暮れかけた冬の陽が、空を赤く染める。ブラインド越しに射しこむ西日が、開発室の床に背の高い
影を落としていた。時計の針は丁度五時の位置を指差している。
「それじゃ、お先に失礼します」
タイムカードを機械に通し、樋上いたるはまだ仕事を続けているスタッフ達にぺこりと頭を下げた。
丈の長いコートを羽織り、ドアのノブを開けて寒風の吹く外へ出ようとするいたるを、みらくる☆
みきぽんが呼び止める。
「ちょ、ちょっと。すぐに仕事上がりましゅから、少し待っていてください。わたしもいたるちゃん
と一緒に行きましゅ」
「もう……早くしてよ」
苛立たしげに床をつま先で叩く。みきぽんは慌ててディスプレイに向かい、キーボードを叩く。
作業中のファイルを保存し、共有フォルダに送った。
「涼元さん、画像のファイルを送っておいたんで、見ておいてください」
丁度対角線上の位置にある机に向かい、声を掛ける。
「はい、どうもありがとうございます」
PCに隠れて顔は見えなかったが、声だけが返ってきた。みきぽんは椅子から立ち上がり、身支度
を整えると、いたるがさっきそうしたようにタイムカードを機械に読み込ませた。
「じゃあ行くよ。時間無いんだから、私たちは」
みきぽんがタイムカードを通したのを確認すると、いたるはすぐに背中を向け、部屋から出て行く。
「わっ、待ってください〜」
いたるの背中を追って、みきぽんもすぐに部屋を飛び出していく。
業務用のヘッドホンを耳にあて、聴覚は音楽の製作作業に集中させたまま、折戸伸治はそんな
二人を無言で見送った。
冬の夕焼けは短い。空を包んだ赤の帳はあっという間に暗闇に塗り潰され、月と星が今日も夜を
彩っていた。だが今の涼元は星月に思いを馳せることはない。空を見上げる心のゆとりなど、今の
涼元には贅沢が過ぎた。
涼元は今日も開発室に篭り、キーボードを叩き続ける。窓から微かに聞こえてくる街の喧騒も、
涼元の興味を惹くことはなかった。
ディスプレイを凝視する瞳は赤く充血し、眉間には皺が深く刻まれている。瞬きする間も惜しい
ように目を見開き、キーボードを叩き続ける涼元の手が突如止まった。
「……っ!」
胃の奥からこみ上げてくる嘔吐感に、思わず口を押さえる。口を押さえたまま立ち上がり、トイレ
へと走った。
「……」
ヘッドホンを耳から離さず、音の世界に心を浸したまま、折戸は視覚だけで涼元の姿を捉える。
「げほっ……」
洋式便器に涼元は反吐をぶちまけた。饐えた臭いが口中に充満し、より一層吐き気を募らせる。
便器の縁に手を掛けて身体を支えながら、咳き込むようにして何度も胃液を吐き出した。
「はぁ……はぁ……」
吐き出す物を全て吐き出し、ようやく嘔吐が収まった。口元にこびり付いた飛沫を袖で拭う。
「体力が無いな……私は」
自分のひ弱さを呪うように呟いた。麻枝のように連日連夜、徹夜で作業をこなすタフネスは自分
にはない。元々会社勤めに耐えられるほど身体が頑強にはできていないのだ。涼元が自分のペース
で仕事を進めることができる小説家という職業を生業とした理由は、そこにもあった。
「麻枝さんは私にkeyを任せてくださったというのに……情けない」
『CLANNAD』のシナリオ作業は現在涼元がほぼ全てを取り仕切っている。涼元の作業の遅れは、その
まま『CLANNAD』全体の作業の遅れとなる。
涼元は連日開発室に泊り込み、膨大な量のシナリオを執筆していた。それは独りで石を積み上げ、
巨大なピラミッドを作ろうとする行為と同じだった。いくら積み上げても完成は遠く、苦役の果てに
背中は軋み、腕は折れる。
こみ上げる絶望と疲労に、涼元はもう一度嘔吐した。
洗面所で顔を洗い、ようやく気分を落ち着かせると涼元は開発室に戻った。自分の机に向かい、
再びシナリオ執筆に入ろうとする涼元の背中に、声が掛けられる。
「涼元さん。少し休憩しないか? 俺にはシナリオの事は全く分からないが、そんな風に気を張るば
かりでは書ける物も書けないだろう」
コーヒーカップを両手に持ちながら、折戸は言う。
「はい……ですが、私はコーヒーはちょっと……」
白い湯気を立てるコーヒーカップから目を反らす。
「あ、これは違いますよ。牛乳を温めてみたんだ。胃が荒れている時はこういったものの方がいい
と思ってな……」
そう言って、コーヒーカップを机の上に置く。カップの表面に白い膜が張っていた。
涼元は一瞬自失したように、折戸を見詰める。
「あ、もしかして涼元さんは牛乳が嫌いだったか?」
視線を受け、折戸は慌てて言う。
「いえ、そんなことはありませんが……」
涼元の言葉に、折戸はほっと胸を撫で下ろす。
「なら良かった。じゃあちょっと休憩にしましょうか。俺もいい加減うんざりしていた所なんだよ。
この残業地獄は」
椅子に腰を下ろす折戸に従うようにして、涼元も席につく。
白い湯気の立つコーヒーカップから、牛乳の匂いが漂ってきた。
「涼元さん……あんた身体は大丈夫なのか? 最近はまともに家に帰ってもいないだろう?」
コーヒーカップに口をつけたまま、折戸は問う。
「開発が修羅場に入ればこうなることは初めから分かっていましたから」
カップを両手で包み込むようにしながら、涼元は答えた。
「……あんたばかりキツイ仕事をやらせることになって、本当にすまないと思っている。俺にも
