「何やて。もう一遍言ってみぃ」
馬場社長の口から吐き出される低音が社長室の空気を震わせる。
「はい。私は麻枝君達が同人でやろうとしている企画に、原画家として参加します。keyの名前は
一切出さない、一個人としての参加です」
鋭利な刃物を思わせる馬場の鋭い視線を真正面で受け止めて、樋上いたるは質問に答えた。
椅子に腰を下ろしたまま、馬場は目の前に立ついたるを睨みつける。
「君が同人やろうが、何やろうが、それは君の勝手や。せやけど、keyはどうするつもりや。『CLANNAD』はもう開発の真っ最中や。麻枝だけでなく、君までkeyを飛び出したら、間違いなく『CLANNAD』は潰れるで。それはkeyが潰れるっちゅうことと同じ意味や」
普段の軽妙な口調からは想像もつかない、どすの利いた声を吐き出す。聞く者を窒息させるような
重苦しい言葉にも動じず、いたるは独り、直立を保った。
「『CLANNAD』の作業は当然続けます。私が麻枝君達の企画に参加することで、keyに迷惑を掛ける
ようなことは絶対にありません。今までと同じように『CLANNAD』の開発を進行させれば、何の問題
もない。そうでしょう?」
「一度に二つの開発ラインの原画ができるようなタマか、君が。両方潰すんがオチや」
いたるは何も答えない。視線は動かさず、真っ直ぐに馬場を見据えたまま、固く口を結ぶ。
沈黙が重石となって肩に圧し掛かってくるようで、馬場は内心舌打ちした。keyにおいて馬場との
折衝は、主に麻枝の役目だった。麻枝は鼻っ柱が強く狷介で、容易に馬場の意向に従わない男だが、
直情的で一本気でもある。独立心旺盛なクリエイターを巧みに操縦し、熾烈なシェア争いを勝ち抜いて
きた馬場には、麻枝のような手合いは腹中が容易に読め、却って扱いやすかった。
麻枝がkeyを離れている今、馬場とkeyの現場を繋ぐホットラインは折戸と涼元が握っている。
二人とも麻枝に比べれば表裏を使い分けることはできるが、それだけに直線的な押しの強さがない。
馬場にとって、keyをコントロールすることは実に容易なことのはずだった。
「答えられへんのか。そらそうやろ。身の程を知っとったら『できます』とは言えんわな」
苛立ちを気取られないように、意識して嘲笑う。
馬場は確かに動揺していた。麻枝達の背中に守られ、自分は矢面に立つことのなかったいたるが
過酷な状況に自らを置こうとしていることに。最も御しやすいスタッフだったはずの彼女が今、
馬場に反抗をしようとしていることに。
「君に二つの開発ラインをこなす器量があるとはとても思えん。どっちつかずになって、両方の企画
を台無しにするのが目に見えとるわ。麻枝がそれを受け入れると思うとんのか?」
動揺を振り払い、さっきと同じ言葉を繰り返す。馬場の言葉に反論せず、沈黙を保ち続けていた
いたるだったが、馬場が言い終わるとようやく口を開いた。
「私では力不足だとおっしゃるんですね。私独りではどちらも守れないと」
「そうや。君では無理や。君は『CLANNAD』に専念せなあかん。麻枝達の原画は他の人がやるべきや」
「だから、あの子を使ったんですか? keyから追い出してまで」
視線が険を増した。馬場は平然とその視線を受け流す。
「そうや。麻枝は俺の部下や。同人とはいえ、部下の仕事の管理は上司として当然の責任や」
「あの子にスパイ役をやらせてまで、そんなに企画を手に入れたいんですか?」
「当たり前やろ。俺は麻枝を高く買ってるんや。ええ企画を立てている間は、俺は麻枝を手離しは
せぇへんで」
「あなたが何を考えていようが、何をやろうがあなたの勝手です。私にはどうすることもできません。
私だって、あなたに雇われている身ですから」
そこで言葉を区切り、目をつむる。一呼吸を入れると再び目を見開いた。
「でも、これ以上しのり〜にスパイ役をやらせはしません。あの子を、これ以上の辛い目に遭わせ
はしません。あの子を再び傷つけようとすれば、私はあなたを許さない。そして、麻枝君と久弥君
もあなたの思いのままにはさせない」
気圧された馬場は呆然といたるを眺める。銃弾を装填されたリボルバーは安全装置を解除され、
引き金の引かれる、その瞬間を待っていた。緊張が臨界を突破し、まさに暴発しようとするその
瞬間、いたるが再び口を開いた。
「私はkeyのリーダーです。keyのスタッフを守るのは、リーダーとして当然のことです」
それだけ言うと、身を翻して歩き出す。
そのままドアを開き、社長室を出た。
「男侍らせてにこにこ笑ってるだけのお姫様かと思っとったが、見くびりすぎやったかも知れんな」
いたるの去った社長室で、馬場は独り呟く。椅子に背中を預け、天井を眺めた。
「keyのリーダー、か……お手並み拝見と行かせてもらおか」
天井に備え付けられた蛍光灯が白く光を放ち、柱時計が規則正しく音を刻んでいた。
「ふう……」
社長室の扉を閉め、廊下に出たいたるは力が抜けたようにため息を吐いた。膝がまだ震えていて、
自分の身体の一部でないみたいだった。左胸にあてた手の平に早鐘のような心臓の鼓動を感じる。
社長に面と向かってあんな事を言ったのは初めてだった。社長室にいる間中、氷の刃を喉元に
突きつけられているようだった。馬場から目を反らさず、真正面を向いたままでいられたことさえ
奇跡に思える。
「麻枝君はいつもあんな風にして、社長と議論を交わしていたんだ……」
たった一回のやり取りで、いたるは神経を消耗し尽くした。角を突き合せ、互いの身を削るような
遠慮の無い意見のぶつけ合い。あんな神経戦が日常だなんて、考えるだけで恐ろしい。
「……でも、これからは私がやらなきゃいけないんだよね」
そう、自分に言い聞かせる。心に剃刀をあて、緊張を常に維持する。そうしなければ馬場と対峙する
ことなど出来る訳がない。そして、それが出来なければ、結局自分はただのお飾りのままだ。
いたるは表情を引き締め、震えの止まない脚を拳で叩いた。まだ笑っている膝に力を込め、廊下
の床を踏み締める。顔を上げ、開発室へ戻るべく背筋を伸ばして歩き出した。
真っ直ぐに歩き始めたその背中に醒めた視線を送る、涼元の姿には気付かずに。