灰色に塗り潰された空から、雨滴が流星群のように地面に降り注ぐ。雨のカーテンが辺り一面を覆う
様を喫茶店の店内から眺めながら、吉沢は大きく欠伸をついた。最近はまとまった睡眠を取っていない。
麻枝の企画する『さゆりん☆サーガ』はシナリオと音楽だけは順調に進んでいたが、グラフィック
と、そして何より肝心なプログラムが進行していなかった。いたる達グラフィック班はKeyの作業と
並行になるため、どうしても進行が遅れる。プログラムに至っては、ほとんど進んでいなかった。
極言すれば、紙と鉛筆さえあればシナリオは書ける。音楽の製作には機材が必要だが、それでも
ギター一本さえあれば旋律を生み出すことはできる。
だが、グラフィックとプログラムの開発にはそれなりの開発環境が必要となる。吉沢は東奔西走し、
少しでも麻枝達が満足できる開発環境を用意しようとしたが、同人レベルでできることには限界があった。
目の前のテーブルに置かれたグラスを吉沢は手に取った。氷の粒を浮かべたグラスの表面から伝
わる水の冷たさが、僅かに眠気を覚ましてくれる。水滴を浮かべたグラスの表面を眺めていると、
グラス越しに男の立つ姿が見えた。
「すいません。抜けられない仕事がありまして」
折戸は吉沢の前に立ち、頭を下げる。
「やっぱり忙しいのか? Keyの仕事は」
そう言って、吉沢はグラスをテーブルに戻す。
「……吉沢さんの考えている通りですよ」
折戸は吉沢の対面に座ると、肩についた雨滴を手で払った。外の雨足は一層強まり、時折空を切り
裂く稲光が、店内にフラッシュを焚く。
「そっちも大変なのか?」
吉沢の言葉に、節分の豆のように空からばら撒かれた雨粒の音が混ざる。
「……ええ。俺にシナリオを書くことができればって、本気で思いますよ」
呟く折戸の姿を、また稲光が照らした。
「麻枝は……そっちではどうですか? 吉沢さんとは上手くやれていますか?」
湯気を立てたコーヒーカップに砂糖を入れながら、折戸は吉沢に問う。
「ああ、俺も初めはどうなることかと心配だったんだがな。片や業界第一の売上を誇る、新進気鋭の
ブランドの立役者、片やスタッフに愛想尽かされ、上から退職勧告通知を喰らったプータローだ。
まともに俺の言う事なんか聞きはしないだろうと覚悟はしていたよ」
コーヒーを一口すすると、吉沢は続ける。
「俺の予想していた通り、麻枝は俺の言う事を聞きはしなかったな。聞く必要がなかったと言った方
が正しいな。Keyでどれだけの経験を積んできたのかは知らないが、大したもんだ。シナリオから企画
まで、全部自分でこなしている。俺が逐一指示を出していた、Tacticsの頃とは大違いだ」
「麻枝は吉沢さんを尊敬していましたから。吉沢さんの仕事を目で見て覚えていたんです。
吉沢さんのいないKeyで、自分が代わりになれるように」
吉沢は思わず苦笑した。
「とっくに追い抜かれているよ。俺にできるのはもう、音楽くらいのものだ。それだって、あいつ
に任せた方がいいかもしれない」
「音楽作りは、俺が相当しごきましたから」
折戸の口調はどこか誇らしげで、我が子を誇る父親のようだ。
「何せ『折戸伸治生涯唯一の弟子』だからな、あいつは」
吉沢が笑うと、つられて折戸も相好を崩す。向かい合って笑いあう二人を、周囲の客が怪訝そうに
眺めていた。
空は雨雲に覆われ、雨滴は途切れなく地面を打つ。いつの間にか店内は雨宿りをする人で一杯にな
っていた。コーヒーカップに満たされた黒色の液体をティースプーンでくるくるとかき混ぜながら、
意を決したように折戸は口を開いた。
「吉沢さん……麻枝をKeyに帰してやってはくれませんか」
吉沢も表情を引き締め、目の前の折戸に鋭い視線を送る。
「それは……馬場社長の命令か?」
折戸は首を振る。
「いえ、俺の独断です。吉沢さんが言うように、麻枝は今ではKeyの中心だ。あいつがいなければ、
Keyは立ち行かない。涼元悠一さんはご存知ですか? 『AIR』の開発からKeyに参加した、新人
なんですが、麻枝が社長と対立してKeyを飛び出した後、企画はその涼元さんが引き継いでいます」
「涼元悠一か……」
折戸の言葉を反芻するように、呟く。小説家として活動していながら、突如Keyに身を投じ、
麻枝と共に『AIR』を作った男。オフィシャルに公表された以上の知識を、吉沢は持ってはいなかった。
「麻枝のいない後、涼元さんは本当に良く頑張っています。でも、あの人はまだこの業界では新人
だ。独りで麻枝の代わりをやるのは、絶対に無理です。このままだと涼元さんは潰れる。いや、
自分が潰れることで、麻枝をKeyに戻させようと考えているのかもしれない」
耐えがたい結末が目の前にあるかのように、折戸は唇を噛み、拳を握り締める。
「麻枝の気持ちは俺にだって分かる。今のKeyは失う物が大きすぎて、やりたい事がやれなくなって
いるのも分かる。だが、今麻枝が戻らなければ、涼元さんはどんな手段に訴えるか分からない。
俺にはもう、あの人を止める事はできないんです」
