少しずつ暖かさを増す陽光が、春の気配を感じさせる。小春日和の空の下、穏やかに時は流れ始め
ているように見えた。
「俺は今から音楽の収録に出かけるから、後は任せたぞ」
机に向かい、独りシナリオを書く久弥に麻枝は言った。
「ああ。分かってるよ」
視線はディスプレイに集中させたまま、久弥は応える。麻枝はその言葉を聞くと久弥に背中を向け、
そのまま開発室のドアを開けた。温もりを帯びた風が部屋の中に吹き込む。麻枝が外に出て、扉を
閉めると春の匂いを漂わせ始めた風だけが開発室に残り、久弥の顔をくすぐった。
「もう春が来たみたいだね」
麻枝の去った後のドアを眺めながら、いたるは久弥に言う。
「ああ。もう春だな」
久弥もそう応えた。
久弥にとって、こうして皆と一緒に仕事をするのは実に二年ぶりのことだった。この場所が出来上
がるまでには幾多の紆余曲折があり、それだけに久弥の感慨も深かった。
しのり〜が馬場の命令を受け、スパイ役として吉沢の元に潜り込んだ真実を知った麻枝の驚きは一
通りのものではなかったが、しのり〜を責めることはしなかった。さすがにスパイ役を続けることは
認めなかったが、麻枝は彼女に引き続き原画家として、企画に参加してくれることを希望した。だが、
しのり〜はメイン原画家としての誘いを強く辞退し、あくまでグラフィッカーとしていたるのサポー
トに徹することを望んだ。
しのり〜は身を引き、再びいたるが原画家として麻枝達の作品に参加することになったのである。
いたると一言二言会話を交わすと、久弥は再びシナリオの執筆作業に没頭し始めた。一度作業に集
中すると、他の事にはまるで気が回らなくなる。久弥は仕事中に無駄話をする事を好まないし、いた
るもあまり口数の多い方ではないので、必然的に沈黙が空間を支配することになる。響くのはキー
ボードの打鍵音だけだった。
一つのシーンのシナリオを書き上げると、久弥はようやく集中を解き、ディスプレイから目を離した。
椅子に座ったまま大きく背伸びをし、窓の向こうに目を遣ると、もう日は落ちかかっていた。窓から
射し込む西日が開発室を赤く染めている。
「今日の仕事はもう終わり?」
いたるの声に、久弥は窓から視線を外し、声の方へと向き直った。
「ああ。今日は結構いい感じでシナリオが書けたよ。いつもは終電ギリギリまで帰れないんだけどな」
「遅筆だもんね。久弥君は」
「威張れることじゃない」
ぶっきらぼうに答える久弥を、いたるは微笑みながら見ていた。
「久弥君は、どうしてこの企画に参加したの?」
「え?」
問い返す久弥に、いたるは言う。
「あのね……どうして久弥君は、麻枝君と一緒にやろうって思ったのかなって。それが気になって。
私には二人の事はよく分からないけど、色々あったみたいだから」
久弥の顔色を伺いながら、慎重に言葉を選ぶいたるを、久弥は黙って見詰めている。しばらくそう
していたかと思うと、すっと椅子から立ち上がった。不愉快な話題を振ってしまったかと、不安な表
情を浮かべるいたるに、久弥は言う。
「少し……外に出ないか。気分転換をしよう」
逆光に照らされた空に、バスケットボールのシルエットがきれいな放物線を描く。ボールはそのまま
ゴールネットに吸い込まれ、地面にバウンドした。
久弥に連れられ、いたるは近所の路上バスケットのコートに来ていた。長方形の空間を囲む金網が
地面に格子状の影を落としている。夕陽の赤に溶けたリングボードが輪郭を滲ませ、視線の先に浮か
んでいた。
リングの真下に落ちたボールを久弥は手に取ると、器用な手付きでドリブルを始める。そのまま
リングから離れ、さっきより遠い位置、地面に引かれた白の半円の外側まで距離を置いた。ボールを
両手で持つと、さっきと全く同じ、精密機械を連想させるフォームでシュートを放つ。夕焼けの空に
再び完璧な放物線が描かれ、ネットに吸い込まれた。
目の前の職人芸に、思わずいたるは拍手を送った。
「すごいね。昔やってたの?」
「高校の時だけだけどね。ちょっと齧った程度だよ」
ネットの真下でボールを拾い上げながら、久弥は答える。想像もしなかった久弥の一面に、いたる
は驚きを隠せなかった。
「でも、こんな遠い所からシュートが入るなんて、やっぱりすごいよ」
足元の白線とゴールリングを交互に見ながら、いたるは感嘆する。
「ちゃんと練習すれば、誰にだってできるようになる。いたるもやってみないか?」
「む、無理だよ。こんなに遠いのに、ボールも届かないよ」
「いきなり3Pはそりゃ無理だろうけど、もっと近くからなら入るぞ」
そう言って、久弥はいたるの腕を取り、ゴールリングの近くまで引っ張る。
「ここからなら入るだろう」
ボールをいたるに手渡した。
頼りなげに放たれたボールは、リングに触れることもなく失速し、地面に空しく転がっていた。
「はあ……やっぱり駄目だよ。全然関係無いところにボールが飛んでいくよ」
ゴール際の白線の上に立ちながら、いたるはため息を吐く。
「初めは誰だってそんなものさ。コツさえ掴めば、すぐに入るようになる」
久弥はボールを拾い上げ、再びいたるに手渡す。
「手投げだと入らないよ。ちゃんと膝を使って、体全体でボールを運ぶことを意識するんだ」
