「それじゃ、僕はもう帰るよ」
開発室のドアノブに手を掛けながら、久弥は机に向かって難しい顔をしている麻枝に声を掛けた。
「ああ。ご苦労さん」
ディスプレイから目を離さずに、麻枝は応える。久弥はそんな麻枝の様子を確認すると、それ以上
は何も言わずにドアを開けた。開かれたドアの隙間から、暖かい風が流れ込んでくる。春の匂いを帯
び始めた風も、外に出た久弥がドアを閉めた音も意識の外に置いたまま、麻枝はディスプレイを睨み
つけていた。
日が沈み、街を夜の帳が包んでも麻枝は席を立とうとはしなかった。椅子に座って足を組み、キー
ボードを少し叩いたかと思えば、すぐに削除する。納得の行く文章を書けない自分に苛立ちを感じ、
眉間に寄せた皺を人差し指で押さえた。
「ちょっと休憩したら? あまり根を詰めるのはよくないわよ」
麻枝の背中に、しのり〜の声が掛けられる。振り返った麻枝の視線の先で、しのり〜が両手にコー
ヒーカップを持っていた。
「麻枝君は何も入れない派だったよね? 粗茶ですが、どうぞ」
白い湯気の立ちこめるカップを麻枝の机の上に置く。
「コーヒーなのに粗茶、って言うのもおかしな気がするけどね」
そう言って、しのり〜は麻枝の隣の椅子に腰を下ろした。
「本当に粗茶だな」
コーヒーカップに満たされた黒色の液体を一口飲んで、麻枝は呟く。
「それがコーヒーを入れてくれた同僚に対する言葉なのかな?」
「申し訳ありませんでした。大変美味しゅうございます」
微笑みは絶やさず拳を握るしのり〜に、麻枝は深々と頭を下げた。
「それにしても、来ないわね」
空になったコーヒーカップを手の平の上に乗せたまま、しのり〜は訝る。
「しのり〜のお通じか?」
すぱりーん!
コーヒーカップが麻枝の頭にヒットする。カップは砕け、散乱する破片が蛍光灯の光に乱反射した。
「のごぁっ!」
麻枝は悶絶し、床に崩れ落ちた。
「何でそこで私の便秘の話になるんじゃっ!」
「あ、頭が。カップの破片が頭に刺さって」
頭を抱え、床を転げ回る麻枝には一瞥もくれず、しのり〜は両腕を胸の前で組み、思案する。
「もういたるがここに来なくなって三日になるのよ。『CLANNAD』の仕事が忙しいのは分かるけど、
今までは一日おきにはどんなに忙しくっても来ていたのに」
「目がかすんできた……破片が脳細胞に届いていたんだ。俺はもう駄目だ。享年二十七歳。短いが、
充実した人生だったぜ……」
「『両方ともやる』ってあの子は言ったけど、大丈夫なのかな……いくらあの子が頑張っても、
独りで二つの企画の原画をやるのは、やっぱり……」
「なあ、しのり〜……俺はもう、ゴールしてもいいよな……」
足元にすがりつく麻枝の腕を蹴り払い、しのり〜は呟いた。
「みきぽんがいるから大丈夫だとは思うけど、やっぱり心配だな……馬場社長さえ許してくれれば、
私も手伝えるのに」
「人の話を聞けっ!」
「それはこっちの台詞よっ!」
「はぁ……」
しのり〜はため息を吐くと、椅子からすっと立ち上がった。麻枝は床に這いつくばった姿勢のまま、
しのり〜を見上げる。すたすたとドアの方へ歩き出したしのり〜に、麻枝は言った。
「来たのか?」
「手を洗いに行くだけよっ」
きっと振り返り、怒鳴るしのり〜に、麻枝は怪訝な表情を浮かべる。
「いや、いたるが来たのかって聞いたんだが」
「なっ……」
顔を赤く染めたしのり〜に、麻枝は続ける。
「便所に行きたいんだったら、早く行けよ。我慢は体に良くないぞ」
ぶんっ!
