満たした。
その音色が乾いた心に沁み込むようで、麻枝は胸が潰れそうになった。麻枝を憎んでいる
はずの吉沢が自分の楽曲を奏でていることが、道を分かったはずの吉沢が今なお麻枝の
想いを汲もうとしてくれていることが痛みを伴って麻枝の心を締め付けた。
麻枝は両手で顔を覆った。泣いた。声を洩らさず、こみ上げる嗚咽を懸命に押し殺して、
それでも涙はとめどもなく頬を濡らした。そんな麻枝に、吉沢はただピアノを弾き続ける。
同僚への不満、周囲への憤懣、そして自分への嫌悪が今、涙とともに洗い流されていく
のを麻枝は感じていた。