そう言って、いたるの膝をぽんと叩く。その言葉に従い、膝を少し曲げて下半身に力を込める
いたるに、久弥は続ける。
「うん。そうやって腰から下をちゃんと意識して、肘はもっと上げるんだ」
いたるの肘を取り、額の辺りまで上げさせる。
「こう?」
「ああ。後はしっかりとゴールを見て、そのままボールを放るんだ」
いたるは顔を上げ、視線の先にあるゴールリングを凝視する。
「えいっ」
掛け声とともに、ボールが放たれる。ボールはリングの枠に当たり、リングの上をぐるぐると
回っていたが、やがてネットに吸い込まれた。
「あっ。入った、入ったよっ」
嬉しそうにリングを指さすいたるに、久弥も表情を緩ませる。
「中々スジがいいぞ。教えられてすぐに実行に移せる奴は、センスがある証拠だ」
「教え方がいいからだよ、きっと」
「んなわけあるか」
夕陽に顔を向け、久弥は言い捨てる。地面を転がっているボールを拾い上げると、両手でくるくる
と回し始めた。
「でも……初めてだな。こうして人に教えるのなんて」
「そうなの? せっかく上手に教えられるのに」
「ああ……僕はいつも独りで練習していたからな。誰かに教えられたこともないし、誰かを教えたこと
もない。人に頼るのが嫌だったんだ、僕は」
太陽は地平線すれすれに張り付き、地面には二人の背の高い影が落ちている。
「僕は自分の技術を磨きさえすれば、それでいいと思っていた。チームメイトと一緒に練習すること
さえ意味がないように思えて、自分独りでメニューを組んで、自分勝手にやっていたんだ」
手の中でボールを転がしながら、久弥は言う。
「確かにチームで一番上手だったのは僕だった。試合で一番点を取ったのも僕だった。でも、僕は
チームにとってプラスになる存在ではなかった」
淡々と言葉を続ける久弥を、いたるはただ見詰めている。
「ある公式戦の日、僕はレギュラーを外された。代わりに入ったのは、僕よりずっと下手な後輩だ
った。ベンチに座りながら、思ったよ。『僕なしで勝てるものなら勝ってみろ』ってね。結果は、
圧勝だった。僕が試合に出るより、ずっといいゲームをしたんだ。後輩は僕より技術は拙かった
けど、他のチームメイトを信頼し、皆もそれに応えてお互いがお互いを助け合って得た勝利だった。
」
沈めた過去が今そこに映し出されているかのように、久弥は空の一点を見詰めている。
「それから僕は、二度と試合に出る事はなかった。誰とも」
「そんな……」
「いいんだ。本当の事だったんだから。それから僕は何をするでもなく高校を卒業し、この業界に
就職した。シナリオライターは独りでもできる仕事だと思ったから」
空から目を外し、久弥は地面に視線を落とした。長く延びた自分の影を眺めながら、言葉を続ける。
「それからはいたるも知っている通りだ。僕は『Kanon』を最後にkeyを離れ、独りでやっていこう
とした。同じシナリオライターとして、麻枝の存在が怖かった。僕がいなくても麻枝がいればkeyは
やっていける。そう、皆に言われるのが怖くって、自分から逃げ出したんだ。僕は変わっていないん
だよ、バスケを辞めたあの日から」
「久弥君……」
「僕は人と一緒に何かを成し遂げることができない。僕は独りでいることしかできないんだ」
辺りは次第に暗くなり、地面の影も色が薄らいでいく。
「自分から背を向けておいて、虫のいい話だとは思う。でも、もう一度だけチャンスが欲しいんだ、
僕は。プライドが高すぎて、自分以外の誰も認める事ができなかった僕だけど、麻枝だけは違う。
あいつを信頼することはできるし、あいつの言葉には従える。麻枝と一緒なら、僕は変われるのか
もしれない」
薄墨のカーテンに覆われ始めたゴールリングを見詰め、久弥はボールを構える。
「バスケをやってた頃、誰も僕にパスをくれなかった。でも、それは僕が誰にもパスを送ろうとしな
かったからだ」
ぐっと膝を曲げ、地面を踏み締める。
「僕は変わりたいんだ。人を信頼できるように。シュートを打つだけでなく、パスを送れるように」
シュートモーションから一転、素早く手首を返し、いたるの元へボールを投げた。
鋭いスナップで放たれたボールは空気を切り裂き……
べし。
「ぐあ……」
いたるの顔面にめり込んだ。そのままボールはいたるの足元に落ち、ころころと転がっていく。
「なにすんのよっ!」
真っ赤になった顔を手で覆いながら、いたるは叫んだ。
「それはこっちの台詞だっ! 僕のパスをガッチリキャッチして、『ナイスパース!』の声とともに
起死回生の逆転シュートをゴールに叩き込まないと、僕がパスを送った意味がないだろっ!」
「いきなりボールを投げてこられたのに、そんなのできる訳ないでしょっ! 投げるんだったら、投
げるって言ってからにしてよっ」
「ばかっ、投げるって言ったらパスにならないじゃないか。敵にカットされてしまうだろ」
「どこに敵がいるのよっ」
「練習は常に敵がいることをイメージするもんだ」
「何でいきなり練習を始めるのよっ」
夜に包まれ始めたバスケットコートで、二人は互いに文句を言い始める。
空に浮かぶ月だけが、そんな二人を見下ろしていた。