砂場で遊ぶ子供達の姿も絶えた公園はひっそりと静まり、休日の昼間の光景とはとても思えない。
静寂に包まれた公園の一角で、しのり〜は何をするでもなくブランコに座っていた。ぶら下げられた
鎖を握り、地面を軽く蹴る。錆びつき混じりの摩擦音とともに、木製の椅子が前後に揺れる。ゆっく
りと上下する視点の先で、裸の枝を晒した木々がじっと春を待っていた。
「はぁ……」
白い息とともに、呟きが口から洩れ出る。
「何やってるんだろう、私……」
ブランコは往復運動を繰り返し、決して前には進めない。前進したと思ったら、その時には既に
後退を始めている。自分も同じだ。終わりの無い過ちと後悔の揺りかごに乗り、進める場所なんて
どこにも見つからない。
あの時、いたると麻枝の間を割り込むようにして開発室を飛び出した時、しのり〜は二人の顔を
見ることができなかった。一番知られてはいけない人と一番知られたくない人。稚拙な虚構の崩壊
は想像よりずっと早かった。
北の方向から乾いた風が吹き寄せた。しのり〜は自分で自分を抱き締めるように両腕を胸の前で
組み、寒さを凌ぐ。とてもそんな余裕はなかったとはいえ、コートを着ずに出てきたことを後悔し
た。暖かな陽光は今はもう初春かと錯覚するほどだったが、風はまだ冷たい冬のままだ。
セーターの生地にすがりつくようにして身体を丸め、しのり〜はじっと風が通り過ぎるのを待った。
顔に風が触れないように俯き、首を縮めて椅子に座っているしのり〜の視線の先にすっと影が差す。
しのり〜はゆっくりと顔を上げ、目の前に立つ樋上いたるを見た。
「こんな所にいたんだ、探したんだよ」
さっきまで全力疾走していたのだろう、いたるは動悸の治まらない胸に手を当て、白い息を吐き出
している。しのり〜は返事をせず、ただブランコが揺れるのに身を任せていた。
「……教えられないことなの、私には?」
いたるの言葉には紛れも無い悲しみの響きがあり、しのり〜は肺をわしづかみにされたような息苦
しさを覚えた。自分はいたるが好きなのだ。keyの皆がそうであるように。馬場の言うとおり嫉妬し
ているのかもしれない、取って代わってやろうという野心があったのかもしれない。それでもしのり〜
はいたるのことが好きで、笑顔でいてほしかったのだ。
しのり〜は意を決したように立ち上がり、目の前に立ついたるを見詰めた。いたるもいつになく
毅然とした表情で、しのり〜の鋭い視線から目を背けない。
「あなたに知られることを馬場社長は一番恐れていたんだけど、何を言っても今更ね」
寒さに白くなった唇から淡々と言葉が放たれる。
「いいわ。教えてあげる、私が知っていることの全てを」
それからしのり〜はkeyを離れた麻枝が吉沢の元に身を寄せ、孤立を強いられていた久弥と再び
協力し、独自に作品を創ろうと動いていることを説明した。さらに馬場が麻枝の作品を奪い取り、
利益を独占しようと画策していることを伝え、そしてしのり〜がスパイ役として吉沢の元に送り込ま
れたことを説明した。
いたるは一言も口を挟まず、しのり〜の言葉に耳を傾けていた。しかし、しのり〜の説明が進む
につれ顔色が変わり、馬場がしのり〜をスパイ役に利用しようとした件に説明が及ぶと色をなして
しのり〜に詰め寄った。
「それって、どういうこと? 馬場社長は麻枝君と久弥君を利用するだけ利用して、使い捨てにする
つもりなの?」
「違うわ。社長は麻枝君だけはまだ利用価値があると考えているわ。でも吉沢さんと久弥君は要らな
い。二人を捨て石にして、麻枝君と作品だけを手に入れようと考えているのよ」
「そんな酷い話ないよっ! 麻枝君だって、吉沢さんと久弥君を切り捨てて、自分だけ生き残ろうな
んて考えるはずがないよっ!」
「その通りよ。だから私を原画家として麻枝君の企画に参加させたのよ。原画家がいなかったら、作品
は絶対に完成しないからね。私を通じて作品作りに介入しようとしたのよ、馬場社長は」
「どうして、どうしてしのり〜がそんなことをしなくちゃいけないの? 麻枝君達を裏切ることに
なるんだよ?」
いたるはしのり〜の肩を両手で掴んだ。
「仕方ないじゃない。私が引き受けなかったら、馬場社長は吉沢さん達ごと企画を潰すつもりなのよ。
自分の意に従わない人間は、例え麻枝君だって容赦しないわ」
一際冷たい風が吹き、二人の身体から熱を奪い去っていった。中天から降り注ぐ暖かな陽光も、