「おわーっ! 消火器を投げるな、消火器をっ!」
麻枝の叫びを拒絶するようにドアを叩きつけ、部屋を出た。
「もう……人を一体何だと思ってるのよっ」
苦々しげな言葉が、水を流す音にかき消される。
「いたるにもあんな調子なのかな、あいつ……」
水道水で洗った両手をハンカチで拭くしのり〜のズボンのポケットが、突如振動に震えた。
「はい、もしもし」
ポケットから携帯電話を取り出し、通話ボタンを押すと、切羽詰った声が聞こえてきた。
「しのり〜ちゃんでしゅか!? いたるちゃんが、いたるちゃんが大変なんでしゅ。もう三日も
家に帰してもらえてないんでしゅ!」
「な、何言ってるのよ。ちゃんと説明してよ。何が何だか分からないわよ」
「涼元さんが、涼元さんが原画を全部描き直すように言ってきて、いたるちゃんも嫌だって言え
ばいいのに、涼元さんの言う通りに描き直してるんでしゅ。わたしも手伝ってましゅけど、全然
追いつかないんでしゅ。このままだと、いたるちゃんが体を壊してしまいましゅ!」
「と、とにかく落ち着いて! とにかく今すぐそっちに行くから、詳しい事情はそこで話して!」
二ヶ月ぶりにKey開発室の扉を開けたしのり〜は、目の前の光景に思わず息を呑んだ。夜も更け、
静寂に包まれた開発室。その一角、いたるの机の上にうずたかく原稿が積み上げられている。椅子
に座っているいたるの姿も隠した原稿の柱は、今にも自重で崩れ落ちそうだった。
「ちょっとあんた、何よこれ?」
机の側に駆け寄ったしのり〜の声に、いたるは焦点の定まらない視線で振り返る。
「あれ? どうしてしのり〜がここにいるの?」
「どうしてって……」
「わたしが頼んだんでしゅよっ!」
二人の背中に、みきぽんが叫ぶ。しのり〜は振り返り、みきぽんに問う。
「説明してちょうだい。これは何? どうして今になって原画の描き直しなの?」
「作品の質を上げるため、では納得できませんか?」
みきぽんに代わって答えるその声の先に、涼元が立っていた。
しのり〜は一瞬躊躇したが、すぐに涼元を追及する。
「納得できませんね。いたるは今まで良くやってきています。彼女の仕事は充分に『CLANNAD』の
企画の求める水準をクリアしていますし、決して描き直しの必要があるとは思えません」
しのり〜の言葉を、涼元は冷笑で返す。
「あなたがそう考えるのは勝手ですが、現在の企画責任者は私です。私の求める水準をクリアしない
限り、樋上さんには原画の描き直しをやってもらいます」
「ですけど、今になって全部描き直しなんて無茶苦茶です! ここまで描くのだってすごく大変だっ
たのに、これ以上質を上げるなんて……」
「二つの開発ラインの原画を、独りでやろうとすることの方が無茶苦茶だとは思いませんか?」
「なっ……」
絶句するしのり〜に、涼元は言葉を続ける。
「樋上さんが麻枝さんと久弥さんの作る作品に参加されるのは樋上さんの自由です。ですが、そのた
めに『CLANNAD』の作業を疎かにするのは許しません。樋上さんがKeyにいる限り、Keyの作品の質を
上げるためにはどんな事でもやってもらいます。それが辛いのであれば、今すぐKeyを捨て、麻枝さ
んの元へ行けばいい」
「いい加減にしなさいよっ! Keyと麻枝君とを計りにかけるような事、いたるに出来る訳ないでし
ょっ! あなたはそれを承知の上で、いたるを苦しめようとしているだけじゃないの!」
しのり〜の怒鳴り声が、夜も更けた開発室に響いた。
「二人ともやめてっ!」
そう叫んで、いたるは立ち上がる。驚いたような表情を浮かべるしのり〜の腕を掴み、そのまま
廊下に出た。みきぽんも慌てて二人の背中を追う。涼元はそんな三人に冷ややかな視線を送っていた
かと思うと、いたるの机の上の原稿の一枚を手に取った。
しばらくの間原稿を眺めていたが、やがて興味を無くしたように放り出す。原稿は音も無くひらひ
