昨日の間ずっと降り続いた雨も今日は止んでいた。風に流れ始めた雲の隙間から太陽が姿を見せ、
射し込む陽光は水たまりに反射し、きらめいている。雨に濡れ、人気の絶えた路上のコートで、久弥
直樹は独り立っていた。片手にバスケットボールを抱え、リングボードを見詰めている。
久弥は両手でボールを添えるように持ち、頭の上に高く掲げた。ゴールリングを見据え、シュート
を放とうとした瞬間だった。
「隙ありっ!」
背後で叫び声がしたかと思うと、両手からボールがはじき落とされた。久弥の手を離れ、地面に
落下していくボールを声の主は素早く拾うと、そのままドリブルしていく。ゴールリングのすぐ真下
までボールを持ち込み、走る勢いを維持したまま地面を蹴る。ゴールリングに手が届きそうな高さまで
跳躍したかと思うと、手から転がすようにボールをネットに放り込んだ。
「ふっふっふっ、まずは先制だな」
地面に降り立った声の主、麻枝准は振り返り、久弥を挑発する。地面に落ちたボールを拾い上げ、
久弥の元へ投げ渡す。ボールは丁度久弥の胸の高さに飛んできて、両手にすっぽりと収まった。
「不意を討っておいて、何が先制だよ……」
ため息を吐く久弥を、麻枝はなおも挑発する。
「油断しているお前が悪い。『コートはいつだって戦場だ』と言ったのは、お前だろう?」
「そんなの言った覚えはないよ……全く……」
呟きながら、素早いモーションでシュートを放つ。ボールは正確な放物線を描き、ネットに吸い込
まれた。
「はい。3点シュートだから、3対2で僕の勝ちだね」
「くっ、小技を使いやがって。この卑怯者がっ」
「勝ちは勝ちだよ」
「くそっ、もう一勝負だっ」
麻枝の声が、初春の空に響き渡った。
夕刻を迎えても、二人の勝負は終わらなかった。地平線すれすれにまで沈んだ太陽が空を赤く染
め、コートに落ちた二人の背の高い影が忙しく動き回る。
「もらったっ!」
隙あらばボールを奪い取ろうとする久弥をかわし、麻枝はゴール下に切り込んだ。そのまま高く跳
躍し、シュートを決めようとする。
その瞬間、久弥も飛び、麻枝の手から放たれたボールを叩き落とした。ボールは地面に叩きつけら
れ、大きくバウンドする。
麻枝は舌打ちし、地面に落ちたボールを拾い上げ、再びシュートしようとする。だが、その前に
久弥の手が伸び、ボールを奪い取った。
「くそっ!」
チャンスを奪われ、守勢に立たされた麻枝は腰を落として久弥のカットインに備える。
だが、久弥はボールを両手に抱えたまま、動こうとはしなかった。
「もうゴールが見えないよ。今日はここまでにしよう」
久弥の言葉に麻枝は不満げに頬を膨らませたが、急速に暗くなり始めた空を見上げ、仕方なさそ
うに頷いた。
「でも、こうやってお前と一対一で勝負したのも久々だな」
昔を懐かしむような麻枝の言葉だった。
「『Kanon』を作っていた頃は、毎日のようにやっていたんだけどね」
「ああ。俺も最近はボールに触れてもいなかったよ」
薄闇に覆われ始めたゴールボードを眺めながら、麻枝は淡々と言う。太陽はもう姿を隠し、残照だけ
が空に広がっていた。流れる雲が二人の頭上を通り過ぎていく。ゆっくりと動く風を肌で感じながら、
久弥はボールを手元でころころと転がしていた。
「久弥……」
ゴールボードに視線を向けたまま、麻枝はゆっくりと言葉を口にした。
「ありがとう。俺の企画にもう一度参加してくれて」
「え?」
驚いた久弥は思わず麻枝の方へ顔を向けた。麻枝の表情は宵闇の中、穏やかに見える。
「Keyを飛び出した時、俺はもう二度とゲーム作りの現場には戻れないと諦めていたんだ。吉沢さん