もう二人に温もりを与えはしない。
「……どうして私に相談してくれなかったの?」
いたるの問いに、しのり〜は自嘲交じりに答える。
「あなただけは巻き込みたくなかったのよ。私一人で解決できる問題なら、私一人だけが抱えていれ
ば済むことでしょう?」
「そんなに……そんなに信用できなかったの? 私のことが」
肩を掴む腕に力が込められる。決して強くはない力だが、しのり〜はまるで肩に重石を乗せられた
ように感じた。しのり〜はただ沈黙し、いたるから視線を反らすことしかできなかった。
「私はしのり〜のことをずっと友達だと思ってた。一緒に絵を描いて、グラフィックの仕事をして。
辛いことや泣きたいこともあったけど、しのり〜と一緒なら大丈夫だって、そう思ってた」
(やめて)
耳を塞ぎ、叫び出したくなる衝動をしのり〜は懸命に堪えた。いたるは震える声でなおも互いを
傷つける言葉を重ねる。
「麻枝君と久弥君だってきっとそうだよ。言葉には出さないけど、しのり〜のことを本当に信頼し、
大切に思ってる。そうじゃなかったら原画家として受け入れようとするはずがないよ」
「……うるさい」
「どんな理由があったって、しのり〜は麻枝君と久弥君の信頼を裏切ろうとしていることには変わり
がないんだよ。やり直そうとしている二人を。もう一度、一緒に力を合わせて頑張ろうとしている
二人を」
「うるさいっ! あんたにそんな事言われたくないわよっ」
しのり〜の叫び声が人気の無い公園に響き渡った。肩を掴む手を振り払い、いたるを睨む。
「麻枝君と久弥君の信頼を裏切っていることなんて、私にだって分かってるわよっ。じゃあ、あんた
はどうなのよっ。二年前、keyで孤立した久弥君を、どうしてかばってあげなかったのよっ。二ヶ月
前、社長と対立してkeyにいられなくなった麻枝君を、どうして助けてあげなかったのよっ。二人は
あんたのことを本当に想っているのよ。あんたのためだったらどんな辛い事だって平気な顔をして
引き受けるわ。そんな二人に、あんたは何をしてあげたのよっ。自分からは何もせず、ただ守られて
いるだけだったじゃない。そんなあんたの代わりに、二人の気持ちに応えようとしなかったあんたの
代わりに、例えそれが偽りのものだとしても、私が二人のそばにいようとして何が悪いのよっ!」
一気にまくし立てると、口を押さえて喉からこみ上げる嗚咽を堪えた。
いたるがすっとしのり〜に近づいた。しのり〜は思わず一歩退いたが、いたるはそれにも構わず
近づき、腕を伸ばす。
「ごめんなさい」
そのまましのり〜の背中に両手を回し、強く抱き締めた。
女性としては長身のいたるに抱き寄せられ、しのり〜はいたるの丁度胸元の位置に顔を埋める。
鼓動が直接耳に届き、コートの生地越しに体温が伝わってきた。
「何で……何であんたが謝るのよ。酷い事を言ったのは私でしょっ。私はあんたを侮辱したのよ。
汚い言葉であんたを罵って、傷つけようとしたのよ。どうしてあんたが謝るのよ?」
胸元に顔を埋めたまま、しのり〜はくぐもった声を漏らす。
「だって、泣いてるんだよ」
「え?」
驚いて顔を上げる。視線の先でいたるが目に涙の粒を浮かべていた。
「ずっと泣いてるんだよ、しのり〜は。一人でブランコに座っていた時から、ずっと」
はっとして、頬に手をやる。暖かい液体の感触が手の平にあった。
「ごめんね。しのり〜にだけ悲しい思いをさせて、本当にごめんね」
もう一度、強く抱き寄せられた。さっきより確かにいたるの体温を感じる。
温もりが寒さに凍えた身体に沁み込むようで、優しさが渇いた心に触れるようで。
しのり〜は泣いた。
「もう落ち着いたわ。ありがと」
ひとしきり泣いた後、しのり〜は顔を上げ、いたるの身体を押し返した。頬が熱を帯び、赤く染ま
っているのをが自分でもわかる。
「ごめんなさい。服、汚しちゃったね」
腫れた目を擦り、鼻をすすりながらいたるに謝る。
「いいよ、そんなの」
いたるは微笑んで返答する。しのり〜もつられて顔をほころばせた。張り詰めた空も表情を緩めた
ような、そんな気がした。
「しのり〜」
テレビのチャンネルを切り換えるように、口調が真剣なものに変わる。しのり〜は表情を引き締め、
いたるの言葉を待った。
「潰させないよ。麻枝君も、久弥君も。馬場社長がどんな手を使うのかは分からないけど、絶対に二人