シナリオが書ければいいんだが、土台無理な話だからな」
「折戸さんには音楽を作るという大事な仕事があります。私はシナリオしか出来ないんですから、
シナリオを書くのに全力を尽くすのは当然のことです」
淡々と言葉を続ける涼元に、折戸は頭を下げた。
「すまない。あいつがkeyを飛び出すのを止めていれば、あんたがこんな苦労を背負い込むことは
なかったんだ。あの時、ぶん殴ってでもあいつを止めていれば……」
「あの時の麻枝さんを止めることは折戸さんでも無理だったでしょう。製作方針の対立は根本的
な問題です。社長か麻枝さんのどちらかが折れる事以外に、あの事態を治める方法はなかった」
「ったく、あいつは本当に要領悪いんだからな……」
ぼりぼりと頭を掻く折戸を見て、涼元は堪えられなくなったように、一つの問いを発した。
「麻枝さんは……戻ってくるでしょうか」
絞り出された問いの言葉に、折戸はすぐに答えを返すことができない。しばしの逡巡の後、ようやく
言った。
「ああ。あいつは社会不適合者だが、keyに関してだけは責任感を持っている。自分が作ってきた
keyという場所を自分から放り出すような真似は、絶対にしない」
「今のkeyは本当に麻枝さんが大切に思うkeyなんでしょうか? keyを創り、育て上げてきた人達は
今はもうここにはいないんです。麻枝さんと久弥さんとが一緒に作品を作る場所が他にあるのなら、
その場所こそkeyと呼ぶべきなのではないでしょうか」
「あんた、知っていたのか……あいつらが今行動を共にしていることを」
「はい」
折戸も涼元も麻枝と久弥が行動を共にしていることはかなり早くから知っていた。それを誰にも
打ち明けなかったのはひとえにkeyスタッフの動揺を恐れてのことである。二人が特に恐れたのは
樋上いたるがその事実を知ることであった。事実を知ってしまえば、彼女がkeyを飛び出し麻枝達
の元に身を投じることは明らかだった。
秘密が洩れることを恐れた結果、折戸と涼元は互いに相談できる相手を失っていたことになる。
「私は樋上さんがこの事を知れば、きっとkeyを飛び出して麻枝さんと久弥さんの元へ行ってしまわ
れるだろうと考えました。だから誰にも知らせず、秘密にしておいたんです。でも、樋上さんはもう
この事を知ってしまった」
「ああ。あいつが今朝馬場社長の所へ直談判に行ったのは、その事についてだろう」
「麻枝さんもいない。久弥さんもいない。樋上さんまであちら側へ行ってしまわれた。本当のkeyは
もうここにはないんです」
涼元の手が震え、握り締めたコーヒーカップの水面がさざなみに揺れた。こんな風に感情を露に
する涼元を、折戸は知らない。一本気で直情な麻枝を後見する、冷静無比な補佐役としての涼元しか
知らなかった。
折戸は思わず立ち上がり、涼元の肩を掴んだ。驚いて顔を上げる涼元に、折戸は言った。
「いや、それは違うぞ。麻枝がいなくなろうが、樋上が飛び出そうがここはkeyだ。あいつらが血の
滲むような思いでここまで大きくしてきた、家みたいなもんだ。親父と喧嘩したガキが勢いに任せて
家を飛び出したからって、そいつはもう二度と家には帰ってこない訳じゃないだろう? 日が沈んで、
腹が減ったら、ばつの悪そうな顔して玄関前をうろうろするんだ。それと同じだ。麻枝は必ず帰って
くる。あのデカイ態度は相変わらずで、でも少しだけ申し訳無さそうに頭を掻きながら、この部屋の
ドアを開けるんだ」
そう、一気にまくしたてた。涼元は何も答えず、ただ呆然と折戸の顔を見ている。
はっと我に返り、涼元の肩から手を離した。涼元は再び頭を垂れ、コーヒーカップの水面に視線を
落とす。不意に訪れた沈黙の隙間を、時計の音だけが埋めていた。
折戸は椅子から離れ、窓に向かって歩き出す。ブラインドの羽根に指を引っ掛け、外の景色に目を
遣った。
「麻枝も久弥も必ず戻ってくる。樋上はきっとそのために二つの開発ラインに参加する決意をしたんだ。
keyを捨て、あいつらで新しいブランドを作るためじゃない。麻枝と久弥を助け、二人がもう一度
一緒に仕事ができるように、力を貸そうとしたんだ。必ず、皆帰ってくる。信じてやってくれ」
涼元に背を向け、外を向いたまま折戸は言う。窓ガラスに反射して映る涼元の姿が、いやに小さく
見えた。
「どうして……信じられるんですか。久弥さんと私とを計りに掛ければ、麻枝さんはきっと久弥さん
を選ぶでしょう。樋上さんもそうです。現実に今、そうなってるじゃないですか」
途切れ途切れの言葉を背中で受け止め、折戸は答えた。
「俺はあんたより少しだけ長くあいつらの事を知っている。あんたの知らない麻枝を、俺は知っている
んだ。だから、信じてくれ」
ブラインドから指を離し、目を伏せる。例え窓ガラスの映し絵でも、今の涼元を見るのは辛かった。
背中の向こうから押し殺した声が聞こえてくる。折戸は自分の鋭敏な聴覚をやり切れなく思いながら、
ブラインドの羽根を手で握り締めた。羽根と羽根の隙間から雲ひとつない夜空が広がる。
「麻枝、久弥……お前らを待っている人が、ここにいるんだ」
折戸は星に語りかけるように、呟いた。
「だから早く帰って来い。馬鹿野郎」
言葉は夜に飲み込まれ、聞く者もなく溶けていく。
折戸カチョイイ