は俺を何とかして助けようとしてくれたけど、俺独りの力でできることなんて、どこにもなかった」
静かに微笑み、言葉を続ける。
「お前が来てくれたから、俺はやり直す事ができた。お前がいてくれてよかったよ」
そこまで言うと、照れ臭そうに前髪をかきあげた。
「いつか言わなきゃいけないと思っていたんだ。お前はいつだって俺を助けてくれていたのにな。
Keyが大きくなれたのは、お前のおかげだったのにな」
「……」
久弥は何も言わない。口を閉ざしたまま、麻枝をじっと見詰めている。
「俺はお前の存在が妬ましかった。お前の実力を認めたくなくて、お前よりも俺の方が優れている
ことを周りに認めさせたくて、いつも必死だった。そんな事をしても何にもならないのに」
過去の自分を回想し、麻枝は苦笑した。
「いなくなって、初めて分かったんだ。お前の代わりなんてどこにもいない。お前のシナリオが
あってこそのKeyだったんだ」
空は刻一刻と暗さを増し、残光が僅かに西の空を赤く染めていた。電気のついた街灯がまたたき、
太陽の代わりに辺りを照らしている。
「いたるも久し振りにお前のシナリオの絵を描けて、楽しそうだしな。多分、あいつはお前のシナリオ
の方が性格に合っているんだと思う」
悔しそうに頭を掻く麻枝から、久弥は目を反らした。
「なあ久弥。この仕事が一段落したら、涼元さんに会ってみてくれないか」
「涼元……さん?」
地面に視線を落としたまま、久弥は応える。
「ああ。あの人がKeyに来た時、お前はもういなかったからな。あの人は俺を持ち上げてくれたけど、
本当はお前と一緒に仕事がしたくてKeyに来たんだと思う」
麻枝は少しだけ寂しそうだった。
「口には決して出さないけど、涼元さんは残念がっていたはずだ。だから、一度会ってみて欲しい
んだ。涼元さんはすごいぞ。『AIR』が完成したのはあの人のおかげだ。あの人に出会って、俺は
自分がどんなに未熟だったかを思い知ったよ」
憧憬を込めた眼差しが、遠くを見詰めている。
「涼元さんと一緒にいれば、お前も勉強になるはずだ。今よりもっとすごいシナリオが書けるよう
になる。そうすれば向かう所敵無しだ。俺達三人が力を合わせれば、どんなゲームだって作れる。
どこまででも進んでいける。そう、思わないか?」
夢見るように、麻枝の目は輝いていた。
「麻枝……」
悲しげな言葉が、久弥の口から洩れ出た。
「どうした? やっぱり、俺と一緒にいるのは嫌なのか?」
不安げな表情を浮かべる麻枝に、久弥は言う。
「麻枝は……人を見る目がないよ」
「分かってるよっ。お前をずっとないがしろにしていた、俺の見る目の無さは。だからこうして謝っ
てるんだろっ」
むっとした様子で反論する麻枝を直視せず、久弥は呟く。
「そういう意味じゃないよ」
「じゃあ一体……」
「おーいっ」
問い詰めようとする麻枝の背中に、遠くから声が掛けられた。
「おーいっ。麻枝くーんっ」
声を上げながら、樋上いたるが二人の元に駆け寄ってくる。コートに立つ麻枝達のそばにまで走り
寄ると、深呼吸して乱れた息を整えた。
「あ、久弥君もいたんだ。またバスケやってたの?」
「ああ……いたるこそ、どうしたんだ? 麻枝に用があったんじゃないのか?」
はっと思い出したようにいたるは麻枝の方を向く。
「ねえ麻枝君、原画の指定でよく分からない所があるんだけど……」
「何だって? どこが分からないんだ?」
「口だと説明しにくい場所だから、実際に原画を見てよ」
「ああ、分かったよ」