を潰させはしない」
「あなたがそう言うのは分かっていたわ。でも、どうやって? 馬場社長の計画を阻止したければ、
スパイ役の私が任務を放棄すればいいわ。でも、それだと原画家がいなくなっちゃうのよ。誰か
原画家になれる人がいないと、麻枝君達の企画はやっぱり潰れてしまう」
「私がやるよ」
「あんたねぇ……」
しのり〜は頭を抱える。やはり彼女は馬鹿なのだろうか。
「あんたが麻枝君の所に行ったら、keyはどうなるのよ。『CLANNAD』はもう発表しちゃってるのよ。
今更『原画家が辞めたので、製作中止です』なんて言える訳ないでしょ」
「両方やるから大丈夫だよ」
「え?」
彼女はしのり〜の想像を遥かに越える馬鹿だった。
「『CLANNAD』は絶対に完成させるよ。納期も守るし、バグも残さない。誰も文句の言えない、完璧
な作品にして送り出すよ」
いたるの表情は毅然としてまっすぐで、その瞳には一片の曇りもない。
「でも、麻枝君達の作る作品にも参加する。私だって麻枝君や久弥君と一緒に作品を作りたいから。
もちろん、しのり〜も一緒だよ。社長のスパイなんかじゃなくって、自分の意思で麻枝君達と一緒
にゲームを作ろうよ。それで社長がしのり〜に何かしようとしても、私が絶対にやらせない。これ
以上、しのり〜に辛い役目は背負わせないよ」
空の中心から少しだけ西に傾いた太陽が雲間から顔を出し、光の道しるべを地面に指し示す。
「しのり〜の言う通りだよ。私は皆にずっと守られてきた。でもこれからは違う。これからは私が皆
を守りたい」
そう言って、しのり〜の手をぎゅっと握る。
陽光をその身に浴び、いたるの姿が柔らかな光の衣に包まれているように見えた。
「だから、あなたを守らせて」
しのり〜は眩しいものでも見るかのように目を細め、ただいたるを見詰めていたが、やがてため息
を交えて微笑んだ。
「あなたには本当に敵わないわね。負け戦なのは初めから分かっていたけど、やっぱり悔しいな」
「ふふ。そうでもないよ。しのり〜の塗りがないと私の原画はだめなのは、しのり〜がいなくなって
すぐに思い知らされたよ。スパイ役に社長が抜擢するほどだもん。油断していたら原画家としても
追い抜かれちゃうよ。負けないからね」
ぐっとガッツポーズを作るいたるに、しのり〜は苦笑した。
翌日、しのり〜が吉沢達の開発室に顔を出したのは夕刻になってからだった。
しのり〜が開発室を飛び出した後、残された吉沢は麻枝と久弥に真相を告げただろう。あの状況
を説明するには、真相を全て伝える他ない。覚悟していたこととはいえ、裏切り行為が明るみに出た
翌日の朝に堂々と顔を出す勇気はなかった。
雑居ビルの狭い階段を上がり、開発室の扉の前に立つ。ドアノブを握る手が震えたが、やがて
意を決してドアを開いた。
目の前の光景に、しのり〜は唖然として驚きを隠せなかった。
「しのり〜ちゃん、遅刻は駄目でしゅよ。もう『さゆりん☆サーガ』の開発は始まってましゅ。
そんないい加減な態度では困りましゅ」
机の上のダンボール箱から荷物を引っ張り出しながら、みらくる☆みきぽんはしのり〜の遅刻を非
難する。二の句が継げず、呆然としていたしのり〜だったが、すぐに我に返った。
「何で、何でみきぽんがここにいるのよ!?」
「変な事を言いましゅね、しのり〜ちゃんも。わたしたち三人が一緒にいるのは当たり前でしゅよ。
しのり〜ちゃんといたるちゃんだけこんな楽しそうな事に参加して、わたしを除け者にするなんて
許さないでしゅ」
「ごめん、しのり〜……バレないようにしようと思ってたんだけど、みきぽんに見つかっちゃって……」
いたるは申し訳無さそうに頭を下げたが、見え見えの嘘だった。いたるはみきぽんも誘ったのだ。
もう一度、皆が同じ空間を共有するために。同じ苦しみを背負い、同じ喜びを分かち合い、同じ夢
を追うために。
それが、ここにいる全ての人の願いだと信じたから。どんな障害があろうとも、皆でなら乗り越え
ていけることを信じたから。
「あなた達、本当にばかね」
しのり〜は俯き、目頭を指で押さえる。
「ひどいでしゅ。わたし達がばかなら、しのり〜ちゃんは大ばかでしゅ」
みきぽんが頬を膨らませる。
「そうね、皆ばかよ。大ばかよ」
しのり〜は顔を上げ、目をこすりながら、微笑む。
「でも、私はそんなばかな、あなた達が大好きよ」