テーブルに押し付けた拳を震わせる折戸を、吉沢はただ見詰めている。
「お願いします。麻枝を説得してください。Keyに戻ってくるように。吉沢さんの言う事なら、あいつ
は耳を傾けるはずです」
そう言って、折戸は吉沢に頭を下げた。
「お前が俺を呼んだのは、そのためか」
頭を下げる折戸に、吉沢は言った。折戸は顔を上げ、頷く。吉沢はふっと息を吐くと、静かな口調
で話し始めた。
「俺もお前と同じ意見だ。麻枝はKeyに戻るべきだ。あいつは同人ベースでゲームを作ろうとしてい
るが、あいつの企画を実現させるだけの環境は、もう同人では用意できない。麻枝が本当にやりたい
事を追求できる場所は、やはりKeyにしかないんだ」
冷めたコーヒーを一気に飲み干し、吉沢は続ける。
「麻枝の立つ舞台は、大きければ大きい方がいい。あいつの才能が飛ぶ空は、高ければ高い方がいい」
「だったら……」
喜色を浮かべる折戸を、吉沢の言葉が制した。
「だが、もう一人空を飛ばせてやりたい奴がいるんだ。俺には」
折戸ははっとしたように、表情を変える。
「吉沢さん、あんた……」
「俺はKeyの人間じゃないから、久弥がどんな事情でKeyを離れたかは知らない。久弥だってそんな事
を聞かれても困るだけだろう。だから俺は何も聞かなかった」
アスファルトを打つ雨の音は、ますます激しさを増し、窓ガラスを隔ててなお執拗に折戸の鼓膜
を震わせる。雨音に負けないようにはっきりと言葉の一つ一つを区切って、吉沢は続ける。
「久弥はいつだって独りだった。誰とも交わらず、ただ自分に課せられた役割を果たす。それはKey
に行ってからも変わらなかったんだろう。久弥は自分しか信じる事ができない。それはあいつの強さ
であり、弱さだ」
折戸はKeyに籍を置いていた頃の久弥を思い出していた。麻枝やいたるはそこにいるだけ人が集ま
るような、そんな雰囲気を持っている。彼らの周りには常に誰かがいたし、それが自然だった。
彼らを中心とした談笑の輪の中に折戸自身も在りながら、折戸は輪を遠巻きに眺めている久弥の姿を
常に意識していた。楽しげに笑う麻枝といたるを、久弥はただ距離を置いて眺め、自らは黙々とシナ
リオを書き続けた。
誰とも馴れ合わず、何にも交わらず。孤独を友とした久弥の生き方を、折戸は久弥本人が選んだも
のだと思っていた。
(だが、それは本当だったのだろうか)
久弥がKeyを離れてから、ようやくその疑問に行き着いた。遠くから送られるあの視線には、憧憬
が込められてはいなかっただろうか。黙々とディスプレイに向かうあの背中は、絶望を背負ってはい
なかっただろうか。
「二年間だ」
吉沢の言葉が、折戸の思考を遮る。
「久弥は二年間、立ち止まっていた。その間、あいつが何を思っていたかは分からない。だが、今
あいつがもう一度麻枝達とやり直したいと思っているのであれば、俺はそれを助けてやりたい。
独りで何もかもを背負い込まず、人を信頼できるように変わりたいと願っているのであれば、俺は
それを叶えてやりたいんだ」
一際強く、稲光が空を切り裂いた。一瞬の間をおいて、遠くから雷の落ちる音が聞こえる。
「久弥には麻枝が必要だ。そして、麻枝にとっても久弥はなくてはならない人間だ。一人では届かな
い場所でも、二人なら辿り着ける。お願いだ、久弥も一緒にKeyに戻れるように取り計らってくれ」
そう言うと、吉沢は両手を机に突き、折戸に向かって深々と頭を下げた。
「頭を上げてください、吉沢さん。約束します。久弥を必ずKeyに復帰させることを。もう二度と、
あいつを独りにはしません」
折戸の言葉を受けても、吉沢は額をテーブルに擦り付けた姿勢を崩さない。
「すまない、迷惑ばかり掛けて」
「何が迷惑なもんですか、俺に任せて下さい。でも……」
折戸は言葉を濁した。吉沢は顔を上げ、そんな折戸を怪訝そうに見る。
「何だ?」
「でも……吉沢さんはどうするんですか? 麻枝と久弥をKeyに復帰させ、企画を譲り渡した後、
吉沢さんはどうするつもりなんですか?」
馬場社長が吉沢を受け入れるとは、折戸には思えなかった。
「どうもしないさ。もう一度無職に戻るだけだ。風の吹くまま、気の向くままにこの業界でやってい
くさ。そして、消えるべき時が来ればそのまま消える」
平然と言い放つ。
「俺は物を創ることはできない。そんな俺がこの業界でずっとやってきたのは、才能のある奴らを
見たかったからだ。才能を持った奴らが力を合わせて、何か一つの物を創り上げていくのを見ている
だけで楽しかった」
首を曲げ、窓の外を見る。
「長い業界人生だったが、俺はお前らと一緒にいる時が一番楽しかった。短い間だったが、お前らと
一緒に仕事をしていたことを、誇りに思うよ」
窓の外の景色は未だ雨に覆われ、一筋の光も射し込みはしない。
だが、止まない雨は無いことを、吉沢は知っていた。
ちょいとペースアップしていきます。
色々と思うところがあるのですが、三月中にひとまずケリをつけたいです。