らと床に舞い落ちた。
「涼元さんも酷いけど、あなたもあなたよ! あんな無茶な注文、撥ね付ければいいじゃないの。
どうして素直に従っちゃうのよ!」
廊下に引っ張り出されても、しのり〜の憤りは収まらない。
「……両方やる、って言ったのは私だから」
「あのねぇ……それとこれとは話が別でしょ。原画の全差し替えなんて、それ一本でやっていても
無茶な話よ。二つの企画に同時参加している人間なら尚更よ。そんな当たり前のこと、涼元さんだっ
て分かっているはずなのに……」
「私が麻枝君達の企画に参加するのは、Keyとは関係の無い一個人としてだから、涼元さんは悪く
ないよ」
夜の廊下は歩く者もなく、聞こえるのは二人の言葉だけだ。
「どうしても涼元さんがあなたを解放しないようだったら、私は麻枝君にその事を伝えるわよ。
麻枝君の言う事だったら、涼元さんも耳を傾けるはずよ。このまま涼元さんの言いなりになって
たら、オーバーワークで潰れるわよ、あなた」
「麻枝君にだけは言わないで。これは私が自分で決めた事だから、麻枝君に余計な心配をさせた
くない」
危惧していた通りの答えだった。しのり〜はため息を吐いて、前髪をかきあげる。
「……分かったわ。私もできる限りあなたをサポートするけど、あまり表立っては行動できない
のよ。馬場社長に睨まれているから」
そう言って、みきぽんの方を向く。
「みきぽん、あなたがいたるを助けてあげて。でも、これ以上は独りではどうにもならない、って
思ったら、すぐに私に教えて。何があってもあなた達を助けに行くから」
「修羅場をくぐり抜けてきた同僚達の友情ですか。なかなか麗しい光景ですね」
いつのまにか廊下に立っていた涼元の声に、三人ははっと顔を向ける。
「あなたが何を考えているかは知りませんが、そう簡単にいたるは音を上げませんよ。私達がついて
いますから」
しのり〜の言葉に、涼元は冷たく微笑む。
「期待していますよ、あなた方の頑張りには。Keyの今後の更なる発展のために」
不敵に言い放つと、そのまま廊下を歩いていく。乾いた足音を響かせ、小さくなっていく背中を
しのり〜はただ睨み付けていた。
まだ寒さを残した夜の廊下を、涼元は早足で歩いていく。鼓膜を震わせる自分の足音が耳障り
だったが、努めて認識の埒外に押し出すことによって不快感を取り除いた。
「分かってくれないのか、あんたは」
折戸は涼元の視線の先で両腕を胸の前で組み、廊下の壁に背を預けて立っていた。
「樋上さんに何かあれば、麻枝さんも久弥さんもこれ以上同人活動を行いはしません。Keyに帰って
くる以外に、あの人達の取る選択肢はないでしょう。樋上さんが苦しむことが、あの人達にとって
一番辛いことなのですから」
悲しげに眉をひそめ、折戸は涼元を見詰める。
「真実を知れば、麻枝も久弥もあんたを憎むぞ。あいつらは樋上を傷つける人間を絶対に許さない。
みきぽんとしのり〜も全力で樋上を守る。あんたは孤立無援だ。潰されるのは、あんたの方だ」
「……歴史がないんです、私には」
折戸から視線を反らし、涼元は俯く。苦い物を吐き出すような口調で、折戸は反論した。
「歴史が何だっていうんだ。そんなものはこれから作ればいい。一緒に仕事をしてきた時間の長短で、
信頼の深さは決まるのか?」
「……折戸さんには分かりませんよ」
それだけ言うと、涼元は再び歩みを進め、折戸の元から去っていく。
涼元の姿は明滅する非常灯に赤く照らされ、まるで血に塗れているように見えた。
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名無しさんだよもん:02/03/04 17:30 ID:sd+p0nzK
だ〜まえ&しのり〜が、イイ! ダーク・サディストな涼元ちんも、イイ!