そのまま麻枝といたるは開発室へ帰ろうと、並んで歩き始める。
「久弥、お前は戻らないのか?」
久弥はボールを片手に抱え、コートの白線の上に立ったままだった。
「いや……もうちょっと気分転換をしてから、戻るよ」
「……そうか」
久弥の言葉を聞くと、麻枝は再び歩き始めた。
「わっ」
「うおっ、突然寄りかかってくるなっ。びっくりするだろ」
「ご、ごめん」
「ったく、何ふらふらしてるんだよ。体調でも悪いのか?」
「そ、そんなことないと思うけど」
「お前はそういう事を絶対に口に出さないからな。いきなり倒れられて困るのは俺達なんだぞ」
「だ、大丈夫だよ」
「仕事が辛いようだったら、すぐに言えよ。無理だけは絶対にするなよ」
「うん、ありがとう」
遠ざかる二人の声を背中で聞きながら、久弥は独り立っていた。街灯に照らされ、ぼぅっと輪郭を
浮かび上がらせるゴールボードに体を向け、ボールを高く掲げる。手首の返しを充分に効かせて、
ボールを放つ。
ボールはリングの中心を外れ、縁の金属環に当たった。乾いた衝突音とともに、ボールが空しく地
上に落ちる。ころころと地上を転がるボールを拾おうともせず、久弥は立ち尽くしていた。
『お前がいてくれてよかったよ』
一番欲しかった言葉だったはずだ。ずっと、切望してやまなかった言葉。
だが、その言葉が悲しかった。目をつぶっていても入るような簡単なシュートを外してしまうほど
に、視界が滲んでいる。その理由が分かっていたから、悲しかった。
久弥は気付いていたのだ。
麻枝がもう、久弥を必要としていないことに。
『AIR』をプレイした時、久弥は衝撃に打ちのめされた。『AIR』は『Kanon』とは違う方向性を模索し、
越えていこうとする麻枝の挑戦だった。その挑戦は多くのファンの戸惑いを生み、厳しい批判も浴びた。
だが、同じシナリオライターとして麻枝の一番近い場所にいた久弥は、『AIR』に込められた麻枝の意志
を痛いほどに感じていた。
(麻枝は変わろうとしている。同じ所に麻枝は立ち止まってはいない)
久弥はそれでも麻枝と共にやり直そうとした。Keyを離れ、苦境に立たされた麻枝を助けてやれる
のは久弥しかいなかったし、久弥も麻枝ともう一度、作品を作りたかったからだ。
だが、それは久弥の想像を遥かに越える変化を思い知らされることでもあった。
麻枝は成長していた。傲慢と独善を隠そうともせず、荒削りの才能を剥き出しに暴走を繰り返した、
かっての麻枝はもうどこにもいない。他人を深く信頼し、自分を抑えることのできる度量の大きさを
身に付けている。久弥の知る麻枝は、決して久弥を認めようとはしなかったのだから。
久弥が立ち止まっていた二年間で、麻枝は多くの経験を積み、成長していた。
久弥が背中を支えることも、追うこともできないほどに。
「どうして、どうして僕はあんな無駄な時間を……」
血が滲むほどに拳を握り締めても、失われた時は帰ってこない。前に進めなかった二年間は、麻枝
との溝を絶望的なまでに広げてしまっていた。
月はいつまでも空に輝いてはいない。
風はいつまでも岬に繋がれてはいない。
迎える新しい朝が月を殺し、訪れる新しい季節が風を放つ。
麻枝は気付いているのだろうか。
麻枝の目の前に広がる、新しい世界の存在を。
その世界に、久弥はいないことを。
残り五話(予定)で「さゆりん☆サーガ編」は終了です。
稚拙な文章ですが、最後までお付き合いいただければ幸いです。
>>524 「さゆりん☆サーガ編」を三月までに終了させたいと思っています。
仮想戦記スレッドはそれからも続いていきます。